4.礼儀見習い
開いた扉の向こうから、声がした。
「よく参ったわね、涼夏。」涼夏が顔を上げると、いつもならが美しい母が、こちらを見て微笑んでいた。「こちらへいらっしゃい。」
涼夏は、それでも挨拶だけはしっかりしないとと、言った。
「お母様には、ご機嫌はいかがでいらっしゃいますか。」
母は、おっとりと頷いた。
「とても良いわ。あなたが来てくれたもの。」と、脇の侍女に言った。「昨日お父様から送って参ったお茶をお願い。」
侍女は、頭を下げて下がって行く。
涼夏は、まだ緊張しながら母の前へと進み出た。
それでも、自分の部屋でするように、勝手にさっさと座ってはいけない。
じっと待っていると、母は自然に言った。
「お座りなさいな。」涼夏は、やっと母の目の前の椅子へと座る。母は続けた。「本日はどうしたの?このようにいきなりに参るのはここのところありませんでしたけど。そういえば…王があなたが龍の宮へ上がりたいと申しておると昨日、仰っていたわね。そのことかしら?」
父は、母に話したのだ。
涼夏は、頷いた。
「はい。あの…つきましては、我は礼儀がまだその段階ではないと、皆が申すので…できたら、七夕祭りまでの間に、お母様にお教え頂けたらと思いましたの。」
母は、途端に扇を目の下まで上げて、じっと鋭い目で涼夏を見た。
涼夏は、怒らせたのかも、とドキドキしていると、母はスッと肩の力を抜いて、扇を下ろした。
「…二月では無理やもしれませぬ。」涼夏がショックを受けると、母はため息をついて続けた。「というのも、我でも気を張って、控えの間まで行き着くのがやっとのことでした。あちらは皆様大変に精錬されておって、己が恥ずかしくなるほどでしたの。まして、龍王妃様の隙の無い身のこなしを見ては…とてもではありませぬが、龍王様の目の端にも映ることはできぬと、早々に戻って参ったほど。今のあなたでは、外宮に足を踏み入れることすらできませぬ。」
維月は陰の月だからなのよー!
涼夏は、心の中で思ったが、それを口に出すわけにも行かないので、黙っていた。
この母が、これほどまでに言うのだから、恐らくあの宮の神々は、想像もつかないほどしっかりとした動きで隙もないのだろう。
でも、婚姻の話でも来たら、せっかくのイケメン達の、顔を見ることもできなくなってしまう…!
涼夏は、思い切って顔を上げて、言った。
「我も、縁談などがあったらそうそう出掛けることもできない事になってしまいます。今のうちに、華やかな場所を見ておきたいと思うのは我がままでありましょうか。」
侍女が、茶を持って来て涼夏の脇の小さなテーブルへと置いた。
母は、自分の所へも運ばれて来た茶器を持ち上げて、またため息をついた。
「…我が父が、送って参った教育の女神ですら遠ざけたあなたですのに。涼夏、我はね、この宮から見たら上の序列の宮から来た皇女でありましょうけど、こう言っては語弊もありまするが、高々上から三番目の宮の皇女であるのです。その上には二番目が、そして龍の宮はそのまた上の、最上位の中の最上位の宮。神世一礼儀に厳しい宮であると言われております。今では皆、弁えるようになったのでこの限りではありませぬが、ひと昔前には、宴の席で少し羽目を外した王や皇子が、一瞬にして斬り捨てられたり、投獄されたりなどしょっちゅうありました。あなたも、例外ではないのよ。想像もつかぬのでしょうが、そのように急いで良いことなどありませぬ。今少し、時を掛けて学んでからにした方がよろしいわ。いくら七夕とはいえ、龍の軍神達、侍女、侍従が目を光らせておる場です。どうしても行きたいのなら、今一度お父様にお願いして教育の女神を寄越してもらいますから、それについて学んでからにしてはどう?」
脇に立つ、母の婚姻の際について来た、母の乳母である真木が言った。
「王妃様、いっそのこと、高峰様に涼夏様をお願いしてはいかがでしょうか。あちらの宮へ参れば、侍女侍従も皆、礼儀を弁えており、涼夏様も自然、動きが身について参られましょうし。王妃であられる咲奈様もお元気であられまするし、きっとすぐに美しい動きがおできになられるようになるかと。」
涼夏は、ぎょっとした。
祖父の宮…上から三番目の序列だが、祖母の咲奈は上から二番目の序列の宮の皇女だったのだと聞いている。
それだけに、より厳しい中で育ったのでもっと礼儀には精通していた。
夏奈は、ハアとため息をついた。
「まあ…確かにお母様ならば、涼夏を甘やかせることはありませぬでしょうけれど。」
だが、祖母の咲奈は未だにこれほどにできた王妃である母の夏奈のことも、里帰りの時の茶会の席などで叱責することがあるほどなのだと知っている。
幼い頃あちらの宮へと行った時、何が悪かったのか何度もため息をつかれたのを鮮明に覚えていた。
涼夏は、そこまでは望んでいない、と慌てて言った。
「あの、我はそのような。こちらでもっと礼儀を学んでから、と…。」
だが、母は目をまた鋭くした。
「…そうね、真木の言う通りだわ。行って来なさい、涼夏。あちらでおばあ様にしっかりと躾けてもらえば、龍の宮がどれほどに厳しい宮であるのか分かろうというもの。もう、龍の宮へ連れて参れと王にご無理を申すこともありませぬでしょう。とにかくは、あなたは知らねばなりませぬ。我が母が、良いと申したら王とご同行して龍の宮へ上がる事を許しましょう。」
そんな!
涼夏は、思ってもいなかったことになってしまって、思わず真木を睨んだ。
真木は、それに気付いても涼しい顔をしている。
そういえば、何度も真木には動きがなっていないと、同席の度に咲耶が叱られていたっけ…。
涼夏は、母に必死に言った。
「お母様、今年の七夕祭りは諦めますので!こちらで精進致します!」
だが、母は首を振った。
「なりませぬ。この際ですから、嫁ぐ宮で恥をかかないためにも、しっかり学んで来るのです。あなたは上位の宮へと嫁がねばならぬ身。ここでしっかり矯正しておかねば、あなたがおつらいことになるのよ。王には、我からお話を通しておきます。」
「お母様!」
母は、スッと立ち上がると、さっさと部屋から出て行く。
恐らく、父の居間へでも行ったのだろう。
涼夏は、悲壮な顔をしていた。
よりにもよって、あんな手厳しい反抗もできないような立場の女神の所へ、行くことになるなんて…!!
その頃、父の涼弥と兄の涼は、臣下達と会合の間に集まり、話し合っていた。
今回の神世の会合では、最上位の鳥の宮の王、炎嘉から、衝撃的な発言を聞いてしまった。
王と名乗るからには己で臣下の面倒を見るのが筋、我らの臣に堕ちたくなければ、励むのだ、と。
つまり、今のように支援を受けてそれで回している宮は、軒並み宮を解体され、どこかの宮の臣へと成り下がるということなのだ。
炎嘉は、下位の宮々には同情的で、いつも親身になって世話をしてくれる力の強い王だった。
その炎嘉がああ言ったからには、その考えは最上位の王達の間で決まっていることであり、揺らぐ事などない。
自立できない限り、今は下位の宮の中での序列が二位であるこの宮も、消滅してしまう可能性がある。
涼弥は、頭を抱えた。
「…このままでは、夏奈が居る今は良いが、次は涼夏をどこかの宮へと考えていた我らにとって、それではならぬということぞ。何とかして我が宮でも、己で何とかする術を模索せねばならぬ。」
涼が、言った。
「只今は下位の宮一位の吉賀殿の宮は、一昔前までは支援が無ければ回らなかった宮でありました。今は、宮も増設して大きな宮になっており、職人達が物資を生み出して月の宮からの支援を受けずにいられるのだとか。その方法を真似てはいかがでしょうか。」
吉賀は、穏やかで優しい王だった。
百年ほど前に、侍女として最上位の宮の一つ、月の宮に上がっていた妹の佐夜子が、月の眷族の那海という女神を里帰りのついでに連れて戻ってから、状況が変わった。
那海は吉賀に嫁ぎたいと月の宮王の蒼に願い、蒼は吉賀に支援をするから娶ってほしいと頼んだのだという。
その那海は、それは美しく賢しい女神で、宮へ入ってからは皇子と皇女を次々に生み、宮の皆を自ら教育して品位を高め、月の宮からの支援を蓄財するのではなく、職人を育てることに使い、見事にそれに成功した。
最初は蓄財もなく倹約していたようだったが、なので今は月の宮からの支援も受けずで十分に回るようにと自立した宮になった。
そうして下位の宮、300余りの頂点に上り詰め、吉賀の宮は今にも下位から上から三番目の序列へと、のし上がろうとする勢いになっていた。
ここで神世の宮の序列のことだが、最上位の宮は戦国から変わらず龍の宮、鳥の宮、月の宮、白虎の宮、鷹の宮、鷲の宮、獅子の宮、高彰の宮の8つ。上から二番目の宮は10。上から三番目の宮は29だった。
そして、下位の宮が300余りとなる。
それぞれの序列の中には、更に序列があって、最上位の中では龍の宮が筆頭だ。
もちろん、二番目の宮の中でも筆頭はあって今は西の島南西の宮翠明の宮。
三番目の29の中でもそれは同じで、夏奈の父王の高峰は、その29の中で序列は第5位だった。
つまり、下位の宮300にも序列があり、今の第一位は吉賀の宮、そして第二位はこの、涼弥の宮だった。
共に上位の宮から妃を迎えており、ここ最近に序列が上がったのだ。
それまで、長年第一位だった陸の宮は、今は三位に甘んじている。
それでも、この宮のようにどこかから支援を要する宮では無くて、吉賀と同じく自立ができている宮だった。
つまり、第二位であるにも関わらず、この涼弥の宮は未だにどこかからの支援を必要としていて、自立できていないのだ。
あの炎嘉の発言は、確かにもっと下位の者達にも脅威だったかもしれないが、上位でありながら自立できていないここは、もっとひっ迫していた。
絶対に、真っ先に矢面に立つだろうと思われたのだ。
涼弥は、言った。
「…夏奈は政にはからきしであるし…吉賀の所の妃のように、いろいろできるはずがない。あちらは月の眷族なのだぞ?それと夏奈を比べるのは酷というものぞ。」
重臣筆頭の、朱理が言った。
「王妃様にはこれ以上はご無理だと我らも分かっておりまする。普通の妃なら、そんなことまで采配などできぬもの。とにかくは、吉賀様とは友であられるのですから、お話を聞いていらしてくださいませ。吉賀様なら、きっと良い方法をお教えくださいます。あちらの宮は、あの妃を迎える前は152位であられました。あそこまでのし上がった手腕の持ち主が傍に居るのですから、きっと何かしら知恵を授けてくださるはずです。」
確かにここも、夏奈が来る前は126位だった。
つまり、吉賀よりは上だった。
ここも何とかできるかもしれないと、涼弥は吉賀に向けて、話がしたいと文を送ったのだった。