7.高峰の宮へ
涼夏が部屋へと重い心地で戻って来ると、真矢達侍女が総出で自分の着物を厨子に詰めていて、その中には、咲耶はいなかった。
…まだ、午後までは我の侍女のはずなのに。
涼夏がキョロキョロと咲耶の姿を探していると、真矢が気取って言った。
「涼夏様、咲耶でございますか?朱理様からのお呼び出しがあって、只今席を外しておりますの。」
父親の朱理が、咲耶を呼び出した。
ということは、今頃は咲耶は、婚姻の話を聞いているはずだった。
涼夏は、ため息をついた。
「そう…。」
そうして、椅子に座って皆が出発の準備を慌ただしくしているのを眺めていると、咲耶が急いだ様子で戻って来て、涼夏を見て、頭を下げた。
「涼夏様。お待たせしてしまいましたわ。さあ、ご出発のご準備を。」
涼夏は、頷いて椅子から立ち上がった。
咲耶は、何も言わない。きっと、もう一緒に行けない理由も聞いているはずなのだ。
涼夏は、着物を着つけてもらいながら、言った。
「…咲耶。あなたには幸せになってもらいたいから。我は、一人で参るわ。」
咲耶は、驚いたように顔を上げる。
「…お聞きになりましたか。」
涼夏は、ゆっくりと頷いた。
「婚姻のお話があるのでしょう?とても良縁だもの。しかも、長い間待ってくれたかたなんだし。だから、つれて行けないと思った。」
それを聞き付けた、あちらで準備を終えようとしていた真矢達が、動きを止めてこちらを見た。
「え?!咲耶、縁談が?」
咲耶は、恥ずかしそうに頷いた。
「ええ。あの、父から今、お話を聞いて。準備があるので、その間王妃様にお世話になるようにと、言われたの。」
途端に、侍女達はきゃあきゃあと黄色い声で騒ぎ始めた。
「誠に?まあお相手は誰なのかしら。ねえ知りたいわ。」
咲耶は、そんな真矢達を窘めた。
「なりませぬよ、涼夏様の御前でそのように。」
涼夏は、フフと笑った。
「良いのよ。ずっと咲耶を見ていたのですって。お父様から我も聞いたの。嶺ですって。」
皆が、それこそ仰天したような顔をした。
嶺は、侍女達全員にとっての憧れで、独身であるのも手伝って、毎日文を送ったりとお騒ぎしているそのひとだったからだ。
「ええええ?!嶺様っ?!」
咲耶は、困ったように涼夏を見てから、真矢達に言った。
「その、そんなに大層なことでは。父から申し入れたのかもしれませぬし。」
朱理は、ここの筆頭重臣なので、父から頼んだのだろうと咲耶は言っているのだ。
だが、咲耶の名誉のためにも、そうではないと知らせておきたい。
涼夏は、大きく首を振った。
「いいえ、違うわ。嶺が、長年想うておったとお父様が仰ったもの。もう百年ほども見ていたのですって。前から朱理に嶺から申しておったようだけど、咲耶は我の侍女をしてくれておったし。でも、今回我がお祖父様の宮へ参ることになって、良い機会だからと咲耶を解任されたそうなの。嶺も、もう300ですものね。」
咲耶は、ポッと赤くなった。
どうやら、咲耶も思うところがあったらしい。
この様子だと、両想いだったのだと思われた。
侍女達は、ええーっと残念そうに声を上げた。
「でも…それなら、あのお歳までお一人だったのも頷けまする。宮仕え、しかも皇女様の侍女であられた咲耶ですもの、安易に妻にとは言えずにおられたのね。ああ、我こそはと、思うておりましたのに。」
皆が同じ気持ちなのか、落ち込んだ感じになった。
涼夏は、慌てて言った。
「何も、軍神は嶺だけではないわ。もっと立派で若い者達も居るのですから。あなた達はあなた達で、また頑張れば良いのよ。大丈夫、我もあちらで良い軍神が居たら、あなた達を呼び寄せてあげるから。期待していて。」
途端に、皆パアッと明るい顔になった。
「誠に?!ああ涼夏様、お待ち申し上げておりますわ!」
「誠に!期待しておりますわ!」
次々に目を輝かせるゲンキンな侍女達に、涼夏は目を白黒させたが、苦笑して、頷いた。
とにかく、これからは自分一人。
厳しいお祖母様に認められるために、頑張って礼儀を勉強しよう!それしか、今自分にできることがないのだから。
午後になり、祖父の宮からはこの宮では見たこともない豪華な輿が出発口に降り立った。
もちろんの事、軍神達の甲冑も、質が違う。
それらが、待っていた涼夏の前に膝をついた。
「我が王の命により、涼夏様をお迎えに参りました。」
隣りに立っていた、父の涼弥が言った。
「ご苦労であるな。これよりは、涼夏をよろしくお頼み申すと伝えてほしい。」
その隣りの夏奈も、言った。
「輪。久しいですね。我が子をよろしく頼みます。」
輪と呼ばれたその軍神は、夏奈を見上げてまた、頭を下げた。
「は。夏奈様にはご無沙汰しておりました。我もこの度筆頭軍神のお役目を賜り、王をお支えしておりまする。」
夏奈は、フフと笑った。
「あの頃はほんの子供でありましたのに。頼りにしておりますよ。」
どうやら、母は知っているらしい。
涼夏は、外出時に必ず掛けられる、すっぽりと姿を覆うベールの中で輪を観察した。
この宮の軍神よりも凛々しい顔つき、大きな気で、侍女達も顔を赤らめているのが分かる。
輪は、輿の入り口の布を避けて、手を差し出した。
「では涼夏様。どうぞこちらへ。」
涼夏は皇女らしく見えるように頷いて、父と母に頭を下げた。
「では、行って参ります、お父様、お母様。」
二人は、自分達で決めたことであるのに、心配そうな顔で、頷いた。
「気を付けての。また文を寄越すが良い。」
そうして、涼夏は頷いて、輪の手を取って輿へと乗り込んだ。
「ご出発!」
外から軍神達の声がする。
輿はスッと浮き上がって、そうしてみるみるうちに空へと舞い上がり、涼夏はたった一人で、祖父の高峰の宮へと飛び立った。
それを見上げる父と母、そして兄と咲耶、臣下達を見下ろしながら、なぜか涙が込み上げて来る。
二度と帰って来ないわけではないのに。
涼夏は、泣くまいと歯を食い縛り、そうして祖父の宮へと、祖父の軍神達に囲まれて向かったのだった。
こうして、空から改めて見ると、世界は広い。
何も分からずに、幼い頃ははしゃいでいたものだったが、こんな風に地上を見下ろした事はなかった。
人の街も遥か下に見え隠れする。
…あの中に居たんだわ。
涼夏は、そう思って見た。
神から見たら、世話をするべき弱い存在でも、涼夏は奈津美としてあそこで精一杯生きていた。
そして、死んだのだ。
…人世は、今西暦何年なのかしら。
涼夏は思ったが、もう関係のない世界だ。
何より自分が死んで、直ぐに転生ていたとしても160年、とっくにこの作品の作者は居ないだろう。
涼夏は、ため息をついて祖父の宮へと降りて行く、輿の中でしんみりとしていた。
祖父の宮は、あり得ないほど大きかった。
もちろん、ここは序列が上から三番目の宮なので、龍の宮はもっと大きいのだろうが、あの下位の宮から来た涼夏にとって、そこは夢のような場所だった。
輿から、輪が差し出す手を握って降り立つと、祖父と祖母が、臣下達と共に出迎えてくれていた。
祖父がニコニコと微笑んでいるのを見て、涼夏は思わず言った。
「お祖父様!」
そして、駆け出してはいけないと、ぐっと我慢してその前に進み出る。
祖父は、微笑んで言った。
「おお、よう来たの涼夏。大きゅうなって。また愛らしい様に磨きがかかっておるの。」
祖父は上機嫌だが、祖母が脇で扇を上げたまま、厳しい顔で言った。
「…このような公の場で、己から声を掛けてはならぬのは基本中の基本でありますのに。そんなことから教えねばならぬのかと、先が見えぬ思いでございます。」
…そうだった。
涼夏は、慌てて頭を下げた。
祖父は、渋い顔をした。
「また主は。良いではないか、久しぶりに会うのだからの。この爺の顔を見て、堪えられなんだのだろうて。」
祖母は、キッと祖父を睨んだ。
「王、そのように甘やかせるから、この子はこのようになってしもうたのですよ。果ては、この歳になってから行儀見習いなど…早ければ、もう嫁ぐ歳だというのに。これでは運良くどちらかに娶って頂いても、行儀がなっていないと返されてしまいまする。この子のためを思うなら、しっかり躾てやらねば。」と、冷ややかな目で涼夏を見下ろした。「表を上げなさい。涼夏、我に任されたからには上位の王にも嫁げるように、申し分ない皇女に躾てあげましょうほどに。もう逃げてはなりませぬよ?分かりましたか。」
涼夏は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
思っていた以上に、祖母は厳しい様だ。
涼夏は、ここで反抗しても更に酷いことになるだけなので、頭を下げた。
「はい。何事も、どうぞよろしくお導きくださいませ。」
祖母は、じっとそんな涼夏を見つめていたが、頷いて踵を返した。
「…では、こちらへ。あなたのお部屋へ案内しましょう。侍女達も、そちらに待たせてあります。」
涼夏は、頷いて祖母について歩き出した。
祖父は、どうやら祖母には頭が上がらないらしく、困ったような顔をしていたが、何も言わない。
なので、涼夏は諦めて、とにかく完璧にできるようになればいいんだからと、気を取り直して奥宮へと歩いた。