103.流れに
聡子が月の結界へと近付くと、それはあっさりと聡子を通した。
見ていて、待っているということだ。
《そこから宮へ来てくれ。》十六夜の声が言った。《奥の建物だ。直接来たら良いから。》
奥宮まで来いと。
聡子は、驚いた。
出迎えもなく、勝手に来て良いと言うのだ。
月の宮は、朝日に照らされてそれは美しかった。
何度も小説を書きながら脳裏に描いた白い石で建てられた、真新しい宮。
それでも、もう数百年は経っているのだ。
…あれがコロシアムね。
脇に見える円形の建物に、また懐かしく目をやる。
運動会では皆で駆け回り、蛇の反乱の時は難民を受け入れ、多くの時を皆はここで過ごしていた。
軍神があちこち飛んでいるのも見えたが、誰一人聡子を止める者は居なかった。
蒼が、指示を出しているのだろう。
その甲冑の白銀も、自分が決めたと思っていたが、実は自分が見ていて読んだものだったのだ。
聡子は思いながら、月の宮の奥宮横の、庭へと降り立った。
蒼は、居間で十六夜、維月、碧黎と共に、聡子が来るのを待っていた。
「…結界を通した。」十六夜が行った。「そこから宮へ来てくれ。奥の建物だ。直接来たら良いから。」
どうやら、聡子に話し掛けたらしい。
碧黎が、言った。
「…やはりこうして見ると他の命より格段に落ち着いておる。全て見えておるからだろうの。」
維月は、頷いた。
「はい。それでも地の宮近くの洞窟で、独りで泣いておったのですわ。平気なはずはありませぬ。分かっておっても普通の命でありますのに。あまりに酷な事ですわ。」
碧黎は、頷く。
確かにそんなに大きな命でもないのに、分かったような事計言うので、特殊な意識を持っているのだと思っていたのだ。
だが、そうではなかった。
蒼は、言った。
「ですが、解決策はまだ見付かっておらぬのでしょう。定成も…確かに、はぐれの神と何かしようとしていたようですが、まだ何もやっていない。やろうとしている間に、回りがああして変わってやる必要もなくなった感じです。つまり今生、生きる事に必死で特に何かしようとは、思うておらぬ気がするのですが。」
碧黎は、ため息をついた。
「だとしても、記憶があるのは確か。いつか力を持って宮が危機に陥った時、それを使わぬとも限らぬだろう。今のところ、おかしな事にはなっておらぬが、流れが違う方向に行っているのは事実。歴史は修正しようとするゆえ、油断はならぬ。何が起こるのか、我でも予測は付かぬのよ。」
歴史…。
「その、流れというのは誰が決めておるのでしょうね。」維月が言った。「天黎様ではない様子。ということは、誰か他に?」
碧黎は、首を振った。
「天黎が申すに、それは自然に起こるのだと。水の流れや気の流れのように、それがそれであるために流れておる何か。歴史というのもその流れの中にあるのではないかと。我の本体が丸いように、照らす大きな赤い炎の玉が丸いように、そうあるべき姿に落ち着く。誰が決めたわけでもない、それはそうあるべきであるからそうなっているのではないかとの。そうではない形に収まろうとしても、結局はそちらの形に向かう。そういうことなのではないか。」
蒼には、よく分からなかった。
だが、誰かが意識的にそうしているわけではないということだけは分かった。
「…難しいですね。それがそれであるために、あるべき形に収まろうとするということですか?」
碧黎は、苦笑した。
「恐らくはの。我らにも確信があるわけではない。天黎だって我だって、何もかも知っておるわけではない。ただ、命あるものは全て学びの中にあることだけは分かっておるがの。」
学びの中…。
皆が考えていると、目の前の庭に聡子が降り立った。
甲冑を着たその顔からは、何かの覚悟が感じられた。
「入れ。」十六夜が、スッと歩み出て窓を開いた。「待ってたよ。」
聡子は、頷いて中へと入って来る。
そして、一人一人の顔を感慨深げに見てから、頭を下げた。
「聡子でございます。」
何を思ったのだろう。
維月は思ったが、蒼が答えた。
「オレが月の宮王、蒼。こっちが地の陽の碧黎様、こっちが維月でそっちが十六夜。」
聡子は、頷いた。
「維月様からお話になりたいことがあると。なので参じました。」
蒼は、頷いた。
「みんなが聞きたい事があるんだ。十六夜からいろいろ聞いたけど、定成の所に行ったんだって?」
聡子は、立ったまま答えた。
「はい。すぐに手を下しておれば成せたことなのに、我の責です。次は、必ず。」
蒼は、首を振った。
「責めてるんじゃないんだ。」と、椅子を勧めた。「座って。」
聡子が座ると、十六夜が言った。
「定成も今は落ち着いてるんだろう。話してたんだが、歴史ってのは修正能力があるだろう。だから待ってみるのも手じゃねぇかって。お前がわざわざ手を下さなくても、勝手に自滅するんじゃねぇかって思うんだがどうだ?」
聡子は、躊躇う顔をした。
「それは…確かに二、三年のことならあっさりと遅れて事が起こったりしますが、わからないのです。もしかしたらそのままかもしれないし、百年二百年遅れてそうなるかも知れない。我もそこは確証がありませぬ。何より、我の責務はアレを黄泉へと連れ帰ること。単独で死ねば、追って死なねばなりませぬ。そのように取り決めて参りました。だから記憶を維持しておるのですから。」
でなければ記憶を保持することは許されなかった。
聡子は、唇を噛んだ。
これがある限り、あちらへ帰るしか道はない。
碧黎が、口を開いた。
「…この際であるから、誰と取り決めたのかは聞かぬ。だが、それを成せなかった時は?」
聡子は、顔を険しくした。
「…分かりませぬ。定成によって世の流れが変わるのか、我の存在自体が脅威となって神世を乱すのか…どちらにしろ良い事にはなりませぬ。影響が少ないうちに消さねばと、焦って行動したのは確かです。炎嘉様方に任せておっては遅々として進まぬと考えて鳥の宮を出た次第です。もともと我らは、ここに存在してはならぬものでした。それは、迅と涼夏も同じこと。ですが、あれらは過去の記憶しかないので、それさえ何とかできたら生きて神世に残る事ができまする。我と定成の記憶は、利用されるのを恐れて玉にできぬようにと他から読めぬようにされておりますので、最初からその希望もありませぬ。」
…最初からそのつもりで来たのは、誠だったのだな。
碧黎は、それを聞いて思った。
蒼は、言った。
「ということは、迅と涼夏の記憶はいずれ消すって決まってるんだな?そのままじゃ生きてけないって。」
聡子は、蒼に頷いた。
「それはあれらも分かっておるはずです。言うておりませなんだか?」
蒼は、困惑した顔をして十六夜と顔を見合せた。
十六夜が、言った。
「…あの二人は、黄泉のことはほとんど覚えてねぇんだよ。何か、親父に似た感じのやつに間違いなく困難だが、とか言われて、覚悟を決めて来た、ってことぐらいしか。後は前世の記憶だな。それだけだ。」
聡子は驚いた顔をした。
「え、何も?ならばあれらはどうやって行動を決めておったのですか。何をどうすれば良いのか、分からなかったでしょうに。」
蒼は、何度も頷いた。
「そうなんだ。何しろ過去しか知らないから、いろいろ起こり始めてやっと分かって来た感じで。迅は、ここに来たい、宮に帰るべきじゃないってだけ、感じてたみたいで…それぐらい。」
聡子は、眉を寄せた。
「ならば、何もできませぬ。蒼様、今すぐにあの二人の過去の記憶を取り去ってくださいませ。役に立たぬのにそんなものを頭に持っておったら、それだけで面倒が起こりまする。もう我が居るので定成の事は我がやりまする。もとより…あれらは本来、来てはならぬと我は思うておったのです。それなのに、我が知らぬところであの方に、定成という命に面倒な記憶を持った命が降りたと聞いて、頼んで降りたと後で聞きました。過去の記憶では未来の記憶には勝てぬと考えた我は、それで降りる事に決めました。その折、あれらが降りて定成を消した後は、過去の記憶を消し去る事を了承しておるはず。そうでない場合は、定成と共に我のように再び黄泉へと戻ると。忘れておるなら思い出させねば。そのままでは、生きる事は許されませぬ。何度も申しますが、我らは居るだけで脅威なのです。」
知らなかった。
蒼は、愕然とした。
つまり、迅と涼夏にも分かっていたことのはずなのだ。
そっくり忘れてしまっているので、あれらはこのままここで生きて行けると思っているはず。
十六夜が、言った。
「だが、あいつらの記憶を消したら、迅は宮に帰りたがるだろうし、王座に就こうとするんじゃねぇのか。記憶があるからあんな風に王座に興味はねぇけど、あれだけ宮に貢献してたんだ。それを、降ってわいた兄弟に奪われて、自分は月の宮で軍神になるなんて思えるか?」
聡子は、首を振った。
「ならば戻れば良いのです。さすれば宮は滅ぶ。その後、結局定成は我が何とか致しましょうし。それが迅という命の選択なのですから。そもそも己の歩を過ぎた過去の記憶を知るのは許されておりませぬ。もともとあの迅という命が知り得るはずのない事を頭に持っておるのですよ。それは許されませぬ。世を治める龍王ですら、知るはずのない事を頭に持つ事はできぬのに。そこらの神に許されるようなことではありませぬから。月の眷属達の弱点や深い所まで、あの小さな宮の皇子が知る事は生涯なかったでしょうから。」
聡子の言い方は、辛辣だった。
個としての聡子ではなく、詠み人としての聡子の意識がそう言わせているのだと思われた。
碧黎が、言った。
「…聡子は、間違っておらぬ。」皆が凍りつく。碧黎は続けた。「全くその通りぞ。我が知り得た事や、十六夜が知り得た事を維心に話せぬのはそのため。その命が知るはずのない事を先に教える事は許されておらぬのだ。後に知るだろうと思われる事は言えるがの。なので、迅も涼夏もこれ以上記憶を持ち続ける事は許されぬ。消して参ろう。それが筋なのだ。」
蒼が、言った。
「待ってください、二人の覚悟も聞かないと。説明してからに致しましょう。そうでないと納得できないし、あれらが不憫です。あれらはあれらなりに、努めておったのですから。」
碧黎は、顔をしかめた。
「役に立たぬのにそんな大層なものを持っておると他に利用されたりするのよ。面倒が起こる前にあれらは忘れた方が、穏やか生きられるのだ。忘れられるのだから…良いと思わねばならぬ。」
聡子と定成は忘れることもできない。
蒼には分かっていたが、それでも二人の気持ちを思うと心が痛んだ。
だが、どうしてやることもできないのも、蒼には分かっていたのだった。




