98.開示
何とか志心を見送って、父は言った。
「全く、なんということぞ定弥!主、この宮に泥を塗ったのだぞ!分かっておるのか!」
滅多に怒ることなどない父が鬼の形相で叫ぶので、定弥は縮み上がっている。
着ている部屋着が、霞んで見えた。
「…今少しで龍の宮に上がらねばならぬところだったわ!あの宮に上がれば、主など3日ももたぬ。志心殿が思い留まってくださったので良かったが、死にに行くようなものぞ!どうするのだ、一度目をつけられてしもうたら、常に見ておるぞ!加栄殿にも話が行くやもしれぬ。宮の恥ぞ!この際栄子にも強く申す!あれは…これまで我慢しておったが我慢も限界ぞ!宮に居たいなら居させてやっても良いが、正妃は下ろす!常磐、左様取り決めよ!」
正妃を下ろすのか。
定成は、驚いてそれを聞いていた。
こんなことは、筋書きにはなかった。
定成が困惑していると、定満が言った。
「主は成子にしっかり躾けられておるようぞ。して?我は知らなんだが、志心殿があのように。何かあるなら申せ。こやつが何か主にしておるのか。」
定弥は、それを聞いてキッと定成を睨みつけた。
恐らく、言うでないぞと圧を掛けているつもりなのだろう。
だが、あいにく今の定成には、そんなもの全く怖くはなかった。
「…父上、兄上が悪いのではありませぬ。」それを聞いて、定弥が驚いた顔をした。定成は続けた。「なので我は、申し上げなかったのです。全てはあの、栄子という父上の正妃のせいでありまする。あれがある事ない事兄上に、幼い頃から申して我を疎むように仕組んで、兄上はそれに踊らされて。志心様がお気付きになられたこの着物にしても、我は臣下の残りの布地で仕立てさせるのですよ。父上はお気付きにならなんだでしょう。」
ずっとこれだったのに。
定成は、思った。
志心はひと目で気が付いたのに、父はそういう事には疎いようで、全く気付かなかった。
母も、分かっているのにそれが淑やかだと思うているのか、自分を庇う様子もなくただ、己を憐れんで弱々しくしているだけ。
子のためを思うのなら、少しは王に申し出て、何とかしようと思うはずだった。
あれが、良いのだと思っている節があった。
前世の記憶が戻ってから思ったのだが、定成という皇子は、本当に不幸な一生を送ったものだ。
俯瞰して見られた時、自分は定成を、せめて普通の皇子並みには幸せにしてやりたい、と思った。
ここへ降りて来る前は、未来を知っている自分が、力のある宮へと降りて安穏と過ごして後にそこの王となり、あわよくば宮の格を上げて最上位の宮と並んで他の宮の上に君臨して生きよう、と思っていた。
だが、弾かれてこちらへ下りたと知った時、そんな事より生き残ることが重要であるのだと思った。
こんな不幸な一生を送った皇子を、ただ幸福にしてやるだけでも良いのではないか。
定成は、そう思ったのだ。
なので、どうせ滅ぶと知っている陸の宮を、兄が王座に就く前に速めに滅ぶように促そうとはぐれの神に接触したりしてみたが、それも上手くは行かない。
世の中を変えるのは、何と難しいのかと最近諦めて来ていた。
だが、どうやら過去を知る者達が動くことによって、こちらの宮の様子も変わってきているらしい。
という事は、自分は何もしなくても、もしかしたら無事でいられるのかもしれない。
だがいよいよとなれば、逃げ出すより他、なかった。
蒼の月の宮の結界を目指せば、恐らく滅んだ宮の皇子でも、受け入れてくれるかもしれないのだ。
父は、定成が言うのを聞いて、顔をしかめた。
どうやら、今の今まで気付かなかったようだった。
「…知らなんだ。なぜに成子は言わぬのだ。主がそのような目に合っておって、まして定弥が主に嫌がらせをしておったのではないのか。あれは知らぬと?」
定成は、首を振った。
「母上は嘆かれるばかりで、何も。我はそんなものかと諦めておりました。兄上は我の言葉など聞いてはくれませぬし、このままでは愚かな王と臣下に背かれる未来も見えておりましたのに、何もできませなんだ。父上は譲位を急がれておるばかりで、宮の様子もそこまで見ておられなかったでしょう。今の兄上のままではまずいことになります。父上、我には詳しくは言えませぬが、時に先が分かる時があるのですよ。我は、夢を見ました。父上が譲位され、兄上が王座に就いて、己の政務に意見する臣下を片っ端から殺して参り、最後には軍神に殺されてしまうという未来を。我も、兄上に殺されます。この宮が、それで滅ぶ未来なのです。恐ろしくて、とても今の今まで言えませなんだが、志心様にあのように言われ、何事もご報告せねばと思いました。」
定満は、驚いた顔をした。
「え…先見?能力はなくとも、時にそのような夢を見る事はあるかと聞くが、主は見たのか。」
定成は、頷いた。
「はい。ですが、ただの夢だと思いたかったのです。それでも、志心様が来られてあのように思われるということは、やはり対外的にも兄上はまずいのでしょう。栄子殿を何とかすることからではありませぬか。兄上を教育し直さねば、我が見た夢が正夢になるのではと案じられまする。」
定満は、途方もない夢の話であるのに、真剣な顔をした。
「…実は、我が祖父が少し、先見の才があって。」定成は、驚いた顔をした。「主らには言うておらなんだが、我も少し。知っておって見るのではないのよ。ただ、知らぬである日、突然に見る。祖父は己が龍王に殺される未来を見たと申して、何としても龍王を殺さねばと昔の怨讐もあって先走り、死んだ。父上の定利は知らなんだし、我も詳しい事は聞いておらぬが、それでも確かにその能力はある。主、もしやそれを継いでおるのでは。」
だから我はここへ飛ばされたのか。
定成は、それを聞いて思った。
仮に定成が未来を見たとか言ったところで、ここではその能力を持つ者が居たので、おかしなこととは言われない。
だからこそ、ここが最適と飛ばされたとしたらそうなのだ。
「…知りませなんだ。では、我はもしや真実を?」
定成が言うと、定満は頷いた。
「恐らくはの。」と、定弥を見た。「これは、確かに今のままではまずい。第一皇子であるし栄子が煩いゆえ跡目にと思うておったが、面倒で教育は栄子に丸投げしておった。ここからでもやらねば、これが王座に就くことはできぬ。無理であったら主、王座に就くか。」
定成は、驚いた顔をした。
そして、思ったことにまた驚いた。
…王座など、面倒だと思ったのだ。
王になって天下を思うようにしてみたいと思って降りて来たのに、生きているうちにそんな風に気持ちが変わっている事実に気付いた定成は、茫然とした。
そうだ、王座など面倒なのだ。
「…父上、我には荷が重い。兄上の方が度胸もあって、これでしっかり学べば必ず兄上の方が王には相応しいと思います。ここから、まだ父上がお元気なうちに何とか致しましょう。我も手伝います。」と、黙って聞いている兄の目をじっと見つめた。「兄上、志心様を見て分かられたでしょう。このままでは、兄上のお為になりませぬ。我もお手伝い致しますから、学んで参りましょう。兄上なら必ず肝の据わった良い王になるはずです。心掛け一つなのです。龍の宮へと送られる前に、ここで我と学びましょうぞ。」
定弥は、驚いた顔をした。
「主、我を庇うのか。我を王にと?」
定成は、自分でもおかしなことをと思ったが、頷いた。
「はい。あなた様の方が、性質的に王に向いておると我は思いまする。後は、あの母におかしくされてしもうた価値観や、その他常識などを学んで行かれる方が良い。まだ間に合いまする。父上がいらっしゃる。その間に、我が何としても兄上に、世間というものをお教えいたします。まずは、あの母の事はお忘れくださいませ。全て、偽りでありあの女のエゴでありまする。兄上は、あの女に殺されるも同然なのですぞ。しっかりなさるのです。」
腹が立つ奴だが、これも哀れなのだ。
定成は、思った。
定弥は、それを聞いて目に涙を浮かべたかと思うと、項垂れた。
「…すまぬ。本日龍の宮へ行けと志心様に言われた時、我は己が初めてまずいのだと分かった。このまま龍の宮へと上がったら、何も分からず恐らく無礼と斬り捨てられる。そんな未来が迫るというのに、どうしたら良いのかも分からぬ己に愕然としたのよ。誠に…我は愚かよ。」
定成は、頷いた。
「今、分かったではありませぬか。今から始められたら良いのですよ。父上が、場を用意してくださいますから。」
定満は、そんな兄弟を見てホッとしたのか涙を浮かべて、頷いた。
「よう弁えたの、定弥。それに定成、主はあの頼りない成子の子であるのによう育ったの。案じるでない、我らこの地に続く王族の血を持つのに、簡単に滅びてなるものか。定弥、主は定成が居るゆえ、王座に就けるのだと思うて兄弟仲良うするのだ。お互いに助け合っていかねば、長く続いた我らの血族が途絶える事になるのだぞ。宮を、我らの血を残さねば。定成、またもし夢を見たら、我に申せ。分かったの。」
定成は、頭を下げた。
「は。父上。」
定弥も、立ち上がって涙を拭うと、頭を下げた。
「我は心を入れ替えて努めまする。」
定成は、何やら不思議な心地だった。
収まるべきところに、収まろうとしているような気がする。
だが、流れに乗ると、こちらは消えてしまうはず。
やっと父と兄がやる気になったのに、このまま平穏に過ぎてくれたらと、定成は思わずにはいられなかった。




