109.遠くへ
月が中天を越える頃、迅は遠く蝦夷へと渡り切っていた。
焔の領地と、その他の領地の間を上手く抜けて来られた。
あの辺りが一番の難所だと思っていたが、案外に楽に通れたのは、結界に触れぬようにギリギリを抜けたからだろうと思われた。
軍神達は見回るが、結界ギリギリは不安定な形になっていて、触れる危険性があるので潜む輩も居ないのを知っているので、少し離れて回る。
それを、迅は知っていたのだ。
確かに焔の結界はその主の性質もあってあちこち思わぬ形に出っ張ってはいたが、それでも迅は慎重に避けて行く事ができたのだ。
恐らく、あちらでは大騒ぎになっているだろう。
世話をしてくれていた蒼には心底悪いと思ったが、迅は最上位の王に逆らえないのを知っていた。
もちろん、碧黎にもだ。
記憶は、簡単に消されてしまうだろう。
そして、自分のせいで宮は滅ぶ。
昌士も、せっかく落ち着いた月の宮から、王座につけさせるために宮へと返したのに、勝手な迅のせいで巻き込まれる形になってしまうのだ。
それでも、迅は涼夏が逃げたと聞くまでは、月の宮を出るつもりはなかった。
無理だと思っていたからだ。
だが、結果的に涼夏は、迅が逃げ出す隙すら作ってくれた。
涼夏が逃げたと聞いた時、それも可能なのかと気がついた。
十六夜は、いつも見ているわけではない。
碧黎も、一度逃げてしまえば小さな気を探し出すのは困難だ。
大きな体の上で、小さなノミを探すような作業だからだ。
ノミが刺せばすぐに気が付くだろうが、おとなしくしていれば気が付くのは遅れるだろう。
それに気付いて、涼夏失踪を利用させてもらおうと思ったのだ。
最初から、涼夏を見付けられるとは思っていなかった。
何しろ、涼夏には自分と同じ記憶がある。
夜に逃げたのなら、その辺りに居るとは思えなかった。
絶対に、自分と同じように蝦夷を目指したはずなのだ。
誰も警戒していない夜なら、焔の結界外も難なく通っただろう。
何しろ、気を遮断する膜を被っているのだ。
迅は、旭の素直な結界を前に、東側から大きく海中を回って、今や誰も点々としか統治していない、空白の土地を目指して飛んだのだった。
一方涼夏は、もう北海道の最北端の町に到着していた。
ここまで来てホッとしたものの、よく考えたらここへ来るのに必死になるあまり、それからの事を全く考えていなかった。
どうしたものかと思ったが、まずはここへ来るまでに何度もやって来た、気の補充だ。
涼夏は、誰も居なくなった人の町の、海辺の大きな倉庫へと入り込むと、その中に大きく気を遮断する結界を張った。
そして、自分を包む膜を破ると、サーッと回りの気が集まって来て、生き返る心地だった。
この補充の仕方は、その昔維月と維心の妹の瑶姫が拐われた時の話で知っていた。
…人のふりをするよりないのかしら。
涼夏は、思って自分の髪を見た。
思えばこの髪は、人世では目立つ。
こんな田舎でこんな色に染めている人も居ないだろうし、やはり黒髪、しかもこんなにロングではおかしい。
涼夏は、じっと髪を見つめると、術で黒く変えてみた。
これまでやったことはなかったが、女神の間では髪色を変えたりしょっちゅうやる。
それがおしゃれだったからだ。
そして、短く見た目を変えてみるが、瞳の色だけは無理そうだった。
…カラコンかなあ。
涼夏は、思った。
明日にでも人世のドラッグストアにでも行って、申し訳ないが拝借してこよう。
何しろ、金がない。
月の宮で学んだ今の人世は、一度ポールシフトで衛星などが滅んでしまってから、電波も飛ばなくなり、様変わりした。
電子マネーが難しくなり、今はどこもまた、昔ながらの紙幣が使われているようだった。
神なのだから、人には見えないし、黙って拝借してくることは可能だったが、何やら気が咎めた。
とりあえず戴いたら、その持ち主の人には良い事があるように、気を整えてあげよう、と涼夏は思った。
お賽銭を強奪して無理やり運気を上げてやるのだから、あちらにしたら押し売りのようなものかもしれないが、今はそれしかなかった。
ホッとため息をついて回りを見ると、その倉庫には段ボールが積み上げられていて、出荷を待っているようだった。
…中身は何かしら。
涼夏は、それらに近付いて、中を確認した。
それは、どうやらアパレル関係の倉庫だったようで、服や靴下、靴、カバンなど、いろいろな物が詰まっていた。
…ラッキー!
涼夏は思って、今の流行りも何も分からなかったが、さっさと無難なコーディネートで服をかき集めて、それに着替えた。
靴など何百年ぶりに履いたのかと思ったが、案外しっくり来る。
なので、着物は畳んで大きなリュックサックに詰め込み、それを背負った。
…人に見えるかしら。
涼夏は、あちこちキョロキョロと探したが、鏡はなかった。
仕方なくそのままそこを出る事にして、また気を遮断する膜を被ろうとして、ハッとした。
…そういえば、夜は気を遮断する膜は見えるんだったっけ。
黄色く光る膜は、夜の闇の中ではうっすら光って見える。
こうなったら、気に色を付けるしかない。
確か、腹の子の気の色を偽る術というのが昔からあった。
夫ではない誰かの子を夫の子だと誤魔化すために、女神が秘かに使う術だ。
それを自分に掛ければ、恐らくいける。
…でも、誰かの気を纏う物が必要なんだよなあ。
涼夏は、顔をしかめた。
誰かの髪の毛かなんかが、必要だ。
とりあえずそこを出る事にして、涼夏は膜を纏って、大きく敷いていた倉庫の膜を破った。
倉庫を出て歩いていると、前から懐中電灯の光がチラチラ見えた。
どうやら、警備員が倉庫郡を見回っているようだった。
このままで居れば、人には自分の姿は見えないが、涼夏は意を決して、海を見ているふりをしながら、ボラードの一つに腰掛けて、姿を現した。
…人に見えなければ、また、消えたらいいし。
涼夏は、町に出る前に試して見たかったのだ。
そのまま、ドキドキしながら海を見つめて待っていると、思った通り光はこちらへと近付いて来て、涼夏の居る辺りで戸惑うようにゆらゆらと揺れた。
あちらにしたら、こんなところに女が一人、もしや幽霊なのではとか思っているかも知れない。
それでもじっと待っていると、その人は声を掛けて来た。
「こんな所で何をしてる?」
涼夏は、緊張しながら振り返った。
懐中電灯が顔に当たって眩しい。
思わず顔をしかめると、相手は慌てて光を下ろした。
「あ、ごめん。というか、君いくつ?もう帰らなきゃ、11時だよ。」
子供に見えるのかあ。
だが、成人していると思わせなきゃならない。
何しろ、自分は160歳だ。
人から見たらとっくに成人しているのだ。
「あの…私、二十歳です。」
相手は、驚いた顔をした。
「え、ホントに?ごめん、若く見えるから。」と、頭を掻いた。「その、君みたいに綺麗な子は危ないぞ。そろそろこの辺りには不良達が来るし。オレもこれが最後の巡回だから、終わったら帰る。だから町の方に行った方がいい。」
涼夏は、相手が若い、ニ十代ぐらいの男だと知った。
もしかしたら、綺麗な子とか言ってるし、助けてくれるかも知れない。
涼夏は、しんみりとした顔をした。
「…もう、どうでもよくなって。お金は持ってないの。東京から来て、お金も尽きて、もうここで、いいかなあって海を見ていたところで…。」
自分でも、女優だと思う。
思った通り、相手は慌てた顔をした。
「え、え、ここで?ダメだって、まだ若いのに!携帯は?親御さんとか、オレが連絡してあげるから。思い直した方がいい。」
涼夏は、首を振った。
「携帯電話は海の底。」相手は、目の前の海を見下ろす。涼夏は続けた。「取って来ようか?」
「ダメだ!」相手はブンブンと首を振って、涼夏の腕を掴んだ。「その、だったら町まで車に乗せてくから。いや、オレん家に来るか?姉ちゃんも親父も居るから、変な事しないし。」
実家住みなんだ。
涼夏は、思った。
だったら確かにこの人の家に居候させてもらえたら助かるかな。
涼夏は、そう思ったがわざと迷うような顔をする。
相手は、ゴクリと唾を飲み込んで、答えを待っていた。
たっぷり悩んだふりをしてから、涼夏は渋々といった感じで頷いた。
「…じゃあ、お願いしようかな…。」
相手は、何度も頷いた。
「そうしよう!ほら、だったらもう巡回はいいや。こっちに。」
どうやら目を離したらまずいと思ったらしい。
涼夏は、内心潜む場所ができたとほくそ笑みながら、その男について歩いて行ったのだった。




