5・犬のような下僕登場、その名は竹下くん
1999年5月10日(月曜日)
結局、絢華の受験は親族会議にまで発展した後、昨年より厳しい条件付きで許可されることとなった。条件のひとつは、レッスンの削減である。今まで週5回だったが、春からは週3回になる。二次試験の科目に舞踏と歌唱があるため、バレエと日舞、声楽は継続、マナーとピアノはやめることにした。
さらに、レッスン代は母の祥子が自腹で捻出することになった。これまでは、預金していた絢華のモデル時代のギャラで賄ってきたが、女子高はアルバイト禁止の校則があり、入学と同時にモデルは休業している。そのため、資金が底をついてしまったのだ。祥子は夫や兄に泣きついてどうにかしようと思ったようだが、そこまで彼らは甘くなかった。
「私は今まで働いたことなんかないのよ、そんなの無理よ」
「だったら諦めろ。自分の勝手を通したいんなら、自分でどうにかすることだ」
ぴしゃりと夫に跳ねのけられ、祥子は3日ほど悲劇の主人公になりきっていたが、それでも夫が頑として譲らないので、渋々と人生初のパートに出ることを決めたようだ。これが絢華には何より嬉しかった。きっと仕事で疲れ果てて、くだらない小言を喚き散らす元気もなくなるだろう。
そのような理由で、絢華の高校二年生は凶報からのスタートとなったが、レッスンが減ったため自由日が平日2回と土日になり、ようやく普通の高校生らしい放課後を楽しめるようになった。
とは言っても、絢華の場合は友人と共に過ごすことは滅多にないので、受験で開店休業になっていたストーキングを再開することにした。何しろ、ドンピシャの助っ人が現れたのだ。彼の名前は竹下誠吾くん。柳瀬たちの通う公立高校の3年生で、彼が学校帰りの絢華に手紙を渡したのがきっかけだった。
他の学校の男子生徒に手紙をもらったり、声をかけられることは絢華にとって日常茶飯事だ。ときには社会人と思しきスーツ姿の男性からも言い寄られるが、そういう連中はまるっきり無視するか、笑顔で「ごめんなさい」が決まりである。
しかし、竹下は特別だった。別にイケメンというわけではない。むしろその逆で、背が低くややぽっちゃり、黒縁メガネの地味男子である。ただし彼は柳瀬と同じ学年で、昨年は同じクラスだったという。絢華は彼を手先として使い、柳瀬の情報を引き出すことにした。
「校則で男女交際は禁止なの、ごめんなさい」
そう言って申し訳なさそうに頭を下げる絢華に、竹下は恐縮しきりでもじもじしている。ダメモト覚悟だった高嶺の花から、思いがけず返事をもらえて舞い上がっているのがわかる。二人は人目につかないよう、駅から離れた児童公園のベンチで落ち合った。
「いやいや、僕の方こそごめん。迷惑だってわかってたけど、気持ちを伝えたくて」
「ありがとう」
絢華がふんわり微笑むと、竹下の顔がたちまち真っ赤になる。純情で扱いやすそうなのを確信した上で、絢華は本題を切り出した。
「お付き合いはできないけど、うちは二人姉妹で女子高だし、男の子の友だちが欲しかったの。よければ、お友だちになってくれますか?」
「も、もちろん! 喜んで!」
こうして竹下はこの日から、友だちという名の忠実な下僕になった。絢華は巧みに言葉を弄して、人前で話しかけない約束を交わし、用があるときはメモを互いの鞄の外ポケットに挟むことにした。そのタイミングは、毎朝の通学電車である。
絢華は電車に乗る際、竹下を背後に立たせた。要するに痴漢避けである。かつて通学中に恐ろしい思いをしたことや、今もその記憶がトラウマになっていることを打ち明けると、竹下は自ら騎士の役を買って出た。もちろん、柳瀬に助けられたことは伏せてある。
お陰でまた絢華は、以前のように遅い時間の電車に乗れるようになった。しかし竹下は早起きして絢華の乗る駅まで遠回りし、絢華を女子高のある駅まで送り届けたら、急いで折り返して一駅手前の公立高校まで猛ダッシュする苦行を強いられた。余談だが彼はこの送迎で、半年間に4キロ減量している。
電車の中では、絢華は竹下と他人のふりをした。竹下は絢華が真面目に校則を守っているのだと信じたが、絢華の本心は「気安く話しかけるな、ダサ男」である。利用価値はあるものの、周囲に誤解されては計画が台無しになってしまう。
とは言え、この竹下という少年は、思いのほか絢華の役に立った。まずは、柳瀬の最新情報を運んできた。なんと絢華が音楽学校の受験で忙しくしていた数カ月の間に、柳瀬は松本と別れて今は新しく柴崎里美という彼女がいるらしい。
絢華は顔には出さなかったが、ひどく動揺した。松本と無事に別れたのならば、なぜ自分に言い寄ろうとしなかったのだろう。絢華の考えでは「柳瀬くんは私が好き」が決定事項なので、不思議に思っていると竹下が事情を教えてくれた。
「柳瀬くんはねぇ、フェミニストっていうのかな。女の子に優しいからもてるんだ。今回も柴崎さんがグイグイいったみたい。松本さんと別れた直後に、彼女から告白したんだって」
「そうなのね。ちなみに松本さんとは、どうして別れたの?」
「うーん、柳瀬くんが誰にでも優しいのが嫌だったみたい。柴崎さんだけじゃなくて、いろんな女子が周りに寄ってくるから」
なるほど、あのルーズソックス女が嫉妬で自滅して、そこへ間髪入れずに毒虫が喰らいついたというわけか。もてる彼氏で上等じゃないか、自分に自信がないからジェラシーを感じるのだ。絢華は自分ならたとえ柳瀬がハーレムを作ろうとも、誰にも負けない自信があるので、皇后のように堂々としていられると思った。
ちなみに、絢華は柳瀬の情報を聞き出すにあたり、親友のためだと嘘を吐いた。女子高のクラスメイトが柳瀬に憧れており「大切な友だちの恋を応援してあげたい」と目を潤ませると、健気さに感動した竹下が二つ返事で協力を約束してくれたのだ。
「柳瀬くんに彼女がいることは伝えたし、校則で男女交際も禁止されているけど、せめて気持ちを伝えたいんだって」
そう言って絢華が竹下にお願いしたのは、裏門の開錠であった。公立高校には表門の他に裏門があり、授業中は内側から施錠されている。その門を1時間だけ開けておいてくれという頼みである。
公立高校では間もなく文化祭があるため、講堂で全校生徒への説明会が行われる。絢華はその隙に無人になった教室へしのびこもうと考えていた。
「お手紙を、届けてあげようと思って」
恥ずかしがり屋の親友のかわりに、柳瀬の鞄に手紙をしのばせたいと絢華は竹下に説明した。竹下は最初「それなら僕が手渡そうか」と申し出たのだが、
「ありがとう。でも、誰にも秘密にしたいらしいの。わかってあげて」
そう言って絢華は小首を傾げた。竹下はその仕草にやられてしまい、見廻りの教師に見とがめられないよう、学校指定のジャージまで貸してくれた。それを羽織っておけば、遠目には公立高校の生徒に見える。
しかし、絢華の本当のターゲットは柴崎だった。柳瀬にまとわりつく邪魔な女は、早めに叩き潰した方がいい。絢華は事前に竹下から仕入れた情報を頼りに、3年C組に入り込み、黒板横に貼ってある座席表から柴崎の席を探し当てた。机横のフックには学生鞄が吊ってあり、中を見ると現代国語のノートに「S.柴崎」と記されている。この席で間違いなさそうだ。
絢華は学生鞄のファスナーを開け、コンドームの箱を突っ込んだ。そしていかにも「誰かが通りすがりに当たって落ちた」という感じに、教室の床に鞄を転がした。コンドームはあらかじめパッケージを開け、6個入りを4個に減らしてある。
それが鞄から半分ほど出ているのを見て、教室に戻ってきた生徒たちがどういう反応をするか。見なかったことにしておいてくれるほど、高校生の精神年齢は高くないだろう。きっと面白がって中身を確認し、減っている2個はいつ誰と使ったのかと大騒ぎするに違いない。そしてそれは、柳瀬の耳にも入る。
ちなみにそのコンドームは、例のショッピングセンターで万引きしたものだ。絢華が目的を持って何かを盗んだのはこれが初めてで、無作為に手を出すよりも何倍も強い刺激に、絢華は背筋がぞくぞくとして身震いをした。




