18.七夕祭り
ああ、本当に、本当にここが龍の宮なのだわ…!
涼夏がベールの中で涙を流しているのに気付いた、父が苦笑した。
「大きいであろう?」と、涼夏に懐紙を渡した。「それに美しい。ここは、神世最古で最大の宮なのだ。」
本当に、美しいわ。
涼夏は、懐紙で涙を拭いながら頷いた。
あまりにも巨大で、向こうの奥宮が全く見えない。
ここで、この小説の主人公達は生活しているのだ。
涼夏は、感無量で到着口へと降りた、輿から外を見た。
父と兄が先に降りて、母と涼夏を降ろしてくれる。
回りには、同じように到着した輿でごった返していたが、到着口があり得ないほど大きく広いので、全く混み合ってはいなかった。
…ああ、我は今、龍の宮に居る。
涼夏が一人感慨に耽っていると、脇から声がした。
「あら、涼夏殿?」
振り返ると、そこには聡子と、その父王の塔矢が立っていた。
「聡子殿。」
と、慌てて塔矢に頭を下げた。
そのままじっと待っていると、塔矢が言った。
「涼夏殿。そのように畏まらずで良いのだ。」
涼夏は、答えた。
「お久しぶりでございます。失礼を致しました。」
塔矢は、苦笑した。
「良いと申すに。」と、聡子を見た。「主も、このような場では友より先にやることがあろう。」
聡子は、真っ赤になって慌てて涼弥に頭を下げた。
涼弥は、笑った。
「良いのよ、無礼講での。祭りであるのだから。」
しかし聡子は、赤い顔のまま、下を向いていた。
「ですが…お恥ずかしい様をお見せしてしまいました。」
母の夏奈が、フフと機嫌良く微笑んで言った。
「まだお若いのですから。涼夏も我が母に躾てもらうまでは、誠にお転婆でありましたから。」
涼夏が、今ここで言うの、と思ったが、聡子も知っている事実だ。
恐らく、塔矢も聡子から聞いて知っているだろう。
涼弥は、言った。
「では、控えへ参るか。」
塔矢が、頷いた。
「清と斉、それに吉賀が着いておるのを見た。それに、上に陸が浮いておったからそろそろ参るのではないか。皆控えが近いし、あちらで会おう。」
涼弥は、笑って塔矢と並んで歩き出した。
「そうであるな。開式まではまだまだあるし、それまで茶でも飲むか。」
下位の宮々は、先に着いておかねばならないので、着いてから開式までが長い。
到着してから控えで寝直すという神も居るぐらいだった。
「ご到着の皆様は、会合の宮へとご移動くださいませ!」
龍の臣下達が、叫んで誘導している。
涼夏は、会合の宮の実物が見られるのか、と兄を見た。
「お兄様、会合の宮とは?」
すると、兄は歩き出しながら微笑んだ。
「最近に増設された宮で、主に会合や、大きな催しに使われる宮ぞ。最近までは本宮でやっておったのだが、あれが立ち上がってから控えもそこにあるしで、七夕は本宮の中には我らのような一般の参加者は入らぬのだ。とにかく大きな宮であるから、会合の宮だけでも退屈はしまい。北と東は庭も解放されておるし、自由に歩けるぞ。」
そうか、本宮には入れないのね。
涼夏は、少し残念だった。
恐らくここが本宮で、今向かっているのが本宮から繋がる、会合の宮への連絡通路の方向だろう。
それにしても、大きい。
大きな街のようだと聞いていたが、この回廊にしても、想像していたよりも幅が広く、ここだけで宮が幾つも入りそうだ。
大きな高い窓からは昇って来る朝日が見えていて、それに照らされた庭の木々はそれは美しかった。
さりげなく置いてある台も、その上に置いてある花瓶も、生けてある花も、見た事もない細工が施されていて、花は術が掛かっているのかキラキラとしていて、息を飲むほど美しかった。
何もかもが目に新しく、もう今だけで涼夏の頭は精一杯だった。
…こんな所で、維心と維月は生きているのね。
涼夏は、夢を見ているような心地で、回廊を歩いていた。
すると、会合の間への連絡通路に着いて、そこからまた庭を眺めながら、長い回廊を歩いた。
目の前の窓の外には、また巨大な建物が見えていて、ぐるりと回り込んでそちらへと通路が繋がっているのが分かる。
あれが、会合の宮らしかった。
…維月がいつも宮の中を着物で移動するのがつらいと維心に運んでいてもらっていたのが、分かる気がする。
涼夏は、思っていたより本当に距離がある宮に驚いていた。
母は、もう少し気分が悪そうだ。
こんなに歩くことは、普段ないので疲れて来ているらしい。
もしかしたら、前回倒れたのも、もしかしたらこのせいだったのではないか。
侍女達は、緊張していたからだと言っていたが、そんな気がしていた。
涼夏は、思わず振り返って立ち止った。
「お母様、大丈夫ですか?お足元がつらいのでしょうか。」
すると、前を歩いていた塔矢と父が振り返った。
「夏奈?そうか、これほど動くことが無いものな。我が運んで参ろう。控えで休むが良い。」
夏奈は、やはり青い顔をしている。
「はい…誠に申し訳ありませぬ。」
体力も必要だよなあ。
涼夏は、思った。
軽くハイキングでもしているような距離なのに、まだ到着して回廊を会合の間へと歩いている段階なのだ。
本当に、街の規模なのだ。
涼夏と聡子は、まだ若いからかそこまでつらくはなかったが、母のように長年宮の中に引き籠って動くことが少ない女神にとって、この宮は命取りなのかもしれない。
父に抱えられて行く母を見ながら、涼夏はそう思っていた。
聡子が、ため息をついた。
「…確かにこの距離では、お疲れになるかもしれませぬ。我は、いつも裏の林を登ったりして、細工の材料とか取りに参るので、足は丈夫なのですわ。」
涼夏は、自分も庭を駆け回っていたからと言いたかったが、言わなかった。
最近は、ついぞ庭を走り回ったりはしていない。
模範的な皇女なのだと、皆に思ってもらうためだ。
それが、自分の身を守るためだと悟ってから、崩すのが怖くなった。
この方が、皆に大切にされるし、気にかけてもらえる。
それに、こうして龍の宮へも来られる。
だから、これで良かった。
…でも、この我を娶りたいと言われて、婚姻したら相手は本当の我を知らないってことだよね…。
涼夏は、少し寂しい気持ちになりながら、庭を眺めて回廊を渡ったのだった。
控えの間は、上階だった。
聞いたところ、一番下の部屋は上位の宮の王達の控えの間になっていて、そこから庭を眺めて、外へ直接出て行くこともできるらしい。
そして、大きさも複数の寝室、居間ととても広く、こことは違うのだそうだ。
だが、父の割り当てられている控えの間も、上階とはいえ寝室が二つあって、小さいながらも居間がついていた。
そこへ入ってキョロキョロと見ていると、父が言った。
「今夜は、寝室が二つしかないゆえ、そちらの寝室は夏奈と涼夏、こちらの寝室は我と涼で使うことにする。本日は宴の席も出て良いと言われておってな。例年は、決められた宮しか残れなかったのだが、今年は皆、残りたければ残ったら良いと。せっかくであるから、見せてやりたいと思うてな。だが、疲れておったら良いから。」
夏奈は、頷いた。
「はい。ですが、せっかくですので。ただ、龍王様の顔見世が終わったら、少し失礼して休んでおきたいと思うております。」
父は、頷いた。
「無理をするでない。」と、涼を見た。「涼、先ほど隣りに陸と迅が入って行くのを見たぞ。我も話して参るが、主はどうする?」
涼は、頷いた。
「我も参ります。あれは賢しいので、話していてためになる。」と、涼夏を見た。「主も。聡子殿と、それに本日は佐那殿も来ておったようぞ。他は来ておらぬようだったが…庭へ出ておったら良い。龍王殿が出て参ったら、皆が騒ぎ出すゆえ分かる。神の流れに従って行けば、遠く座って居られるお姿が見られるぞ。ご機嫌が悪かったすぐに引っ込んでしまわれるので、出て参られる前から待っている神も多いらしい。好きにしておるが良い。この場所を覚えておって、戻って来さえしたら良いから。」
涼夏は、母を振り返った。
「ですが…お母様は?お一人になってしまいますわ。」
父が、首を振った。
「夏奈は我が顔見世に連れに戻るわ。それまでこちらで休んでおれば良い。もう明るくなって参ったし、楽しむが良いぞ。今の主なら、充分にこの中でもやって行けるだろう。ただ、一人になりそうになったら、その辺に呼び掛けて侍女を借りるのだ。どこででも、侍女は居ますか、と問いかけたら、ここではどこでも手が空いている侍女が出て来る。そうして、自分の身分を告げたらここまで送ってくれるゆえ。問題ない。」
そういうシステムなのね。
涼夏は、頷いた。
「はい、お父様。では、出掛けて参りますわ。」と、母を振り返った。「お母様は、奥の部屋でお休みください。」
夏奈は、額に手を置いて頷いた。
「そうさせてもらうわ。ではね、涼夏。」と、父に頭を下げた。「では王。失礼致します。」
父が頷くと、母は奥へと引っ込んだ。
侍女を連れて来られていないので、自分で袿を脱がねばならないが、母は大丈夫だろうか。
涼夏は気になったが、いつ龍王が出て来るか分からないので、そのまま控えの間を後にした。
やっと、維心が見られるのだ。
もしかしたら、維月も見られるかもしれないし、挨拶に来た炎嘉とか、主要キャラもまとめて見られるかもしれない。
そう思うと、涼夏は早く行って場所を取っておこう、と、急いで聡子の控えへと向かったのだった。




