108.逃亡
龍の気配がする。
彼らは遠くとも神世随一の気の大きさを誇るので、結界外に居るだけで遠くその存在を感じ取る事ができた。
だが、恐らく気を遮断する膜を着ている涼夏のことは、全く気取る事はできないだろう。
迅は、傾いて来る夕日を背に感じながら、ひたすら地上を木のウロの中に至るまで確認していた。
…居ない。
迅は、だろうな、と思った。
涼夏の頭の中には、多くの過去の神世の情報があって、どうしたら軍神達から逃れる事ができるのか、知っている。
迅が、知っているように。
李心の声が、遠くから聴こえた。
「迅!涼輝はあちらに居らぬと申しておる!そちらは?!」
迅は、答えた。
「こちらにも居りませぬ!場所を替えますか?!」
李心と涼輝が、迅の元へと合流して来た。
瞬く間に日が落ちて来ているので、もう夕日も届かなくなる。
「ここらには居らぬの。場所を替えよう。」
迅は、言った。
「ならば今少し北東ヘ参りますか。案外遠くまで行っておるのかもしれぬので。」
李心は、宙に浮かびながら遠く気を探って頷いた。
「…そうであるな。北東はまだどの軍神も手を付けておらぬようぞ。南や西にはぐれの神の集落が多いゆえ…その辺りに紛れ込んでおるのではと皆、探しておるようだが、思えば目立ってならぬしな。」
迅は、頷く。
「神の中に逃れるのは、気を誤魔化すのには有効ですが気を遮断する膜を被っているのならこの限りではないので。山の中などの方が、潜み易いのではないかと。」
確かにそうかも知れない。
李心は、頷いた。
「では、あちらの士官に知らせて参る。さっき丞が見えたゆえ、嘉韻殿に知らせてもらえるように言うて参るわ。」
李心は、仲間達が居る方へと飛んで行った。
涼輝が、それを見送りながら言った。
「…いったい、涼夏は何故にこんなことを。王も女一人に龍にまで援軍を頼まれて、いったい、あれは何をしでかしたのだ。王の言う通りとて、何を?」
迅は、気になるだろうな、と涼輝を見た。
「涼夏は、知ってはならぬと事を知ったらしい。それを頭から消す前にあれが逃げたので、どうしても捕まえねばならぬのだ。」
涼輝は、驚いた顔をした。
「知ってはならぬ?そんな大層な事を?」
宮の侍女として出入りしていた頃ならいざ知らず、今は迅の妻として屋敷に居るだけのはずだ。
迅は、首を振った。
「我には内容までは分からぬ。だが、一大事なのだろうの。」と、軽く浮いた。「我は先に北東へ参る。早う探さねばと焦るからな。主は、李心殿が戻るのを待って共に。先に行ったと伝えてくれ。」
涼輝は、慌てて言った。
「待て、気持ちは分かるが単独では…!」
しかし、迅は飛び去った。
勢いよく飛びながら、迅は顔を険しくした。
…このまま逃げるしかない。今がその機ぞ。
木々が月の視線を反らしてくれる。
迅は、涼輝が見えなくなってから気を遮断する膜を被り、一気に北へ向けて進路を取った。
目指すは蝦夷…そして、北の大陸だった。
涼夏は、その頃もう、かなり北まで来ていた。
こんな小さな皇女が単独で、僅かな間にこんなところまで来ているなどと、誰も思わないだろう。
どうしても、夜が明ける前までには焔の領地の横を通り過ぎねばならなかった。
焔は、日本の背骨と言われる長い山脈の辺りを大きく領地としていて、その結界に触れないで行こうとしたら、結構な数の神の宮の上を通過しなければならない。
詳しい配置が分かっていない涼夏には、気取られてしまう事を避けるためには皆が寝静まっている間に抜けるしかなかったのだ。
…迅なら、多分知っていた。
涼夏は、思って唇を噛んだ。
一緒に逃げようと言えば良かったのだろうか?
…しかし、涼夏も急に思い付いた事だった。
ひとしきり泣いた後、ふと気が付くと十六夜も、紫銀もこちらに全く意識を向けていないのを感じた。
恐らく、うるさいとでも思っていたのだろう。
…紫銀の後ろは、結界の穴。
そう、今なら逃げられるのだ。
迅の事は気になったが、戻って話せば十六夜に気取られてしまう可能性があった。
今なら、自分だけなら逃げられるのだ。
何より迅は涼夏のことは面倒に思っていて、蒼には自分の事だけ頼みに行くだろう。
反対されたら蒼に通報されて、牢に繋がれるかもしれないのだ。
なので、涼夏はそっと結界を出た。
気を遮断する膜を着て、一目散に北を、蝦夷を目指して飛んで行ったのだ。
父の宮へ行く事など、思いもしなかった。
何しろあそこは、自分を殺すことしか考えていないだろう父の居る宮。
とにかく遠くへ…。
涼夏は、膜に遮断されて気が補充できないのを恨みながら、まだ行けると蝦夷を縦断し始めた。
そう、蝦夷の端には、その昔蒼の息子の新月が潜んでいた場所がある。
中心地の龍の宮から遠く離れた場所には、神達は意識があまり及ばないのだ。
旭は、蝦夷を全て治めていると思われているが、違う。
その昔の、蝦夷から黒い霧に憑かれた兄妹が来た話を、涼夏は覚えていた。
あの二人の話の時、北海道は南三分の二と北三分の一に分かれており、南は旭、北は今は下位の宮々が点在しているだけで、本州の神達とは接しないで自活して生きている。
だからと言って敵対しているわけではなくて、ただ自分達の領地を自分達が良いと思う分だけ治めているだけで、近隣の神達ぐらいとしか、交流が無いが幸福に生きていた。
それを、涼夏は知っていて、逃げるとなった時に真っ先に思い出したのだ。
何より、碧黎にすら気取らずに、長い年月大きな気を持つ新月が、隠れおおせた土地。
涼夏も、きっと寿命が終わる時までぐらい、そこで潜んで生きていられそうだと思ったのだ。
…いよいよとなったら、大陸へ移動しよう。
涼夏は、そこまで考えて、ひたすらに蝦夷の、北の地を目指したのだった。
涼輝が、飛び去った迅を見送りながら、それを追うべきなのか、このまま李心を待つべきなのかと悩んであちこち見ていると、李心が戻って来た。
そして、回りを見回して、言った。
「…迅はどこぞ。」
涼輝は、言った。
「何やら涼夏は知ってはならぬ事を知って、それを消されるのを否と王に歯向かって逃げたのだと。ゆえ、落ち着かぬようで先に参ると言って、飛んで参ってしもうたのです。我には李心殿に、先に行ったと伝えよと言って。」
李心は、俄かに険しい顔になった。
知ってはならないこと…。ゆえに、王はこれほどに探しておられるのか。
「…だとしたら、確かに早う見付けねばその、王が秘しておられる事が外に漏れる可能性があるゆえ迅が焦るのも分かる。だが、単独で参るなど。」と、迅の気を探って浮き上がった。「…遠いのか。気が気取れぬが…。」
涼輝も、言われて探ってみた。
確かに、全く迅の気が気取れない。
「…そんなに遠くへ?涼夏の足ではそう遠くには行けぬはずですが。」
李心は、頷きながらも、何やらもやもやと不安感が襲って来るような感覚がした。
「…嫌な予感がする。」と、李心はスピードを上げた。「こちらに参ったか?」
涼輝は、頷いて李心の後に続いて飛んだ。
「はい。北東の方角。ですが確かに…全く気取れないなど。」
李心は、眉を寄せて急いで飛んだ。
まさか…迅まで逃げたのではなかろうの。
あちこち見回したが、やはり気配が忽然と消えていた。
「…十六夜!」李心は、木々の上へと浮き上がった。「十六夜、迅の居場所は見えているか?!」
十六夜の声が答えた。
《なんだって?》と、十六夜は驚いた声を返した。《お前達とあっちを地上に貼り付いて探してたんじゃねぇのかよ。オレは西を見てたからこっちは見てねぇ。そこらに居るだろ。》
李心は、首を振った。
「居らぬ!あやつは単独でこちらへ飛んで…」と、辺りを見回した。「気配が消えたのだ!まさかあれも逃げたのではないのか?!」
涼輝が、驚いた顔をする。
辺りは日がくれて真っ暗だ。
夜目がきく神でも、気が探れねば誰かを探し出すのは難しい。
《逃げた?迅が?!》十六夜は、少し黙った。恐らく、地上を探っているのだろう。《…居ねぇ。広域に検索しても気が引っ掛からない。てぇことは気を遮断する膜を着てるか死んでるかどっちかだ。》
死ぬなどあり得ない。
今のところ、迅には敵が居ないし、そんなに簡単に誰かに討たれる腕前ではなかった。
つまり、気を遮断する膜を着ているのだ。
「…嘉韻殿にご報告せねば。」李心は、涼輝を見た。「我は一旦戻る。主も結界内に戻れ。丞から涼弥殿の宮の軍神も出ておると聞いておる。恐らく涼夏を探しておろうが、主も危ない。参れ。」
父も探しているのか。
涼輝は、言った。
「ですがならば尚更早く妹を探し出さねば!父の軍神が先に見付けたらあれは殺される。」
李心は、首を振った。
「それも涼夏の選択ぞ。とにかく今は主だけでも結界内に。参るぞ。」
涼輝は、言われてショックを受けたが、確かにその通りなのだ。
涼夏は己で安全な月の宮から出て行った。
殺されても、文句など言えないのだ。
涼輝は、項垂れながら李心について月の宮へと戻って行ったのだった。




