91.記憶の秘密
涼夏は、じっと治癒の対で迅と二人で籠ることになった。
治癒の者達は知っているので警戒もしていないが、侍女や侍従達は知らないので、流行り病と聞いて一切こちらへは近付いて来なかった。
涼夏は、その様子にまだ父の宮に居た頃の臣下の事を思い出して、複雑な気持ちになった。
普段から、よくしてくれている者達も、結局はこういう時は見捨ててしまうのだ。
だが、そこへ涼輝が訪ねて来た。
何も知らない涼輝は、封じの結界の外から、二人に話しかけた。
「流行り病と聞いて。この季節にそんなことになるなんてと、皆驚いていた。質が悪いのではないか?二人とも、大丈夫なのか。」
涼夏は、戸の外から声だけしか聴こえない兄だったが、兄はこうやって案じてくれるのだと温かい心地になって、答えた。
「大丈夫ですわ。ご心配をお掛けして申し訳ありませぬ、お兄様。王が早くにご対応してくださったので、我と迅の二人だけで済みましたの。もう熱も下がっておりますし、問題ありませぬ。ただ、まだ胸がおかしい感じで…完全に治るまでは、ここから出られないのです。」
涼輝は、頷いたようだった。
「そうか。ならば良い、ゆっくり養生しておくが良いぞ。佐織は…試験の結果が出て、沈んでおってな。主らを案じておるのは確かだが、此度は屋敷に居れと言うたのでここには来ておらぬが、案じておった。伝えておく。」
涼夏は、ハッとした。
そういえば、女神でありながら重臣の試験を受けるのだと花見の席で言っていた。
それが、駄目だったのか。
「まあ…。お義姉様には、結果が思わしくなかったのでしょうか。」
涼輝の、ため息が聴こえて来た。
「その通りよ。我も無理だろうとは思うておったが、あれの気を挫くのもと思うて何も申しておらなんだが…最後の、命を懸ける試験でな。幻覚の中で、宮のために死ねるかという試験であるが、あれにはそれが無理だった。他は大変に優秀であったが、もしもの時には宮の重要な事を守るために、死ぬ事が求められる重臣であるから、それが駄目だった時点で不合格となってしもうたのよ。女の身で、酷な事であるし、我はそれで良かったのだと思うておる。」
迅が言っていた通り。
涼夏は、思って隣りの迅を見た。
迅は、黙って頷く。
やはり、重臣とは宮の秘密を守り、もしもの時には命を絶ってそれを守り抜かねばならない、覚悟が要るのだ。
それが無いと、重臣にはなれないのだ。
いくら蒼でも、やはりそこは譲れなかったのだろう。
「…残念な事ですが、仕方がありませぬわ。お義姉様はとても優秀な司書であられるのですから、良いのではありませぬか。重臣など、荷が重いと我には思いますし。」
涼輝は、頷いたようだった。
「そうだな。我もそのように。その内に気持ちも上向こう。主らは案じる事は無いのだ。己の身を治す事を考えよ。では、我はこれで。元気そうで安心した。」
涼夏は、頷いて答えた。
「はい。わざわざありがとうございました、お兄様。」
涼輝は、そこを去った。
迅は、気配が去るのを待ってから、涼夏に言った。
「…だから言うたであろう?やはり重臣という身分は、この世の中ではまだ厳しいのだ。軽い気持ちでは重職には付けぬのよ。それが神世。分かっておろう。」
涼夏は、渋々頷いた。
「そうね。分かっておったのに、何やら残念な気がして。ここは月の宮だけど、それでも駄目なんだなって。お義姉様にも、これでお気を落としてしまわれなかったら良いのですけれど…。」
迅は、ため息をついた。
「そうであるな。だが、あれらは大丈夫ぞ。我らの事の方が今は切迫しておるのだぞ?記憶を取られてしもうたらどうする。昨日の夜十六夜が確かに定満様の軍神を攫うことができたのか、まだ蒼様からは何もないし、案じられる。いつもなら真っ先に声を掛けて来るだろう、十六夜も何も言うては来ぬし。駄目だったのではないかと思うのだが。」
涼夏は、驚いた顔をした。
「え、月なのに?無理って何?」
迅は、険しい顔をした。
「なぜかの…何かを知っておるような気がしてならぬのよ。主はどうか?我は、十六夜が取って来ると言うた直後、駄目なのでは、と脳裏を嫌な予感が過ぎったのだ。もしや、何かの記憶が我に警告しておるのではと思うたのだが…。」
涼夏は、息を飲んだ。
実は、涼夏もそうだったからだ。
十六夜は月なので、簡単に攫って来れるのだろうと思ったのに、何やら駄目なような予感がして落ち着かなかった。
だが、自分達は月がどれほどに他の何かに気取られることが無い自然な力を持っているのか知っている。
しょっちゅう勝手に他人の結界内へと入り込んで、さっさと瞬間移動までしてのけるのだ。
だからこそ、疑うのなど愚かな事だと思っていた。
だが、迅も同じように感じていたのだ。
「…実は、我も。」涼夏は、渋々答えた。「駄目なんじゃ、って。そんな考えが浮かぶのがおかしいから、打ち消していたのだけれど。それじゃあ、もしかして十六夜は、昨日記憶を獲れなかったんじゃ…。」
《その通りでぇ。》十六夜の声が聴こえて、迅と涼夏はハッと窓の方へと視線をやった。十六夜が続けた。《攫うのは問題なかった。簡単に連れて来られた。寝ているそいつを、気付かれないようにこっちへ運んで寝台に寝かせて、記憶を取ろうと探ったが、全く無理だった。つまり、そいつの記憶を読むことすら、無理だったんだ。》
どういう事…?
涼夏が戸惑っていると、迅は言った。
「だが、我と涼夏の記憶は、碧黎様が難なく複製の玉を作って見ておったぞ。それなのに、そいつの記憶は読むこともできなかったって?」
十六夜の声は頷いた。
《そうだ。あいつ自身の事は分かった。あいつがあの宮の第二皇子の定成って奴で、妃の子であって正妃の子である兄に虐げられて育ったことは分かった。だが、小説とか、前世とか、その類の記憶が全く取れない。最近の記憶が読めなくて、混乱したんだ。》
迅と涼夏は、顔を見合わせた。
記憶が読めないって…どういう事だろう。
「それって…最近の、その神の普通の動きも読めないってこと?」
十六夜の声は、頷いたようだ。
《そう。親父にも来てもらったが、お前達のようにあっさりと読めなかったようだった。ただ、親父が言うには薄っすらと、本人が意識しておらぬから、恐らく覚えていないと感じているだろうが、迅と涼夏と同じような記憶が少しだけ気取れたと言っていた。なので、多分お前達と同じように、その小説を読んでたんだろうな。でも、あいつのは過去の方は無くて、未来しかない。つまり、オレ達には、過去は読めても未来は読めねぇんじゃないかって、結論に達したんだ。》
二人は、仰天した顔をした。
つまりは、未来だけはどうあっても本人しか、分からないようになっているのだ。
その本人が口にしたらこの限りではないが、口にしない限り勝手に覗き見ることはできないのだろう。
天黎ではないようだが、そのような何かの力が未来をあっさり他に知らせないようにしているとしたらそうだろうと思えた。
「…どうしたわけか、我らは主がそやつの記憶を取れないのを知っていたようで。」迅が言うと、十六夜が驚いたように息をのむのが聴こえた。迅は続けた。「昨日、蒼様が十六夜に今夜とって来てもらうと申された時に、我ら二人とも、それが無理だと嫌な予感がした。だが、月にできないことなど無いだろうと、そんな不安は口にしなかった。だが、これは恐らく必然だったのだ。我らは、知っていた。未来は知ることができず、過去だけを知ることができるのだという事を。何しろ、我らは記憶の中にある小説の、筋が終わった途端に過去の記憶を戻したのだ。未来は、そやつの頭の中にしかなくて、そやつが口を割らねば知ることができないのだ。」
それが、正解だと迅にも涼夏にも、その時に分かった。
十六夜は、フッと息をついた。
《…そうか。お前達の沈んだ記憶ってのが見えねぇのが気に掛かる。黄泉での記憶があったら、少しは何とか出来そうなのにな。そうやって、オレ達が何かを知った瞬間に、浮かんで来て確信が出来るんだろう。先には知れないんだろうな。だが、答え合わせはできる。安心しろ、オレ達が何とかするから。》
十六夜は、こちらを気遣ってくれている。
迅と涼夏は頷いたが、自分達が何とかしなければならないのにと、焦って仕方が無かったのだった。




