32.兄と妹
涼夏は、控えの間に戻って来た父に、さり気なくどこに居たのか聞こうと思っていたのだが、父は思い詰めたような顔をしていて、言葉を飲み込むしかなかった。
その話の流れから、母の事も聞いてみようと思っていたのに、とても言い出せそうにない。
そのまま、いつも涼夏には優しく話してくれるはずの父が沈黙しているのを横目に見ながら、涼夏はいつものように、輿に乗って自分の宮へと帰って来た。
宮へと着いてすぐ、父は作業場の方へと足早に去って行き、涼夏はため息をついて、兄に先触れを出した。
迅が、話してくれたことをどうしても知らせねばならない。
本当ならさっさとこのまま部屋まで踏み込んで行って、迅からこんなことを聞いたと言いたいところだったが、それが許されないのが歯がゆかった。
和泉が、イライラして待つ涼夏の元へと戻って来て、頭を下げた。
「涼夏様。涼様がお会いになると仰っております。」
涼夏は、やっとかと立ち上がった。
「では、行って参るわ。」
和泉は、慌てて言った。
「ですが、お着物が。外出用のままですわ。」
部屋着に換える、時間も惜しい。
なので、首を振った。
「良いの、急ぎの用であるから。戻ってから着替えるので、着物の準備をしておいてね。」
和泉は、困ったような顔をしたが、涼夏は言い出したら聞かないので、頷いた。
「分かりました。」
涼夏は、もう和泉を振り返ることもなく、急いで部屋を出て、兄の対へと急いだ。
兄は、次の王なので小さな宮のような形の、部屋を持っていた。
きちんと居間があって奥の間があって、そして妃を持った時の部屋も二つほど併設されてある。
だが、兄はまだ200になったばかりなので、妃は居なかった。
「お兄様。涼夏です。」
居間の前で声を掛けると、中から答える声がした。
「入るが良い。」
中へと入ると、兄が部屋着で正面の椅子に座っていた。
涼夏が、外出したそのままの姿でそこに立っているのを見た涼は、目を丸くした。
「何を急いで来たのだ。何かあったか。」
涼夏は、頷いてズンズンと兄の前へと進むと、言った。
「迅殿から、お母様のお話を。知っておいた方が良いだろうと、知り得た情報をお教えくださいましたの。それで、急ぎお兄様にもお知らせせねばと思うて参りました。」
涼は、眉を寄せた。
「…聞こうぞ。座れ。」と、涼夏が座るのを待って、声を落として言った。「我も気になっておった。侍女達は交代の時間でおらぬ。どうであった。」
涼夏は、頷いた。
「迅殿の母上も我らの母も、面倒な気を発して狂うたようになっておるのだそうです。龍王様達がそれを気取っておって、何とかするようにお祖父様と清様に申しておるようで、清様は自分の結界で封じ、お祖父様は結界で封じてるのに気が漏れるので、もうどうしようもないのだとか。もしかしたら、万策尽きてお父様に引き取れと言って来る可能性があるのだと迅殿は申すのです。そうすれば、元へ戻るのではと考えて。でも、迅殿はそうは思わないと。今の状態で、もう元に戻ることなどないだろうとおっしゃっておりました。我らの母の方がより厄介な気を発しておるようで、もうすぐ霜月の会合があるので、そこで龍王や最上位の王達に糾弾されるのを恐れておるとのことなので…覚悟をしておいた方が良いと…。」
涼夏は、それを聞いた時の重苦しい気持ちを思い出していた。
母は、自分のせいで殺されてしまうかもしれない。
涼夏が暗い顔をしているので、涼は言った。
「それは…また、この宮へお祖父様が押し入って来るかもしれぬということか?」
涼夏は、頷いた。
「はい。それもですが、お母様がどうしようもなかったら、最上位の王達がお命を…と。我が、あの時お父様に上位の宮に嫁ぐとか申してしまったばっかりに。お母様が、里へと帰られたからこんなことになってしまったのですわ。我のせいで、お母様が…。」
涼は、事態を悟って顔を険しくしたが、涼夏の肩に手を置いて、首を振った。
「主のせいではない。あんな様子では、もし父上が我慢なさったとしても、我の代では母上に里へ帰るように申しておっただろう。あれで良かったのよ。それにしても…これは、父上のお耳に入れておいた方が良いな。父上は知っておるのか?」
涼夏は、首を振った。
「分かりませぬ。迅殿は我にだけ話しに参ってくれたので。知っておいた方が良いだろうと言って…。」
涼は頷いて、立ち上がった。
「父上に、我から申して来る。噂で聞いたと申すわ。そうしたら、迅から聞いたとは思わぬだろうしの。その方が、何かあった時対応に戸惑わぬだろうから。その様子では、いつこちらへ押しかけて来てもおかしくはないのだろう?」
涼夏は、頷いた。
「はい…。事は最上位の王達も関わっておりますから。きっと、お父様に押し付けようと思うはずですわ。だって、いつもそうだったんですもの…。」
考えたら、祖父は勝手なのだ。
もちろん、自分を乱暴に放り出した叔父の安峰もそうだった。
涼夏は、親族と慕っていた頃が懐かしかった。
何も知らずに、好き勝手に生きていた頃には、こんな物思いなどなかったのだ。それが、父や兄に守られて安穏と暮らしていたからこその事だったのだと、涼夏はやっと分かった。
いつまでも、何も知らずにはいられない。
いつまでも自分勝手に生きた結果が、きっと母の夏奈のような事になってしまうのだ。
涼夏は、そう思うと愛羅からの宿題である、文を書いて来なければと、焦る気持ちになって来た。
もう部屋へ帰らなければ、と、思った以上に心労でフラフラとする涼夏に、珍しく涼は気遣って部屋へと送ってくれた。
そしてその後、涼は父の下へと向かって行ったのだった。
それから、兄は父の所へ行ったようだったが、特に涼夏には、何も言って来なかった。
祖父がすぐにでも母を連れて押し掛けて来るのではないかと思っていたのだが、それも無いままに日々は過ぎて行く。
涼夏は、いつもハラハラしながら過ごしていたので、愛羅にも気が不安定だと言われているが、直しようがなかった。
むしろ、毎回それを指摘されるので、段々に腹が立って来ていた。
なぜなら、何の不安もない愛羅とは違い、こちらは自分の母親があんなことになっているのだ。
だが、それを言ってしまうのも、八つ当たりのような気がしてできなかった。
なので、しばらくは体調を理由に、愛羅の所へ通うのを、やめる事にしようかと涼夏は思っていた。
愛羅からは、こちらを案じるような文が届いていたが、それでも涼夏は、それに返事を書く気にもならなかった。
おっとりと茶を飲んで笑っていられたら、どれほどに楽だろうか。
貴婦人にならねば宮の役に立たないと分かってはいても、環境の差にはどうしても納得が行かず、今はそっとしておいて欲しかった。
涼夏がそんな様子なので、父も陸の宮へと行ってはいなかった。
いくら職人を預かってもらっているとはいえ、元々そんなに頻繁に訪ねる筋でもないのだ。
ただ、涼夏が行くので共について来るという理由で居たが、なので父も、しばらくはあちらへ行っていなかった。
すると、愛羅からの文が頻繁になって来て、鬱陶しいほどだった。
曰く、時を空けたら忘れてしまうだろうから、できたら短い時間でもこちらへ来たらというのが、愛羅の言い分だった。
涼夏は、どうしてそんなに、と思いながらも、仕方なくその文にも、体調が回復しましたら、と同じ文言で返事を書いた。
同じ時に迅に宛てても、どうかこちらの事情を考えて頂いて、少しお休みさせて頂きたいのだと、迅からも遠回しに言ってくれないか、と涼夏は文を書いた。
すると、愛羅からの文がピタリと止まった。
それはそれで、何かストレートに言ったのではないでしょうね、と涼夏は気になったが、もうこの際、これであちらと疎遠になっても、仕方がないと思ってしまっていたのだった。




