30.父の気持ち
その日は、父が戻って来ても特に何も聞かされる事もなく、どうやら父は、麗羅と庭を歩いていたことを、知られていないと思っているようだった。
なので、兄と二人で悶々としながらも、聞くのは無粋だろうと結局何も聞けなかった。
気になったが、宮へ帰れば涼夏も臣下達の教育という、責務が待っている。
なので、自然忘れてそのまま過ごしていた。
兄は、政務を共に担っているので常に側に居るので、この限りではなかったようだ。
迅からの文が来たらしく、ようよう聞いてみると陸は涼弥にも幸せになってもらいたい、と思っているらしい。
迅が言うには、友である涼弥なら、きっと麗羅に見合うはずだと思って、庭で偶然行き合った麗羅を、涼弥に頼んで世話をしてもらったのだそうだ。
麗羅は、涼弥を一目見た時から気になっていたらしく、最近では愛羅にも涼弥の話ばかりをするらしい。
こちらの宮では父は何一つ麗羅の事を口にしないのとは、対照的な様に見えた。
とはいえ、父には軽々しくそんなことを口にできる立場でも状況でもない。
弁えていて、言わないということも考えられた。
涼夏は、あれからも何度も愛羅にいろいろ教わるために陸の宮を訪れていて、その度に父も同行するのは、少し過保護だと思ってはいた。
それが、麗羅に会うためなのではないか、と言われたら、そうなのではとも思う。
だが、婚姻がどうのという話はないままに、毎日は過ぎ去って行っていた。
今日も、涼夏は父と共に陸の宮に降り立った。
こう頻繁だと、陸ももう出迎えに出てはいない。
勝手に奥まで来てくれという感じだった。
涼夏も、来たら奥の手前の応接間に、と毎回決まっていたので、もう勝手が分かっている宮の中、そちらへ向けて単身歩いていた。
すると、前から迅が歩いて来た。
当然、こちらの宮は迅の宮なのだから会うだろうが、最近では他の宮の皇子達も、涼夏にはとても礼儀正しくしてくれるのだが、迅だけは違う。
未だに、あの涼夏の礼儀知らずな様を覚えていて、こうして皇女らしく振る舞っていても、扱いは全く変わらなかった。
そんな苦手な迅を回避する方法はないかと思案したが、あいにく道は一本、どんどん迫って来る。
涼夏は、仕方なく立ち止まって頭を下げた。
「…相変わらず、気の操作は苦手であるな。」迅は、開口一番そう言った。「我だって、好きで主に会うのではないわ。我慢せぬか。」
涼夏は、むっつりとして顔を上げた。
「今少し丁寧にご対応くださったら我だって落ち着いてご対応できますのに。いつまでも昔を覚えていらして、そのようだからですわ。」
迅は、眉を寄せた。
「昔だって?まだ数ヶ月前の事だぞ。」と、息をついた。「まあ良い、母上が待っておるわ。とはいえ…涼に話そうかと思うておったが、主も知りたいのではないか。我らの生母と、主らの母の話よ。」
涼夏は、え、と迅を見つめた。
「何も教えてもらえませんの。まだ戻りたいとか言っているのかと、気になっておるのですが、お手紙もならぬと言われておって。どんなご様子なのですか。」
迅は、回廊の只中なので、回りを見て、小声で言った。
「…先に指南であろう。その後で話そう。主の控えの窓の外へ参る。控えへ帰ったら、侍女を遠ざけておくがよい。」
涼夏は頷いた。
迅は、言いたい事だけ言うと、さっさとその場を去って行く。
どうやら、涼夏と噂になるのも嫌であるらしかった。
涼夏は、それでも情報はもらいたいので、迅が来るのを待つ事にして、今は愛羅が待つ応接間へと向かった。
愛羅は、今日もそれは美しかった。
涼夏が入って行くと、微笑んで出迎えてくれた。
「よくいらしてくださいましたわね、涼夏殿。最近ではかなり涼やかになっておりますが、いかが?」
涼夏は、顔を上げて微笑み返した。
「はい、愛羅様。お会いできて嬉しいですわ。宮でも結界内は気温を調節し始めましたの。もう、霜月でございますものね。」
愛羅は、頷いた。
「お座りになって。」涼夏は、何も指摘されなかった、とほっとしながら椅子へと座る。愛羅は続けた。「…やはり気の制御はまだ難しいですか?」
やっぱり丸分かりなのね。
涼夏は、バツが悪そうな顔をした。
「はい。励んでおるのですが、なかなかに。」
愛羅は、おっとりと微笑んだ。
「まだ160歳ですもの。成人までにできたら良いと我は思います。我もそうでしたから。」と、侍女に頷きかける。侍女は、頭を下げて下がって行った。「…本日は、書の御指南を。準備させますわね。」
遂に来た…!
涼夏は、思っていた。
表立って言えなかったが、文を取り交わす度に教わる女神もいないので、拙くて申し訳ない、としつこいほど書いていたので、愛羅はならば我がと申し出てくれていたのだ。
本当に厚かましい限りだったが、愛羅は嫌な顔一つしない。
だが、気を制御できるので、本心がどうなのかは分からなかった。
なので、頭を下げて愁傷に言った。
「誠に、何もかもをお願いしてしまいまして、申し訳ありませぬ。父も、これでは嫁ぐなど無理だと嘆くので、ほとほと困り果てていたのですわ。誠に有り難く思うております。」
すると、愛羅がピクリと反応した。
「…涼弥様が?」
涼夏は、頷いた。
「はい。有り難いことだと、当代一の女人について習うのだから、しっかり励むようにと言いつかっております。」
愛羅は、まあ、と扇で口許を押さえた。
「そうなのですね。我などとてもとても…当代一などお恥ずかしい限りですが、王がそのように申されるのなら尚のこと力を入れてお教えせねばなりませぬわね。」
…おかしい。
愛羅は、父に興味などないはずだった。
だが、父の名を出した途端に反応が変わった。
父のためならと言うような、そんな雰囲気が感じ取れたのだ。
…どうしてだろう。
涼夏は、考えた。
愛羅が父に懸想しているなどないはずだ。何しろ陸とは眩しいほどに仲睦まじいと聞いている。
腹にも子が居て、幸せそうだ。
だとすると…。
涼夏は、ハッとした。
もしかしたら、麗羅殿…?
涼夏は、思った。
麗羅が、父の話ばかりをしているのだと、迅から涼への文で知っていた。
もしかしたら、だから愛羅は涼弥の役に立つことをして、麗羅の印象が良くなるようにと考えているのではないだろうか。
何しろ、そうなったらこの陸の宮とは隣り同士の宮に嫁ぐことになるので、行き来も楽にできるだろう。
他へ嫁いだら、それが可能なのかも分からないし、そもそも蝦夷へなど帰ってしまってあちらで婚姻したら、こちらに嫁いだ愛羅は滅多に麗羅と会えなくなってしまうのだ。
そう考えると、麗羅が父を気に入っているとしたら、愛羅はそれを進めたいと考えるように思う。
涼夏が妙に合点がいって、きっとそうに違いない、と思って考えている間に、目の前には紙と墨が準備されていた。
ハッとして顔を上げると、愛羅が言った。
「では、拙いながらも我がご指南を。これからは、毎日お帰りになってからも我に御文をお送りくださいませ。そうしたら、我が添削してお返しいたしますから。そうしておるうちに、己の文字というものが書けるようになって参ります。我も、最初は母の文字を真似て精進しましたのよ。」
涼夏は、ゴクリと唾を飲み込んだ。
父のことより、まずは自分のこと。
筆は心もとなく字がふにゃふにゃと思ってもみない形になってしまう。
ちょっと力加減を間違えたら、物凄く厳つい文字にもなった。
それでも、書き直すのも面倒でそのまま出してしまっていたので、愛羅はそれを矯正するのなら、かなり頑張らねばと思っていると思われた。
涼夏は、目の前で例文を紙にサラサラと書きつける、愛羅を見つめて黙っていた。
そうして文字を記している時ですら、さり気ない風でそれは美しい所作の愛羅に、一生かかっても追いつける気がしないと、涼夏は叫び出したい気分になっていたのだった。




