77.朝
日が昇ろうとしている。
時計を見ると5時過ぎで、迅が寝てからもう五時間だ。
涼夏は一晩中一人でゲームが進むのを見ていたが、王達は飽きることなくサクサク的確に要素を拾い、明らかに前回とは違う道を進んでいた。
涼夏は知らなかったが、絶対敵だと思っていた国が、実はそうではないのだと分かって来て目が離せなかった。
迅は小説を読んでいないのかと言っていたが、読んでいなかったからこそ、驚きの連続で、退屈する暇もなかったので眠気と戦わずに済んだ。
今でも先が気になって、逆に目が冴えているぐらいだった。
そんな中で、そろそろ窓から日が差し込んで来て、カーテンを引いていなかったと、今からでも閉じるべきかと迅を気遣っていると、迅は目を覚ました。
その時には、もう6時を過ぎていた。
「…おはよう。」涼夏は、言った。「ごめん、カーテンを引いてなかったから。」
迅は、首を振った。
「いや、よく寝た。どうよ?進んだか。」
涼夏は、頷いた。
「今三つ目の街を出ようとしているところよ。」と、画面を振り返った。「あら?一時停止してる。」
さっきまで元気よく動いていた画面が、中央にPAUSEという文字が出て固まっていた。
迅は、起きたばかりでシパシパする目を擦りながら、起き上がってこちらへ来た。
「何か向こうでしているのだろう。蒼様が張られた音の遮断の膜がまだあるゆえ、聴こえぬな。」
涼夏は、頷いてテーブルの上の茶器に歩み寄った。
「お茶を淹れるわね。顔を洗って来て。」
迅は頷いて、部屋の奥の仕切り布の向こうへと歩いた。
仕切り布の向こうは侍女の待機所で、こういう宮には必ずある。
月の宮には、そこに水道がある。
水を汲んできて置いておく必要がないので、月の宮は人世のようで、便利だった。
茶を淹れ終わる頃に、迅はタオルを手に仕切り布の向こうから戻って来た。
「毎度の事ながら月の宮は過ごしやすい。人世の記憶があるからであるな。」
涼夏は、頷いた。
「一度蒼様に、どうして他の宮は水道が無いのかお聞きしたことがあったの。そうしたら、ここは新しいから、宮を立ち上げる時に水道管を引いたから、月の宮にはそれがあるけど他の宮ではあちこちバラして組み込まないといけないから、面倒なんですって。しかも、水道管って神世にはないから人世から持って来るんだけど、神世でそれは難しいらしいの。あまり不安定な金属が側にあるのを気が乱れるので嫌う神達に、宮の中の人世の金属って不快なんですって。月の宮は癒しの気が降ってるから、そんなものも気にならないし、そもそも長い年月ですっかり浄化されていて、今はそんな気配もないらしいわ。だから他の宮には、こんなに便利なのに水道がないのよ。」
迅は、感心したように頷いて、茶を口にした。
「…小説では語られていなかった事よな。実際にそこで生活してみなければ、分からぬことも多いことよ。」
画面は、まだPAUSEのままだ。
涼夏がため息をついていると、扉をノックする音が聴こえた。
「はい。」
思わず答えたが、恐らくこんなことをするのは蒼しかいない。
神に、ノックの習慣が無いからだ。
扉が開いて、目を赤くした蒼が入って来た。
「まあ、蒼様?」涼夏は、実は失礼なのだが挨拶もなく思わず言った。「どうなさいましたか、お目が赤くなっておられますわ。」
蒼は、そんな涼夏を咎める事も無く、苦笑した。
「寝てないからだよ。一晩中だからね。焔は寝てるけど。」と、扉を閉じた。「これからしばらく休憩に入る。昼頃再開するって。だからそれまで休憩していていいよ。」
迅は、頷いた。
「は。ではその頃にまた我らはこちらへ戻るということに。」
蒼は頷いたが、言った。
「その前に、迅に来てもらわないと。旭が、正式に愛羅を帰さないと維心様に書状を送って来たんだ。今、義心がそれを届けてくれたんだけどね。」
だからゲームが止まったのか。
涼夏が思っていると、迅は言った。
「ならば父上は?」
蒼は、首を振った。
「まだ知らない。旭はこっちに知らせて来たんだけど、恐らく陸には、こっちのタイミングで知らせろってことみたいだ。子を亡くして憔悴しているから、帰せないというのが公の理由だ。そうでないのはこっちは知ってるけどね。」
迅は、眉を寄せた。
ならば、まだ時はあるか。
「…それで、龍王様方は我にどうしろと?」
蒼は、答えた。
「とりあえず昌士の学びの進捗を知りたいみたいだ。まずはオレに、陸に書状を書けって。昌士と夕のことを知らせるってことだ。そして確認の上告示をさせて、その上で、望むならこちらで引き続き面倒を見ると言うように、指示された。ま、多分師走までの時間稼ぎだとは思うけど。」
迅は、眉を寄せたまま言った。
「その様子なら、師走まで待つかどうか。」蒼が驚いた顔をすると、迅は続けた。「父は、我の残した計画通りに進めて、今では何とか傘下を持っても回るようになって、軌道に乗り始めていると聞いております。後少し様子を見た後、昌士がそれなりになっておったら我と共にあちらへ戻っても問題ないでしょう。父が愛羅が帰らないと呆けても、問題ないということです。」
蒼は、そういうことか、と思った。
だから炎嘉は昌士はどうかと聞いたのだ。
「…じゃあ、思ったより早くなるかもしれないな。とりあえずこちらで、そのタイミングまで昌士を学ばせて、臣下にも元はぐれの神だと言われぬ様にしておこうということか。」
迅は、頷いた。
「恐らく、そういうことかと。」
迅はやっぱり賢いなあと蒼が感心していると、迅は続けた。
「蒼様、昌士はやはり血は争えぬのか、学びが早いです。元々軍神に教えを受けていたこともあり、断片的ではありますが、予備知識があるので理解が進むのですよ。今では我と宮のこれからを論じられるようにまでなりました。恐らくあちらへ行っても、臣下は文句の付け所はないでしょう。我らの、出自のこと以外は。」
蒼は、少しむっとしたような顔で頷いた。
「ならば良い。出自がどうのなど、結局は陸の子なのは変わりないし、夕は今はこの最上位の月の宮の侍女なのだ。あちらの妃として上がることも可能な地位なのだぞ。」
どうやら、蒼は、元はぐれの神とか自分の臣下が言われるのが、腹が立つらしい。
迅は、頷いた。
「はい。分かっております。我が申したかったのは、もう父に愛羅殿が戻らぬと言うても問題はないということなのです。その時は迫っておりますでしょう。蒼様にも、それをお知りになっておいたほうがと申しました。」
蒼は、そういうことかと頷いた。
「わかった。肝に銘じておくよ。オレってそういうことに疎いからな。特に今はねむくて思考がヤバい。とにかく、隣りで王達が待ってるから。行ってくれ。」
迅は、頷いた。
「はい、すぐに。」と、蒼の後に続きながら、言った。「あ、蒼様。昌士もお呼び頂けませんか。共に居た方が分かりやすいでしょう。」
蒼は、頷いた。
「わかった。侍女に申し付ける。」
そうして、二人は出て行った。
涼夏は、今の会話でこの月の宮を出るのも時間の問題なのだと知った。
この平穏で、心の休まる月の宮から、自分が選んだこととはいえ、出て行く事になるのだ。
そして、一度出たらもう、次はいつ戻れるのか、もしかしたらもう二度と戻れないのかもしれないのだと、急に不安が襲って来て体が震えた。
…私は、ここを離れるのが怖いのだわ。
涼夏は、思った。
命の底から怖いという感情が沸き上がって来るのに自然と頬を涙が伝って行く。
涼夏は、祈るように胸の前で手を組んで、どうか忘れてしまっている何かを、思い出させて欲しいとここへ来る前に話した誰かに願った。
もう何かが起こることが避けられないことだとしても、いったい、出所が分からないこの不安な気持ちは何なのか、その理由だけでも、知りたいのだ。




