88.流れに
「…行くしかありませぬ。」迅は、苦渋の顔をして言った。「父上と和解しておるのは臣下も見ておるし、その父が危篤であるのに戻らぬ選択肢は我にはありませぬ。昌士一人ではまだ宮を維持できぬでしょう。戻らねば。」
蒼は、首を振った。
「まずいのが分かってるのに戻って良いのか?!あっちに戻ったら多分、もう戻って来られないぞ。流れに逆らう事になるんだよ。何が起こるのかわからないうちは、戻らない方がいい!」
十六夜が、言った。
「だが、陸が倒れたってことは昌士を補佐できねぇぞ。まだいくらなんでも陸無しであの宮を回せるほど昌士は馴染んでねぇ。迅が帰る他、あの宮を維持する方法はねぇ。」
維月が、顔をしかめた。
「どうして帰れないの?良いじゃない、迅殿が一度戻って、王座につく気が無いのならとりあえず昌士殿を補佐して、上手く回ったら戻って来たら。」
蒼は、言った。
「ダメなんだよ。それじゃあ結局流れに乗る事になるんだ。」
維月にはわけがわからない。
十六夜が、言った。
「説明してくる。お前達は親父が記憶を見終わるのを待て。それから帰るなら帰る仕度をしても遅くはねぇだろう。さ、維月、来い。話してやる。」
十六夜は、維月を連れて出て行った。
迅は、蒼を見た。
「蒼様、我があちらへ戻ると、恐らく臣下が我を王座にと言い出すでしょう。だが、涼夏が居る。恐らくそれでも王座にと言う臣下と、それはならぬと言う臣下で宮が割れると思われます。維月様が仰るようにはなりませぬ。蒼様が危惧される通りかと。」
蒼は、頷いた。
「だろ?だから戻っちゃダメだ。どうしてもなら涼夏も共に行くしかないけど、それでも割れるのは流れがそうだからだろう。あの宮を乱れさせて崩壊させるのが、もしかしたら流れなんだろうか。迅と昌士の二人があの宮に揃って、始まるんだろうか。」
迅は、首を振った。
「分かりませぬ。ですがあり得る事だとは思います。我がどうあっても王座につかぬとごねても、臣下は勝手に動きますので。下位の宮では王族が絶対的な力を持っておるわけではないので、最上位のように何事も王族の思う通りにはいかぬのです。抗ってみせますが…結果は我にも分かりませぬ。」
涼夏は、下を向いた。
陸が倒れた今、あの宮をまともに回せるのは迅だけだろう。
昌士は知識はあるが、やっと実際に政務に携わり始めたばかり。
このままでは、どちらにしてもあの宮は崩壊してしまう。
迅が帰らない選択肢はないように思えた。
3人が黙り込んでいると、碧黎が目を開いた。
「…ほぼ同じ。」何の事かと碧黎を見ると、碧黎は続けた。「これまでの流れぞ。我が主らと初めて対峙した瞬間も、前世十六夜と維月が黄泉へと渡った事も、僅かに違う所があれど全ては同じ流れの中にある。ただ、その流れは大きいので、細かい所で見えておらぬ神が早めに死んでいたり、また生き残っていたりはしておるが、その程度のことで、我らが危機を何とか回避した瞬間なども、全ては流れの中に。その最中は必死であるが、結局は良い筋に行く流れの中に居たゆえ、何とかなっておる。近い所では、維月がアマゾネスの残党に拐われた時、実際には我が命を懸けてあれを維持してしばらく眠りについたが、小説の中では天黎がそれを阻止して我を眠らせ、蒼や十六夜の言葉で考え直して己で維月を助けておる。つまりは、維月はどちらにしろあの時、助かる流れてあって、消滅する未来はなかった事になる。」
迅と涼夏は、驚いた顔をした。
その筋は知っていたが、実際に起こったのはそういう動きだったのだ。
蒼は、言った。
「…ということはどういう事ですか?流れは変えられないってこと?」
碧黎は、首を振った。
「あの宮の存在は、あっても無くても神世が大きく変わる事はない。なのでその程度の事なら変更は可能なのではないかと我は思う。つまり、後に大きく神世に関わるならまた別の話だがそうでないのなら、恐らくこれぐらいの変更はきく。つまりは、未来を知る者が僅かに変えようと考えているのならそれも可能であるし、迅が抗うならそれも可能なのではないか。あくまでも、大きな流れなのだ。維月の生死は神世に大きな変革を巻き起こすゆえ、変更できなかったと思われる。何しろあれには、我や十六夜、維心の未来がかかっておるからな。」
蒼は、それは喜んで良いのか危機感を持った方が良いのか、わからない。
迅は、言った。
「ならば、もしあの宮が崩壊の流れの中にあったとしてそれを阻止したとしても、それは神世にとり些細な事であるので大丈夫だろうと?」
碧黎は、頷いた。
「恐らくは、だがの。我にも分からぬのだ、天黎は知っておるが何も言わぬから。変更が可能かどうか聞いた時も、ならば過去の記憶とすり合わせたらと教えてくれただけだった。己の頭で考えるよりないのよ。」
碧黎ですら分からないこと。
迅と涼夏は不安になって顔を見合わせたが、碧黎はさっさと二人から取った記憶の玉のコピーを消滅させて、そうしてその場から消えて行ったのだった。
塔矢は、順調に宮を回していた。
大きくなった領地も、傘下の宮から召し上げた臣下も交えて多くの臣下に支えられ、富を生み出し、安定して運営できていた。
それというのも、恵麻が大変に優秀な妃で、職人達への指導も率先してやり、時には訓練場に立って塔矢と共に軍神達の指南をし、宮の采配まで一手に生き受けてやってくれるので、それは助かっていたからだ。
塔矢一人では、ここまで早く安定させることはできなかっただろう。
それだけに、塔矢は大変に恵麻を大切に扱った。
腹に子を抱えているが、恵麻はサッサと動いて身籠っているような動きではなかった。
塔矢は、言った。
「恵麻、そのように。身籠っておるのだから、宮の務めは我がやるゆえ。少し休んだ方が良いぞ。産み月も近いではないか。」
恵麻は、大きくせり出した腹を撫でながら、微笑んだ。
「まあ、王ったら。我はそんなに軟な女神ではありませぬから。問題ありませんわ。それよりも、聡子殿が最近、書庫に籠って出て来られないので案じておるのですけれど。何かありましたでしょうか。」
塔矢は、顔をしかめた。
「あやつは、いきなりに神が変わったようになって。急に朝、我を訪ねたかと思うたら、今の歴史を書いてある書はあるかと申して。もちろん、あちこちから歴史書の写しやらを下賜して頂いておるから、新しい書庫に山ほど揃っておると申したら、それっきりぞ。何やら顔つきまで変わってしもうて…涼夏が、迅と婚姻したと聞いたゆえ、あれも焦っておるのかの。」
恵麻は、袖で口元を押えた。
「そのような。まだ160歳でありますわ。成人してから考えても良いかと思いますのに。我だって、この歳まで独り身でありました。もう300も近い歳ですわ。」
塔矢は、苦笑した。
「主は変わらず美しいし、我と出会ってなかったのだから仕方がない。我らが運命だと申したではないか。主は我のために生まれたと炎嘉殿も申しておった。」
恵麻は、頬をぽっと染めて窘めるように塔矢を見た。
「まあ、王ったら。皆の前では申さぬでおってくださいませね。恥ずかしいですから。」と、フッとまた案じる顔をした。「ですが…聡子殿の事は、お気にかけてくださいませ。もう数か月にもなりまする。書庫と部屋を行ったり来たりの生活だと、侍女が申しておりました。一度お話を聞いては頂けませぬか。」
塔矢は、確かに聡子の事を放って置き過ぎた、と反省して、立ち上がった。
「そうであるな。宮も落ち着いたし、そろそろ様子を見て来た方が良さそうぞ。行って参る。」
恵麻は、微笑んで頭を下げた。
「行っていらっしゃいませ。」
塔矢は、聡子の気を探って広い宮の中を歩いて行った。
その気は、やはり書庫にあるようだった。




