8.祖母の思い
涼夏の部屋は、母の夏奈が使っていた部屋の、隣りに設えられていた。
どうやら、ここの皇女として扱うということらしい。
祖母について部屋へと入って行くと、父の宮ではあり得ないほど大きな部屋で、調度も全て美しく、細かい細工で間違いなくあちらで使っていたよりも、高価なものだと分かった。
祖母が入って行くと、立ち並んでいた侍女達が、一斉に頭を下げた。
「これらが、今日からあなたの侍女です。」祖母は、言った。「夏奈に付けておったのと同じ数を準備しました。」
涼夏は、驚いた。
これが全部、私の侍女?!
というか、10人は居る。
ちなみに、父の宮での自分専属の侍女は咲耶一人で、後は父や母の侍女が、手が回らない時に手伝ってくれる感じだった。
ちなみに母の侍女は10人だが、父の侍女は6人だった。
つまり、母はここに居た時と同じ数を付けるように、こちらの宮から言われていたのだろうと思われた。
そのしわ寄せが父や兄、涼夏に来ていたわけだが、母は元々そういう環境で育ったので、仕方がないかと思われた。
祖母は、言った。
「こちらが、あなたの侍女長の帆波。我の侍女の娘でようできた子なのですよ。他も皆我がしっかりと躾けておりますから、問題のある子は居りませぬ。あなたは、何かあったらこの帆波に頼むと良いわ。」
涼夏は、神妙に頭を下げた。
「はい、お祖母様。」
祖母は、さっそく帆波を見た。
「お茶をお願い。」と、傍の椅子へと座った。「あなたもお座りなさい。」
まだここに居るのか。
涼夏は、到着した直後の事に、気持ちが折れそうだった。
祖母が出て行ったら、少しは息が付けると思っていたのだ。
だが、まだ茶を飲まなければならないらしい。
涼夏が言われるままに座ると、侍女が茶を淹れて持って来てくれて、目の前へと置いた。
…立場が上の物が飲まないと、口を付けちゃ駄目だったよね。
涼夏は、じっと待った。
祖母が、おっとりとカップを手にして、茶を一口飲んだ。
それを確認してから、涼夏はカップを手に取った。
「そこ。」祖母が鋭く言った。「肘が上がり過ぎです。もっと落ち着いて見えるよう、背筋を伸ばしたままこうして…」祖母は、もう一度カップを置いて、持ち上げて見せた。「こう。背は動かしてはなりませぬ。そのように前のめりになっては、飢えておるようよ。当分は、我とこうして茶を飲みましょう。そうして、作法と姿勢を覚えて参るのよ。基本的なことですけれど、大切なことです。あなたの母の夏奈は、これをたった3歳から習っておりました。あなたは160歳、できぬはずはないでしょう。」
正直、もう折れそう。
涼夏は思ったが、これが基本だというのなら、ここでくじけていたら先へ進めない。
なので、頑張ってカップを手にするたびに直されるのを我慢しながら、一生懸命学んでいた。
もう三杯くらい茶を飲んだところで、祖母はフッと肩の力を抜いた。
そして、涼夏を見て、言った。
「…我はね、何もあなたが憎くてこうして躾けておるのではないのですよ。」涼夏が祖母を見ると、祖母は続けた。「これができぬと、神世では殿方に軽んじられるのです。より品が良く身分の高い女が、王であっても尊重して頂けるのです。仮に身分が低くても、淑やかに美しい所作をして、美しい書を書いておったら、いくらでも上位の王に見染められるような世。あなたは高望みはしておらぬのでしょうけれど、嫁いだ後に他の妃と比べて見劣りがしたら、おつらい思いをせねばならぬのです。それでは、あまりに哀れだと思うて。あなたは夏奈に似て愛らしい顔立ちであるのですから。幸福になって欲しいのよ。」
涼夏は、厳しいばかりだと思っていた祖母が、急にそんなことを言うので、胸が詰まった。
孫の涼夏が、こんな様子だとどこへ嫁いでも、ぞんざいに扱われると案じて、厳しくしているのだ。
ひと際年上だと思われる、祖母の侍女が後ろで控えて心配そうな顔をしている。
きっと、祖母が居たという上から二番目の宮から、ずっとついて来ているのだろう。
「…お祖母様が我の事を案じてくださっておるのは、分かっておりまする。我は、これまで何も習って参らぬで…それでも、宮では自由にしておりましたから。それが、己のためにならないのは、もう分かっております。」
祖母は、頷いた。
「分かっておるのなら良いのです。我とて…あなたには話しますが、我の古い侍女である居織は知っておりますが、最上位の宮へと嫁げるようにと、我が父に期待されておりました。ゆえ、幼い頃からそれは厳しく躾けられて育ちましたの。物心つく前からそんな様でしたので、我は特別につらいと思うたことはありませなんだ。でも…ある日、父について龍の宮へと上がった時に、そちらで龍王妃様とお会いしたのですわ。」
維月と会ったの…?!
涼夏は、驚いた。そういえば、維月は不死だし維心は老いが止まっているから、年齢が分からないが、恐らく今生ではこの祖母ぐらいの歳にはなっているかもしれない。
だからこそ、祖母は維月に若い頃に会っているのだ。
「まあ…どのようなかたでしたか。」
涼夏が、興味を持って聞くと、祖母はため息をついて夢見るような目をした。
「誠にお優しく、美しいかたで…。非の打ちどころのない貴婦人であられました。我などたかだか上から二番目の宮の皇女であるのに、父が龍王様とお話になっている間、茶会を催してくださいましたの。他にも皇女が居られて、皆で珍しい菓子を挟んで楽しく歓談させて頂きました。本当に、夢のような時で…。でもその時、一羽の鳥が迷って参って。窓から飛び込んで参りました。」
涼夏は、仰天した。
茶会の席に、鳥が飛び込んで来たの?!
涼夏が思わず袖で口元を押えて目を丸くすると、祖母は頷いた。
「そう。我も驚いて、思わず小さく声を上げてしまいました。他の皇女達もそうでしたし、椅子から飛び上がったかたまで居たぐらい。でも、龍王妃様はそんな時でも、おっとりと微動だにされなかったのですわ。そうして、手を差し出してその指に鳥を止まらせると、侍女に渡してその場から出してくださいました。その仕草がまた、美しくて…。我は、恥ずかしくなりました。上位の王妃ともなれば、どんな時でも完璧に己を律していなければなりませぬ。あれを見てしまっては、我など最上位になど嫁げない、と悟ってしまったのですわ。龍王妃様が、ただお一人と龍王様にあれほどに愛されるのも、道理だと思いました。」
…多分、着物が重かったから。
涼夏は、思った。
読んでいた小説では、維月は普段はとても撥ねっ返りだが、維心はそれを許していた。
だが、公の場では維心の面子のためにも、維月は完璧な貴婦人を演じるのだ。
そうして、滅多に動かないのも、公式の場で誰より重い重装備の着物を着付けられるからで、動くのもおっくうなのだと書いてあった。
つまり、驚いたとしても、身動き取れなかっただけなのではないかと思われた。
それでも、維月は元は人であった記憶があるのに、こうして神世で認められるほど、完璧に演じられるように頑張った。
涼夏にも、できないはずはなかった。
涼夏は、言った。
「やはり龍王妃様は、当代一の女人であられるのですね。それにしても、龍王妃様のお茶会にお出になったなんて、お祖母様は本当にすごいかたですわ。」
祖母は、気分を良くしたのか、少し頬を赤らめて言った。
「まあ。我は本当に大した事は無いのよ。ただ、龍王様とは言わないまでも、やはり殿方に大切にされる女人というのは、それなりのワケがあるのですわ。あなたも、しっかり励んで将来嫁ぐ殿方に、大切にされるように精進せめばなりませぬ。我とて、こちらへ来て王に大切にして頂いておるのは、一重に我が宮の中を引き締めて品位を保つ努力をしておるから。あなたも、我の知識は全て差し上げますから、しっかり励むのですよ。」
祖母の思いは、分かった。
涼夏は、もうそれほど祖母が怖い人、いや女神だとは思わなくなっていた。
それでも、やっぱり粗相をしたら厳しいのは変わりない。
なので、涼夏はとにかく、お茶だけでもまともに飲めるようにならなくてはと、覚悟を新にしていた。