107.決心
茫然と屋敷へと帰って来た迅は、椅子へとへたり込んだ。
…どうあっても、記憶は取られるのか。
迅は、テーブルへと肘を預けて、項垂れた。
宮を残そうと、頑張ったことだった。
どうあっても自分が帰るわけには行かないと、罪人の娘と言われてあちらから厭われると分かっていると、涼夏と婚姻の真似までしたのだ。
それでも、結局は事が終われば用済みとばかりに、滅んでも問題ないと言われる。
いったい、何のためにこちらへ下りたのか、分からなかった。
…ならば、記憶など持って来ずに流れのままに生きた方が楽だったではないか。
迅は、虚しさに叫び出したい心地だった。
ここ一年の頑張りは、いったい何のためだったのだ。
正直、神世の事などどうでも良かった。
今は、自分と宮の事が気になった。
元は人であり、そこまで崇高な命でもない。
回りをやたらと己の責務に忠実で、物を知った命に囲まれて居ると、本当は迅は落ち着かなかったのだ。
そんな大層な生まれでもないのにこんな所へ降りて来て、いったい黄泉での自分は何を考えていたのだろうか。
そんな事も、全く思い出せなかった。
迅が、無力感にぐったりとテーブルに伏せていると、いきなり十六夜の声がした。
《おい!》何ごとか、とビクッと体が揺れる。十六夜の声は続けた。《涼夏はどこでぇ?!》
え、と、迅は顔を上げた。
「涼夏?…大銀杏の所だと蒼様が。」
十六夜の声は、首を振ったようだった。
《そうだ、確かに昨日は居た。だが、今朝になって居ないんでぇ。帰ってねぇのか。》
迅は、顔をしかめた。
「主からは何でも筒抜けだろうが。ここには、我以外には誰も居らぬ。」
十六夜は、険しい声で言った。
《だったら外だ。》え、と、迅がびっくりした顔をすると、十六夜は続けた。《紫銀が何か知ってるかって聞いてみたが、あんまり煩いから遮断して見ていなかったと言うし、オレも煩いからもう放って置いて見ていなかった。だが涼夏の気配は結界内にねぇ!ってことは、外へ出たんだ。お前ら、結界の穴は知ってるか。》
迅は、困惑しながらも、頷いた。
「確かに…その、大銀杏の裏手辺りが結界の穴ではなかったか。」
十六夜の声は、厳しいままだった。
《やっぱり知ってるな。ってことは、あいつは出て行った。記憶を消されたくねぇから、どっか行ったんでぇ。気が感じられねぇから、気を遮断する膜を被っていやがるな。ったく…親父!見えてるか?!》
碧黎の声は、答えた。
《…いや、見ていなかった。小さいゆえ気を遮断されたら我にも探すのに時が掛かるのだ。待たぬか。》
…涼夏は、出て行ったのか。
確かに、それが一番手っ取り早い方法…だが、二度と月の宮には帰れない。
「…我も探す。」迅は、立ち上がった。「結界を出たなら、女の身でそう遠くへは行けまい。我の姿を見たら、油断して出て参るやもしれぬから。」
十六夜は、頷いたようだった。
《嘉韻が軍神達を振り分けて捜索に出てる。お前も行け。オレも探す。》
迅は頷いて、屋敷を出た。
…涼夏、主のこと、見直したやもしれぬ。
迅は、思いながらコロシアムへと飛んで行った。
コロシアムでは、軍神達が召集されて上を下への大騒ぎになっていた。
迅がそこへ飛んで行くと、李心が飛んで来て言った。
「迅!主の妻の涼夏が失踪したと。王から何としても探し出すように言われておるのだ。何か大層な事でもしでかしたのか!」
迅は、顔をしかめた。
そもそも嘉韻以外、二人が過去の記憶を持つ事は知らされていない。
迅は、言った。
「それが、分からぬのです。昨夜から行方が分からぬで、十六夜は大銀杏の所に居ると申すので放置しておったら、こんなことに。」
すると、涼輝が血相変えて飛んで来た。
「迅!涼夏が、涼夏がここを出たと!主、何か聞いておらぬのか!?」
迅に掴み掛からんばかりの様子に、李心が首を振った。
「落ち着け。迅も何も知らぬ。」と、迅を見た。「そもそもどうして大銀杏の所などに?言い争いでもしたのか。」
迅は、答えた。
「いえ…ただ、王の言う通りにせねばならぬと諭したら、何が気に食わぬのか飛び出して参って。本当にそれだけなのです。我が儘なのは今に始まった事ではないので…。」
涼輝が、それを聞いて黙る。
元の涼夏は跳ねっ返りで通っていたので、最近は落ち着いていたとはいえ、涼輝には思うところがあるのだろう。
「王は厳しいかたではないのに。確かに主は間違っておらぬ。何事も王がおっしゃる通りにせねばここには居られぬの。」
そこへ、嘉韻が飛んで来た。
「迅。主、捜索に加わるか。」
迅は、頷く。
「は。我が参れば気を許して出て参るのではと。十六夜から行けと言われて参りました。」
嘉韻は、頷いた。
「確かに主なら出て参るやもしれぬな。では結界外に出るのを許されたのだの。」と、涼輝を見た。「主も。危ないのは百も承知であるが、李心を付けるゆえ。三人で捜索に参れ。少々まずいが涼弥様の領地の方角。皆参るゆえ、何かあったら狼煙を上げよ。王がおっしゃるには、まだ主の父は主を狙っておるそうな。危険であるぞ?否なら主は行かずで良い。」
だが、涼輝は頷いた。
「参ります。我が妹の不始末でありますゆえ。ですが、こちらを一度出た者は、二度と戻せぬのでは?」
嘉韻は、離れて行きながら答えた。
「それは後に王が決められることぞ。とにかく見つけて捕らえるのが我らの役目。行け。」
嘉韻は、忙しいのか返事も聞かずに飛び去って行った。
李心が、言った。
「先発隊はもう出ておるゆえ。我らはこちら、南東ぞ。あちらの隊がその方面であるから、参ろう!」
そう言って、宙に浮いて固まっている集団を目指して飛び始めた。
迅は、父の宮を出てから初めて月の宮の結界外へと出るのに、緊張した。
これまで、出ようとも思わなかったが、出ようと思っても許されなかっただろう、結界…。
涼夏が失踪しなければ、恐らく記憶がある限り永劫に外に出る事は叶わなかっただろう。
…恐らく、これが記憶を持ったまま外へ出る最後の機会。
迅は、覚悟を決めて皆と共に月の宮結界を出て外へ、南東へと向かった。
辺りは、月の宮の兵士達が広く均等に浮いている状態だった。
迅も、李心から指示されて三人一組になって地上を見下ろして、気を探ってゆっくりと飛ぶ。
涼夏ごときがここまで綺麗に隠れ仰せているのに、迅は感心した。
全く気取れないのだ。
気を遮断する膜の存在は知っていたが、その術は知らなかった。
迅が軍に入ってから、教わったので緊急時のためにと涼夏にも教えてはいた。
涼夏は、それを効果的に使いこなして隠れてしまっているのだ。
「このままでは埒があかないの。」李心が、ため息をついた。「気を遮断する膜であろう。地上に降りて下から探した方が良い。上からでは木々のせいで見逃すであろうし。」
涼輝と迅は頷いて、李心について地上へと降りた。
森の中は木々が鬱蒼と生い茂っていて、ここを全て目視に頼って探すのは至難の業かと思われた。
「…広いですな。離れて探しましょうか。我か涼輝なら出てくるやも知れませぬが、李心殿のお姿を見たら出て来ないでしょうし。三方に分かれましょう。」
李心は、迷ったようだが確かに肉親以外の姿があれば、捕らえに来たと出て来ないだろうと納得し、頷いた。
「では、我はこちら。主はあちらで、涼輝はそちらで。何かあったらすぐに念を飛ばすのだ。龍も出ておるように思う…気を感じるゆえ。気取った涼弥殿が主らを探して参るかも知れぬしな。もし間に合わねば側の龍でも何でも良いから助けを求めよ。分かったの。」
涼輝は、固い表情で頷く。
確かにこれほど大騒ぎになっていたら、誰が知らせなくても涼弥は涼夏が結界を出たのだと知り、追手を差し向けるだろう。
迅は、李心に頭を下げた。
「は!では、急ぎ参りましょう。早く探さねば…日が落ちたら更に見通しが悪くなりまする。」
李心は頷いて、涼輝も緊張気味に頷き、そうして三人は三方に分かれて探し始めた。
迅は、ただ日が落ちるのを、涼夏を探しながら待っていた。




