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105.現実

涼夏は、いつの間にか迅の屋敷の中で、床にしゃがみ込んで虚空を見つめていた。

十六夜がこちらへ、強制的に送って来たようだったが、涼夏にはそんな事は何も分からなかった。

ただ、聡子から聞いたことが衝撃的過ぎて、ショックが強くて立ち上がる事ができなかったのだ。

気が付くと、もう暗くなって来ていて、迅が帰宅して床に座り込む涼夏を見つけて慌てて駆け寄った。

「どうした?!何かあったのか。」

涼夏は、迅を見上げたが、見る見る涙目になって、言った。

「迅。」と、その袖にすがり付いた。「聡子と話したの…十六夜が連れて行ってやるって言って。ここから瞬時に飛んで行ったわ。そうしたら…そうしたら、黄泉での事を少しだけ聞いてしまって…。」

迅は、涼夏の肩を掴んで立たせると、椅子へと座らせながら言った。

「落ち着け。まずはとりあえず、茶でも飲んで。」

聡子から何を聞いたのだろう。

迅も気になったが、今は涼夏を落ち着かせるの先だ。

ボーッと涙を流しながら座ってる涼夏に代わり、迅はテーブルの上の茶器を使って茶を入れて、涼夏の前に置いた。

「さ、飲んで。落ち着いて話してくれ。何を話したんだ。」

涼夏は、言われるままにカップは手にしたが口をつけることはなく、淡々と言った。

「聡子は、様子が全く変わっておったわ。まるで聡子じゃないみたいに。だから礼儀を弁えて、丁寧に聞いたの。黄泉での事を全く覚えていないから、教えて欲しいって。無理なら良いからと。聡子は…知る必要はないと。」

迅は、眉を潜めた。

「同じ記憶を持つもの同士、協力し合っても良いのに。何故にそんなことを。」

涼夏は、続けた。

「聞いてもどうせ忘れるから。」迅が驚くと、涼夏は迅を見て言った。「全て終わったら、記憶を消し去るって決まってるんだって。ねえ迅、私達はどうしても過去を忘れなければならないの?!私達は…全部忘れないと、生きて行く事は許されないんだって言うの!」

迅は、衝撃を受けた。

つまりは、この記憶と共に生きては行けないということなのか。

過去を忘れなければ、死ぬしかないと…?

「待て、つまり消されるのか?勝手に消えるのか。我らが良いと言わずとも?」

涼夏は、頷いた。

「消されるんだって言ってたわ!私達は黄泉でそれを約したからこそ記憶を持って降りて来られたんだって!そんなの、覚えてないわ!忘れてしまったら、今の自分が消えてしまう。蒼様と話した事も、迅と話した事も過去の記憶に関連したら全部失くなるって事でしょ?!私が私でなくなってしまう!私…私嫌よ!いくら約して来たからって、そんなの覚えてないし、私は全部含めて私なんだもの!」

迅は、愕然とした。

全部忘れる…。

ということは、恐らく自分は月の宮に居る現状に憂いて、今は和解している父の宮へと帰ろうとするだろう。

父もそれを止めないだろうし、蒼も…恐らくもう止めない。

涼夏とは正式に婚姻関係にはまだなっていないので、元の自分なら置いて行くだろう。

もともと、愛して側に置いているわけではないからだ。

涼夏も迅に愛情などないので、記憶がなくなればそれにあっさり同意するだろう。

全てはなかった事になり、宮へと帰って、そして…。

「…王座争いをすることになろうの。」迅は、険しい顔をした。「そうなると。また流れの中に身を投じる事になる。今度は、丸腰で。」

昌士は自分が王座にと思っているだろう。

それが、いきなり戻った第一皇子の自分が慣れたように宮を回し始めたら、良い気はしない。

簡単には王座を諦める事はないだろうし、争いが起こる。

そうなったら父は、迅への負い目から恐らく跡目を迅にと定める。

昌士は…。

「…流れの通りにあやつが反乱でも起こしたら、我はそれを抑えるしかない。殺すために見つけた弟ではないのに…記憶がなくなったら、我は恐らく宮の平穏のためにあやつを殺すだろう。流れのままに。」

涼夏は、言った。

「どうにかならない?蒼様にお願いしたら、もしかしたら取り成してくださるんじゃ。我は忘れたくないの!」

迅は、ハッと涼夏を見た。

涼夏…涼夏の記憶が失くなると、どうなるのだろう。

自分が覚えている限り、宮は存続する。

涼夏は恐らく迅を夫としているのが嫌になるだろうから、離縁する。

別に愛しているわけではないから、迅はそれでも構わない。

涼夏は記憶がある今、月の宮に留まるしかないが、記憶を失くしてもそれは変わらない。

罪人の娘として追放されているからだ。

涼夏は、どちらにしろ変わらない。

神世に影響しない。

「…我は蒼様にお願いしても理由があるが、主は?」言われて、涼夏は驚いた顔をする。迅は続けた。「主は別に記憶がなくとも変わらぬ。己が嫌だと言うことの他、主に理由があるか?」

言われて、涼夏は愕然とした。

そうだ、何も変わらない。

迅は宮の未来がかかっているが、涼夏は何も変わらないのだ。

ただ、自分が過去の記憶を失いたくないだけで…。

「…どうしてそんなこと言うの…?一緒に居られなくなるのよ?もう同じ価値観で話したり、笑い合ったりできなくなるし、蒼様だってあんなに親しく話してはくれなくなる。今の生活が全く変わってしまうのよ?」

迅は、首を振った。

「涼夏、それは主の我が儘でしかない。」涼夏はショックを受けた顔をした。迅は容赦なく続けた。「考えてもみよ、主は我と別に共に居なくても良いではないか。十分に他に嫁いで生きて行ける。主もそうだが我も、主を愛して側に居るのではない。我らは婚姻関係にはなっておらぬ。未だに寝室は別だろう。お互いに、記憶が無ければなかった仲ぞ。我と共に居たいとか、蒼様とお話ししたいとかそんなものは主の我が儘ぞ。それではお頼みする理由にはならぬ。お話しする前から否だと分かることよ。我は…蒼様に、せめて宮が正常に昌士に譲位されて回り始めるまでは記憶を留めてもらいたいとお願いする。だが、主のことはお願いできぬ。理由がない。」

そんな…!

涼夏は、あまりにショックで口を開けなかった。

いくらなんでも、酷すぎる。

涼夏は、涙を流した。

これだけ一緒に居て話し合って来たのに、迅はあっさり涼夏を切り捨ててしまえるのだ。

それだったら、婚姻関係になったのに…!

涼夏は、己でも勝手な事だと思ったが、そう思った。

こちらから強く迫れば迅だって受けてくれたかもしれない。

だが、無くても夫婦だと言われているので、これでいいかとそのままにしていた。

そのうちに、ロマンチックなこともあるかもしれないと、都合よく思って放置していたのだ。

だが、お互いに恋愛感情など無いのだからそんなことがあるはずもない。

そもそも迅には、今も全く愛情の欠片も無いのだ。

「…もう、良い!」涼夏は、立ち上がって叫んだ。「どうせ我なんか、記憶がある他は何の取り柄もないわよ!罪人の娘よ!もう良いわ!」

「涼夏!」

涼夏は、そこを飛び出して行った。

迅は、追う事もできたがどうせ月の結界からは出られないのだからと、困ったようにその背を見送ったのだった。


涼夏は、暗くなった道を、闇雲に走った。

神なのだから飛ぶ事もできたが、そんな事に頭が回らなかった。

愛されていないのは知っていた。

自分も迅を愛してはいない。

だが、一番の理解者だと頼りにして来たのだ。

その迅が、分かってくれない。

自分は役に立たない無用の長物だからと、記憶があっても無くても同じだと言う…。

だが、何も知らずに生きてきた時の事を思うと、今は本当に充実していたのだ。

それが、あっさりと無くなってしまうのに、自分にとっての一大事でも、皆には些細な事なのだという。

そんなことが許されるとは思えない…!

気が付くと、涼夏は大きな湖の所へと来ていた。

そこは、近くに森があって小説の中でもよく描かれたスポットだ。

…紫銀がいる森。

涼夏は、森の中をフラフラと歩いて行った。

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