36.穏やかな宮
聡子は、涼夏を連れて広い宮の中を、いろいろ案内して回ってくれた。
本当に大きな宮で、しかも石が白いのであちこち明るくて、そして臣下達が楽し気に己の責務を務めて走り回っていて、活気に満ち溢れた様子だ。
そんな中で、塔矢と恵麻にも行き会ったのだが、二人はとても仲睦まじい様子で、寄り添い合って何かを相談し合っていた。
聡子が、子供のように二人に駆け寄って行って、言った。
「お父様お母様!」
二人は、こちらを向いた。
そして、恵麻はフフフと笑ったが、塔矢は苦笑して言った。
「こら聡子、そのように駆け回る歳ではないだろうが。恵麻を見倣うように申しておるではないか?最近では評判の高い涼夏も居るのに。」
涼夏は、評判が高いと言われて、驚いた顔をした。
回りの宮の噂など、自分の耳には入って来ない。
何しろ、宮に籠って皆の教育ばかりしているのだ。
聡子は、バツが悪そうに立ち止った。
「はい…。嬉しくて、つい。」
恵麻が、言った。
「良いのですよ、ご自由になさって。でも、公の場では気を付けねばなりませぬ。普段からようできたかたなのですから、きっと大丈夫よね。」
聡子は、嬉しそうに恵麻を見上げた。
「はい、お母様!」
塔矢が、恵麻を見た。
「恵麻、甘やかせても良い事は無いぞ?」
恵麻は、またフフと笑った。
「我も、これぐらいの歳の頃は訓練場で駆け回っておりましたから。言えぬのですわ。でも、聡子殿がいざという時はきちんとできることを、我は知っておりまする。」
塔矢は、微笑んで恵麻の肩を抱いた。
「主がそう申すのなら。だが、そろそろ成人も近いし、今少し動きを習っておかねばの。」
本当に仲が良さそう。
涼夏は、思わず頬を赤らめた。
何しろ二人は背の高い美男美女のカップルで、恵麻が艶めいているので、どうしても男女、という感覚がして落ち着かない。
恵麻が、それに気付いて言った。
「あら、涼夏殿が恥ずかしそうになさっておいでですわ。王、誰か居る時にはそのようになさっては。」
恵麻は、困ったようにやんわりと塔矢から身を離す。
だが、塔矢は肩を抱く手に力を入れた。
「何を申す。」と、聡子を見た。「聡子、部屋を見せてやるのではなかったのか?戻るが良いぞ、涼夏も疲れて来ておるだろうし。」
はいはい、お邪魔なのね。
涼夏は思ったが、聡子は顔を赤らめて頷いた。
「はい。あの、戻ります。」
恵麻が、困ったように塔矢を見上げた。
「まあ、王ったら…。」
塔矢は、涼しい顔をして言った。
「何がぞ。我が宮の中で、何を遠慮することがある。これで良いのだ。」
涼夏は、聡子と共に頭を下げてその場を離れるその背で、そんな会話を聞いていた。
…やっぱり、王ってみんなこんな感じなんだなあ。
涼夏は、小説の世界の中だけだと思っていたそれが、目の前にあるのに複雑だった。
いつか、自分もあんなに愛してくれる人、いや神が現れるのだろうか。
というか、自分も相手を想うことなどできるんだろうか。
人として生きていた時も、誰かを心底愛したことなどなかった涼夏なので、その事に関してだけは、前世の記憶を駆使しても、全く想像もつかなかった。
それでも、いつかは幸せになってみたい、と、涼夏は思っていたのだった。
聡子の部屋へと帰っていろいろと見せてもらったが、天井も高くて明るく広く、羨ましいほど良い部屋だった。
前は、涼夏の部屋が広いので羨ましいと言っていた聡子だったが、ここは比べ物にならない。
父王の格が上がるというのは、こういう事なのだと涼夏は思った。
…お父様は、これを目指して頑張っていらっしゃるのだわ。
涼夏は、そう思いながらそれを眺めていた。
自分にできるのは、やっぱり宮を回すこと。
涼夏は、改めてそう、心に留めて、そうして聡子の宮を飛び立ったのだった。
自分の宮へと帰って来ると、確かにホッとするものの、塔矢の宮の煌びやかで明るい様とは違って、どこかピリピリと緊張感がある様子だった。
…何かあったのかしら。
涼夏が、留守の間にまさか祖父がと落ち着かない気持ちになっていると、出迎えてくれた和泉が、言った。
「涼夏様、お帰りなさいませ。聡子様はいかがでしたか。」
笑顔だったが、どこか緊張しているようにも見える。
涼夏は、真面目な顔で言った。
「あちらはとても華やかで美しかったわ。それより、和泉。何かあったのね?」
和泉は、え、と驚いた顔をしたが、慌てて首を振った。
「いいえ!何も。いつも通りでありましたわ。」
しかし、通り掛かる臣下の様子も、何やらギクシャクとしているように見える。
涼夏は、何かを隠している、と思い、和泉にずいと寄った。
「何があったの?申しなさい。」
和泉は、首を振った。
「何も!我には、言えぬのですわ。」
ということは、涼夏に言うなと言ったのは、恐らく兄か父だ。
だから、涼夏の命じた事では、それを取り消してまで和泉が口を開くことはできないのだ。
「…分かったわ。」涼夏は、歩き出した。「お兄様にお会いします。先触れをお願い。」
和泉は、急いでついて来ながら、言った。
「涼夏様、あの、問題ありませぬから。確かにお話できませぬが、でも問題なく終わりましたの。お気になさることはありませぬ。」
涼夏は、ズンズンと奥へと歩いて行きながら、和泉を見た。
「…先触れは?このままでは先にお兄様のお部屋についてしまうけど。」
和泉は、こうと言えばこう、の涼夏に、これ以上何を言っても無駄だと思ったのか、慌てて頭を下げた。
「はい。参ります。」
和泉は、走って兄の部屋へと向かった。
涼夏は、その後ろを和泉の背が遠ざかって行くのを追って、兄の部屋へと向かったのだった。
「お兄様。」涼夏は、扉の前で言った。「和泉が先触れに来ておりますか?話を聞きたいのです。」
何やら、中からため息が聴こえる。
「入るが良い。」
それでも、兄はそう言った。
涼夏が扉を開くと、和泉が困ったように兄の前に立っていて、兄は椅子に座ってこちらを見ていた。
涼夏が、深呼吸をして自分を落ち着かせてその前に進み出て頭を下げると、兄は言った。
「…主は。戻ったと思うたら。いったいどうしたのだ。」
涼夏は、顔を上げた。
「お兄様とお父様がお隠しになっておるのでしょう?我が留守の間に、何があったのですか。」
和泉が、困り果てた顔で兄を見る。
兄は、ため息をついて出て行くようにと手を振って和泉に合図すると、和泉は涼夏を気遣うような顔をしながらも、そこを出て扉を閉じた。
兄は、言った。
「座れ。」と、涼夏が座るのを待って、言った。「最初に聞くが、もう沈んでおらぬか?」
涼夏は、驚いた。
自分が沈み込んでいたのを知っていたのか。
何しろ父と兄は忙しくしていて、自分は務めだけは果たさないとと宮を回す事はしっかりとやっていた。
臣下達にも、普通に接していた。
ちょっと外出していなかっただけなのだ。
「…ご存知でしたか。」
涼夏が言うと、兄は頷いた。
「分かっておるわ。あれだけウロウロする主が、務め以外は部屋に籠っておるなど、普通ではない。それに、母上の事を己のせいだとか思うておったのは知っておるしな。ゆえ、我も父上も黙っておったのよ。」
涼夏は、もしかして、と身を乗り出した。
「お祖父様が来られたのですか?」
兄は、深いため息をついた。
「いや、叔父上ぞ。というか、実はこれが初めてではなくてな。」
涼夏は、驚いた顔をした。
初めてではないって、ずっと宮に居たのに気付かないなんてことがあるのだろうか。
涼夏の考えを見透かしたのか、兄は続けた。
「恐らくは、最上位の宮に知られるのを恐れておったのだろうが、夜中に来ておったからの。父上の指示で、主の部屋には音を遮断する膜を張って漏れぬようにしておった。ゆえ、主は知らなんだのよ。その時は追い返したが本日は、いよいよ痺れを切らして軍神達を連れて参ったのだ。知っての通り、財力云々よりも、こちらの宮の軍神達とは気の大きさから違う。父上も我も、此度ばかりはどうしたら良いかと思っておったら、ちょうど龍王の遣いだと言うて、あの宮の筆頭軍神の、義心がやって来ての。」
え、義心がこんな所へ?!
涼夏は、驚いて口を押えた。
それが分かっていたなら、聡子の宮へ行くのは別の日にしたのに。
涼夏が思わずミーハー丸出しな考えに沈んでいると、兄は知らずに続けた。
「軍神が多く来ているのを見て、戦でも始めるようですな、と、冗談めかして申したのだ。それで、叔父上は真っ青な顔になって、そうしてごにょごにょと何やら言うておったが、逃げるように帰って行った。それで助かったのだが、肝心の義心は王にご報告が先だったのを忘れておったので、また参ると言って、すぐに飛び立ってしもうたのよ。」
涼夏は、それを聞いて、思った。
恐らく義心は、この宮がごたごたに巻き込まれているのを知っている。
維心に言われて、この辺りを見回っていたのだろう。
そして、叔父がここへ軍神達を連れて来たのを見て、恐らく助けるためにここへ下りたのだ。
だからこそ、大した用もなく、さっさと龍の宮へと戻って行ったのだと思われた。
今頃、維心もこの事を知っているはず…。
涼夏は、兄を見た。
「…では、きっと義心が助けてくれたのですわ。偶然叔父が軍神達を連れて押し入ったのを上から見て、下りて来てくれたのでしょう。今頃は、龍王様もご存知のはず。でも…叔父は、まだお母様をこちらへと?そんなに、お母様のご様子はお悪いのですか?」
兄は、長く息を吐いて、頷く。
「…ああ。言わなんだが、伝え聞いておると、もはや姿さえもまるで獣のように乱れておるのだとか。己の気に己から蝕まれておるのだ。そんな気を孕んでおるのかとお祖父様の回りの宮からも苦情が殺到しておるようで、宮は今、困り果てておるようぞ。だからといって、それが何なのか分からぬでおる。ただ病んでおるだけにしては、おかしなことなのだ。」
涼夏は、何か薄ら寒い物を背に感じた。
何だろう…祟り神にでも、なってしまいそうな。
涼夏は、ハッとした。
そうだ、祟り神…身の内からの暗い念で、確か小説の中でも祟り神と化した神のなれの果てが出て来たのではなかったか。
祟り神になってしまったら、同じように浸食される可能性があって、誰もそれを引き剥がせないのだ。
直せるのは、恐らく維心、維明、十六夜、蒼、維月ぐらいのものではなかったか。
まさか…でも…!!
涼夏は、真っ青になって座っていられなくなって、膝をついた。
兄が、慌てて手を出した。
「涼夏?大丈夫か。」
涼夏は、冷や汗を流しながら、兄を見上げた。
「お兄様…それ、それってもしかして、もしかしてお母様は、祟り神、に…?」
兄が、一気に顔色を無くした。
そうだ、どうしてそれに気付かなかったのだ。
段々に増して来るあの瘴気のようなものも、祟り神の誕生の時の力のせいなのではないのか…?
二人は、真っ青な顔を見合わせて、しばらく絶句していた。




