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102.龍の宮

夜明けの森を抜けて、聡子はあっさりと維心の領地の結界を抜けて、宮の結界を遠く臨める場所で見下ろした。

…大きな宮だこと…。

聡子は、思った。

記憶が戻っていない時、七夕祭りで涼夏と胸踊らせて上位の宮の王達を眺めた、思い出の場所。

だが、自分は記憶の中で何度もこの宮を見た。

それが現実に、目の前にある。

それは、不思議な気持ちだった。

皆が恐れる大きな気は、これだけ離れていても感じ取る事ができる。

なので神である聡子には、それは恐ろしいと感じるのだが、人の自分はそんなものは感じなかった。

ただ、あそこに世を守る美しい龍王が住んでいるのだと、崇める心地になるだけだった。

聡子が感慨深く見ていると、そこに何の気配もさせずに、急に声が割り込んだ。

「…何者ぞ!王の許可なく結界内に入り込むとは!」

…これだけの事ができるのは、義心ね。

聡子は、思って振り返った。

夜が明けて来たこの時間、恐らく報告に戻って聡子を見つけたのだろうと聡子は思った。

「…義心ね。」

義心は、相手が全く怯む様子もなく、刀を突き付けられているのに自分の刀に手をかけようともしないので、戸惑った。

相手の目は、まるで居間で寛いでいる時に話し掛けられたかのような様子なのだ。

落ち着き過ぎている…。

義心は、一瞬驚いたが、すぐに気を取り直して刀を握る手に力を入れた。

「…確かに我は義心。この宮の筆頭軍神ぞ。何故にここにおる。王の許可などなかろう。」

甲冑姿の女に会いたい王じゃないものね。

聡子は、答えた。

「…もうすぐあなたの任務は通常に戻るわ。我と定成が消えたら、神世の脅威は消える。安心して。」

義心は、戸惑った。

何を言っているのだ。

「…とにかく、王の御前に。主を捕らえて王にご沙汰を頂かねばならぬ。」

聡子は、困ったように笑った。

「それでも良いけど…ならばあなた、定成を殺してくれる?理由もないのに無理よね?」

義心は、眉を寄せた。

定満様の第二皇子か。

「何故に定成様なのだ。意味が分からぬわ。」

聡子は、頷いた。

「我が居なくなったから、恐らく炎嘉様はこちらへこれまでの事を話に参られるでしょう。伝えて欲しいの、我は我の責務を忘れてはいないと。話した通り、我をはぐれの神として処刑して、迅と涼夏の記憶を消して欲しいと。あれらが何を言うても消してくれと。よろしくね。」

義心は、顔をしかめた。

「…何の話よ。」

聡子は、スッと義心の刀の軌道から離れた。

「ではね。」

「!待て!」

かなりの手練れ…!

その動きは、維月を思わせた。

相手は刀を抜く事もなく、ただ義心が追うのを避けて飛びながら、あっさり結界を抜けて出て行った。

…あれは誰だ…?!

義心は、まるで月の眷属のような動きに、最後まで追う事ができなかった。

こんなに敵わないと思ったのは、維月との立ち合い以来だった。


義心から逃れて龍の宮の結界から逃れてサッと消えた聡子は、ただ義心の死角から地底へ逃げただけだった。

義心の能力の高さは知っているので、長く追われたら捕まるのは分かっている。

なので、あの場所からならこちらの方向に大きな洞窟があるのは、聡子は知っていたのだ。

ここは、碧黎がその昔、維心達に接触した時に、遥か地底まで入り込む事ができる穴を作っていた、まさにそこだ。

つまりは、ここをずっと奥まで行けば、碧黎の体の中心まで到達できるという、代物だった。

この近くには、碧黎が建てた地の宮がある。

碧黎には、自分の動きがよく見えているはずだった。

とはいえ、自分はここから碧黎の中心へなど降りるつもりはない。

そこへ行っても、結局定成を殺すためには戻って来なければならないからだ。

今は、義心をまくためにここへ来ただけだった。

フッとため息をついて洞窟の中に腰を下ろした聡子は、膝を抱えた。

…これからどうしよう…。

このまま逃げる事はできない。

逃げても結局責務はついて来るし、そもそもお尋ね者になって平穏に生きるなど場所もないだろう。

生きているだけで父や母にも会えない。

何が平穏なのだろうか。

だとしたらやはりもう、定成を殺して自分も処刑されるより他ない。

天黎は聞いてくれなかった…異物を排除するなど、これまでだって皆の知らないところでさっさとやっていたはずの天黎が、自分と定成の事はそうしてくれないのだ。

恐らく、それが今回聡子が生まれた意味で、責務だからだろう。

役目を奪ってはと思っているのだと思われた。

だが、聡子にはできない。

生きるために、やっと居場所を整えて先が見えた定成を、また絶望の淵に叩き込み、やはりもう、運命には抗えないと絶望のまま黄泉へ向かわせる事が、罪な気がしてしまっていたのだ。

生きたいのは、私も同じ。

聡子の中の、人の部分が言った。

こうして自分があれだけ見てきた世界にやっと生まれ代わる事ができたのに、あっさり死ぬしかないなんて、そんな理不尽なことがあるだろうか。

だが、本来記憶など持っては来られず、何も知らずに過ごして生きたはず。

ここはあの世界なのだと懐かしんだり、楽しんだりはできなかったはずなのだ。

それが許されたのは、結局定成を回収すると言う責務を達成するために他ならなかった。

…こんな記憶、無ければ良かった。

聡子は、折った膝の上に顔を伏せて肩を震わせた。

何も知らなかった時の、楽しかった日々が思い出される。

父に可愛がられ、時に厳しく、時に優しくいろいろな事を教えてもらった。

父は、聡子の誇りだった。

生き延びるために父が教えてくれたことは、その時々で聡子を救って来た。

友の涼夏も、とんでもなく跳ねっ返りだったが、それでも気の良い娘なのだと知っていた。

なので、誰が何と言おうとも、友だと思っていた。

何の柵もなく駆け回る涼夏が羨ましい時もあった。

兄の涼は、聡子に優しく接してくれた。

幼い頃は、美しく優しい涼が慕わしくて、聡子の初恋は涼だった。

成長するにつれてそんな気持ちも忘れていたが、確かにそうだった。

…懐かしい…。

聡子は、思った。

涙が込み上げて来る。

それらも全て、捨ててしまうのだ。

もとより記憶が戻った時に、今生の記憶は少し、遠くなっていた。

捨ててしまえということなのだと、聡子は思った。

今生、そんなものは意味はない。

初めから捨てるはずの夢だった。

楽しい夢は終わり、現実がやって来た。

ただ、それだけ。

聡子は、泣いた。

あれは全て夢だった。最初から与えられるはずのない事を夢見て、涼夏とまだ見ぬ夫のことを、どんな殿方なのだろうと頬を染めて話した夜は、もう来ない。

自分には、許されることではなかったのだ。

…迅と涼夏は、記憶を失くしても共に歩むのかしら…。

聡子は、そんなことを思った。

あの二人が過去を知る二人なら、もしかしたらその繋がりがなくなれば、二人は生き方が変わるのかもしれない。

だが、それを持っている事が脅威なので、あの二人は事が終わったらそれを消し去る事に同意して降りたはず。

どこまで覚えているのだろう。

聡子が考え込んでいると、急に辺りの岩から声がした。

《話したい事があります。》

女声だ。

聡子は、構えた。

ここに居るのは、碧黎や十六夜なら知っているだろう。

だが、他に知っているとしたら…。

「…維月。」聡子は、言った。「維月様?」

その声は、答えた。

《はい。私は維月です。今は地の陰。なので、あなたの事は見えておりました。話したいの。良い?》

ダメだと言っても話すだろうに。

聡子は、苦笑した。

「…この地上に生きていて、地に逆らえるものなどおりませぬ。なんなりと。」

維月の声は、頷いたようだった。

《ならば月の宮に来て。》維月は、言った。《皆があなたと話したがっておるから。》

このままでも話はできるだろう。

だが、恐らく聡子があちこち歩き回るのも落ち着かないのだろう。

どうせ行く場所もないのだ。

聡子は、立ち上がった。

「参ります。」

そして、そこを出て月の宮に足を向けた。

遂に月の眷属達と、対峙する時が来たのだと思った。

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