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私の姉は、きれいなクズ  作者: 水上栞
第二章/運命の王子様と下僕とエロス
11/49

6・アガペーとエロスと「A・Y」の秘密


1999年6月25日(金曜日)



 絢華の作戦は、期待した以上の大成功を収めた。教室に戻って鞄から飛び出したコンドームを発見した生徒たちは、柴崎を「コンドーム女」と名付けて囃し立てた。本人は濡れ衣だと泣きながら釈明したが、とうとう親が呼ばれて注意を受ける羽目になったらしい。


 しかし、絢華の追撃はまだ止まらなかった。一度の噂なら消えてしまうが、繰り返せば人物評は地に落ちる。絢華は柴崎の息の根を止めるべく、学校帰りの彼女を執拗に尾行した。


 柴崎里美は背が高く、少しエラの張ったシャープな顔立ちだ。丸っこい元カノの松本とは全く逆のタイプで、絢華の採点では顔が4でスタイルは6。どちらにしても、絢華の足元にも及ばない雑魚である。


 柴崎が駅前のドラッグストアに入るのを見て、絢華は1分遅れて店内に入った。柴崎は洗顔料の棚の前で、あれこれ物色している。絢華はそれを横目で確認して奥のコーナーへ向かった。そして洗顔料の棚へ近づくと、柴崎の真後ろをゆっくりと通り過ぎた。



「あ、すいません」



 通路が狭いため、すれ違いざまにお互いの荷物がぶつかり、絢華が頭を下げる。柴崎も軽く目礼をして、そのまま絢華は店の外に出ていった。騒ぎが起こったのは、それから数分後である。柴崎が店の外に出た瞬間、ドラッグストアの店員が背後から声をかけた。



「失礼ですがお客さま、バッグの中身を拝見してもよろしいですか」




 柴崎は、万引きの現行犯で停学処分になった。体操着を入れるサブバッグの中に、未精算の商品が入っていたからだ。柴崎は盗んだことを頑なに否定したため、店側が制服から判断して学校の教師を呼んだ。そして最終的には親にも連絡がいき、店の奥の事務室で聞き取りが行われたのだ。



「そうは言っても、実際にあなたのバッグに入ってたんですよ。私が声をかけなければ、家まで持って帰ったわけでしょう? それはうちからすれば、窃盗になるんです」


「でも、ほんとに……私は盗んでない!」


「申し訳ございません。代金はお支払いしますし、私どもでよく言って聞かせますので」



 涙でぐちゃぐちゃになった娘の横で、柴崎の母親が必死に頭を下げる。結局、万引きの前科はなさそうなので放免となったが、学校は規則に従って処分を行った。こうなると、柴崎は3年生だがもはや受験どころではない。しかもバッグから出てきた品物が、事もあろうに「妊娠検査薬」だったのだ。先日のコンドームの件もあり、学校で親を交えての生活指導が行われることはまず間違いない。



 あの日、絢華は女性用品の棚で妊娠検査薬を手に取り、それを隠し持って柴崎に近づいた。そしてすれ違う際にぶつかったふりをして、サブバッグに商品を滑り込ませたのだ。万引き名人の絢華だからできる瞬間芸である。さらに、店を出る際にレジの店員に「奥の女子高生が万引きしている」と知らせておいた。それを受けて、店長が柴崎を呼び止めたのだ。






 竹下から「柳瀬と柴崎が別れた」と聞いたのは、それから数週間後のことだった。本人は最後まで万引きも妊娠も否定していたらしいが、噂は面白おかしく脚色され全校に広まった。そして学校に居づらくなった柴崎は、隣の市の私学に転校することになったという。


 柳瀬も交際相手ということで、学年主任から厳しく追及されたそうだが、付き合い始めてから日が浅く、避妊具を使うような関係には至ってなかったらしい。竹下情報によると柳瀬は、コンドーム事件のときは柴崎をかばって無実を訴えていた。しかし、妊娠検査薬の万引きはさすがに許容範囲を超えていたようで、柴崎の転校と同時に二人の短い付き合いは破局を迎えた。絢華は「まあ、そうなのね」と気の毒そうな表情をしながら、心の中でほくそ笑んだ。



 絢華はここしばらくで、もっとも愉快な気持ちであった。もしも冷静な第三者が絢華のやったことを知れば、その悪辣さにぞっとしただろう。柳瀬と交際していただけで、柴崎には何の落ち度もない。そんな無実の人間の人生を狂わせてしまった。この頃から絢華は、正真正銘のクズだったのだ。



 しかし、当の絢華は少しも悪びれた様子はない。むしろ、柳瀬のために良いことをしてやったと清々しい気分だった。それは先日、絢華が「愛」についてのおそろしく一般の価値観からずれた、独自概念を確立したことが大きな理由である。



 絢華の通う学校はいわゆるミッション系で、授業の科目に宗教教育が組み込まれている。普段は眠さと闘う退屈な時間だが、先週は愛についての講義があった。教師によれば、キリスト教の愛には「アガペー」と「エロス」があるという。エロスとは自ら求める欲求で、肉体に直結する愛の形らしい。それを聞いて絢華の全身をアドレナリンが駆け巡った。


 実は絢華の目下の悩みが「セックスへの強い興味を持て余している」ということである。特に思春期に入ってからは、エロティックな妄想が止まらず「私って、もしかして淫乱?」と不安になっていたのだ。


 しかし、キリスト教でエロスが愛の一種とされるなら、どんなにエロくてもいいわけだ。しかも、教師は「エロスは必ずしも永遠のものではない」と言っていた。長続きしなくてもいいのなら、一夜限りの関係でも問題なしということだろう。実際の意味は全くそうではないのだが、絢華は自分に都合よく解釈してしまったらしい。



 そして、エロスが求める愛ならば、アガペーは捧げる愛。キリスト教において最上の愛であり、無償の愛とも呼ばれるらしい。崇拝し、慈しみ、無条件に献身的な愛を与える。そこに肉体の繋がりはなくても成立する愛がアガペーなのだ。


 それを聞いて絢華は、ここしばらく謎だった柳瀬の態度がようやく理解できた。なるほど、彼が自分に対して肉体的に接触して来ないのは、アガペーだったのだ。絢華のことをその他大勢のエロ要員とは別格に考えているから、遠くから崇めるだけで満足しているに違いない。そう思うと絢華は、目の前の霧が晴れたような気分になった。



 ちなみに宗教の授業では、友愛の情を意味するフィリアについても語られたのだが、絢華の記憶には一切残っていない。しかし絢華に最も足りないものは、そのフィリアである。友人に親しみを抱き、対等な立場で交流することが、絢華には全くできなかった。それは絢華の母親も同様で、本人たちに言えば顔を真っ赤にして否定するだろうが、母娘はあまりにも人間として欠落している部分が似ていた。






 そんなツッコミどころ満載の謎理論が絢華の脳内で誕生した数日後、不幸にもそれを裏付けてしまう追い風が吹いた。なんと柳瀬が絢華に愛のメッセージを送って来たのである。もちろん絢華の壮大な勘違いであるが、これが彼女を危険な方向に勢いづかせてしまった。



 それは、朝の通学時のことだった。昨年の痴漢の一件から、しばらく通学時間を早めたせいもあり、絢華が電車の中で柳瀬と会うことはなかった。しかし竹下がガードマンになってからは、徐々に遅い時間の電車に乗るようになり、その日は久しぶりに電車の中で柳瀬の姿を見かけた。


 とは言っても、相変わらず学校帰りに柳瀬の後をつけ回したり、マンションの近辺をうろついて動向をチェックしているのだが、隠れて覗き見る姿とは違う新鮮さを絢華は感じた。3年生の柳瀬はいよいよ受験モードに入り、部活も引退して新しい彼女も作らず、このところは塾通いに精を出している。


 寝坊して急いで出てきたのだろう。今朝の柳瀬は後頭部に寝癖がついており、その横顔を遠くからちらちらと眺めているうち、絢華の2.0の視力が「あるもの」を捉えた。寒くなってきたため、柳瀬は制服の上に体育用のジャージを着こんでいたが、その左腕に「A・Y」というイニシャルが刺繍してある。それを見て絢華の周辺に花びらの幻影が舞った。



「なるほど、これがアガペーなのね」



 柳瀬は絢華を崇拝するあまり、Ayaka Yamashitaのイニシャルをジャージに縫い込んでしまった。そしてそれは、絢華に対して「愛しています」という秘められたサインでもある。何と遠回しな、そして熱烈な告白であろうか──。絢華の自己中な脳は、一瞬でそんな都合の良いお姫さまストーリーを組み立ててしまったのだ。



「ほらね、やっぱり私のことが好きなんじゃない」



 絢華が柴崎を攻撃した最大の理由は、これである。柳瀬は自分に献身的な愛(アガペー)を捧げる、いわば絢華の所有物だ。その所有物を柴崎はエロスで惑わせた。そんな有害物は駆除の対象になる。それが絢華の考えであった。



 まるで植木についた虫を処理するような感覚で、ひとりの未来を潰してしまえる。絢華は身の周りに居れば絶対に関わり合いになりたくない、冷酷な勘違い女なのだ。そして学校の勉強はたいした成績でもないのに、悪事にはやたら知恵が回る。


 ところが、柳瀬に関しては目が曇っていたようだ。なぜなら彼のジャージのイニシャルは、一昨年公立高校を卒業して柳瀬にジャージを譲った従兄弟、柳瀬明(やなせあきら/A・Y)のものだったからだ。




 第二章/完





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― 新着の感想 ―
[一言] おそろしい子! (ガラスの仮面より)
2024/05/06 17:52 退会済み
管理
[良い点] 完全にクズやん……! [一言] 思い込みがやば過ぎる(汗)
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