思い出した
その日。
私は、目が覚めた何やら古風な造りのベッドの上で、気が付いた。
そう、急に気が付いたのだ。
私は、田辺奈津美。
東京の大学を出てそのまま就職し、地元には一度も帰らないまま暮らしていた。
両親は共働きで、兄が一人居たが折り合いが悪く、私は幼少時代を孤独に過ごした。
高校を卒業して、何やら父の浮気で揉めている家に背を向けて、東京へと出て来た。
兄はとっくに家を出ていて、連絡を取り合うこともなかった。
ただ、同じように東京のどこかに居るだろうことは知っていた。
その後は、仕送りもない中、アルバイトをしながら奨学金で学費と生活費を賄い、必死に四年間過ごして卒業した。
就職してからも、奨学金を返済しながら、一人で生活していた。
生活費はいつもかつかつで、お金を掛ける趣味も持てなかった私だったが、無料の小説サイトで、小説を読み漁るのが楽しみになっていた。
そこは趣味で書いている小説や、プロになるほどの実力者が腕試しに投稿している小説など、いくらでも探すことができて、とても楽しかった。
現実がいまいちパッとしない私にとって、そういった幻想の世界を探求できる時間はとても貴重だったのだ。
そんな中でも、人気小説は粗方読み尽くしてしまった私は、あまりアクセスのない、それでも自分が面白いと感じる小説を探すのが目下の楽しみに変わっていた。
その中に、人が神の世界に行って、神様達と生活する夢のような話があった。
偶然見つけたその小説は、他と比べて少々小難しい言葉を使ったりするが、誰も知らないと思うと私だけの世界のような気がして、はまりこんで読むようになった。
毎日必ず更新されて、そして、必ず完結してくれるのも気に入って、気がつくともう、十年以上その小説を読み続けていた。
一巻、二巻と読み続け、気が付くと新たな章が始まってまた十五巻、内容はまるで日記の如く、登場人物達が生活している様を見ているだけのような感じだったが、ここまで来ると止められず、意地になってもはや日課になっていた、その小説を読みながら家路を急いでいた。
いつもなら、朝出勤時にそれを読むのだが、今日は取引先に直行で、駅で上司と鉢合わせてしまい、そんな時間がなかった。
今も、タクシーで最寄駅まで送ってもらってしまったので、我慢できずに歩きながら読んでいたのだ。
その時、小説に没頭していた私は、近付く車に気付かなかった。
多分、あの時跳ねられたのだと思う。
手から弾け飛ぶスマートフォン、冷たいアスファルトに叩き付けられる感触の後、眩しいトラックのヘッドライトの中で回りの人達の叫び声を聞いた。
そのまま、恐らく私は、死んだのだと思う。
そして、今。
私は小さな宮の皇女で、名前は涼夏。
侍女も侍従も少ない中で、仲睦まじい父王と母、そして兄と共に生きて来た。
幼い頃から良くも悪くも人並みで、回りの小さな宮々には同じような境遇の、同じような皇女の友達がたくさん居て、毎日が穏やかに過ぎていた。
特に虐められるような事も、虐げられることもなくて、時々兄と喧嘩する程度の波風しか立ったことがない。
その兄も、成人してからは落ち着いて変に突っかかって来ることも無くなって、兄妹仲も良いので喧嘩もついぞしていなかった。
…が。
なんの疑問も持たずに生きていた全てが。
その日、私の中で崩れ去る事になってしまったのだ。
目を開いていつもの寝台の天蓋を見上げた時、昨日の夜見ていた夢を思い出した。
最初は、そんな風に思ったが、違う。
そう、あれは私だ。
前世、人として生きていた頃の、私。
今の私はこの小さな神の宮の皇女で、歳は160歳、人からみたらとんでもない年寄りだが、神の私はまだ、人で言う16歳ぐらいの子供だ。
神世では、成人は200歳、なので私はまだ、成人していなかった。
そして、前世の記憶を取り戻した私には分かる。
私は、あの小説の世界に居るのだ。
憑依したとかそんなことではない。
なぜなら、私にはここで生まれて育った記憶が確かにあった。
つまり、事故であの時命を落とした私は、この小説の中に転生して来たのだ。
…ということは、これから起きる事も分かるということ…?
私は、思った。
今がいつなのか分かれば、何か起こる前にその対処ができるかもしれない…。
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「涼夏様?」声が、部屋へと入って来た。「お目覚めですか?」
侍女の咲耶だ。
涼夏は、答えた。
「おはよう。」
とはいえ、まだ夜明け前で、空が白み始めた辺りだ。
神世の朝は、とても早い。
咲耶は、微笑んで頭を下げた。
「おはようございます、涼夏様。本日は王もお出掛けであられるので、朝の挨拶は良いとのことですわ。」
涼夏は、首を傾げた。
「お父様は、どちらにいらっしゃるの?」
咲耶は、微笑んで上品に答えた。
「はい。王は本日は月に一度の会合の日であられますので。龍の宮へいらっしゃるのですわ。」
龍の宮…!
涼夏は、目を丸くした。
この小説の舞台であり、神世最強と言われる、龍王が統べる神世最大の宮。
咲耶に手伝われて着物に着替えながら、涼夏は蘇ったばかりの記憶と、今の自分が蓄えた記憶を必死にたぐい寄せた。
この小説の始まりは、月と話せる蒼という人の物語が始めだった。
母の維月から続く、月と話せる血族だった蒼達兄弟姉妹は、維月が命を落としたことで、陽の月の十六夜と共にいろいろな神世の事に巻き込まれて行く。
維月は、結局十六夜の同じ月の片割れである、陰の月の命をもらい、蘇える。
そして、龍王維心と巡り合い、維心に強く愛されて、十六夜と維心を夫として、維月は神世で生きて行くことになるのだ。
その過程で起こる様々な事を淡々と書き進めているだけの小説なのだが、涼夏が奈津美として生きていた時に読んでいた時には、もう三人は一度死んで転生し、新たな生をまた一緒に生きていた。
蒼は、維心から領地の一部を譲られて月の宮の王となり、そこで君臨していた。
果たして、今がその小説のどの辺りなのか、涼夏には分からなかった。
何しろ、歴史の授業は大嫌い、難しい書物はあまり読まないので、今の龍王の名が維心だとは知っているが、それが転生前の維心なのか、転生後の維心なのかが分からない。
神世には年号が無いので、人世の流れを見てどの辺りなのか知るしか無いのだが、涼夏は不勉強な自分を、殴りたい気持ちになった。
髪を結われて、準備が終わったようで、咲耶が言った。
「終わりましてございます。」
言われて、ハッと傍の大きな姿見を見た。
そこには、青み掛かった白い髪に、透き通った青い瞳の、それは美しい姿の自分が立っていた。
いつも、そんなものだと見ていた自分の姿が、前世の記憶を呼び起こした後は、驚くほど美しく見える。
涼夏は、思わず鏡に手をついて、じっと自分を見つめた。
白い透き通るような肌、ぷっくりとした頬。
…これは美しいわ。
涼夏は、満足げに自分の姿を、鏡の前でクルクルと回って見た。
それを見て咲耶は、フフフと微笑んで言った。
「本日はご機嫌がおよろしいようですわね。」
涼夏は、咲耶を振り返った。
「お父様は、まだいらっしゃる?」
咲耶は、首を傾げた。
「どうでしょうか。もう日が昇りますのでご出立のお時刻かと思いますが…。」
涼夏は、扉へと走った。
「お父様にお会いするわ!」
咲耶は、びっくりして口を袖で押えた。
「涼夏様?!なりませぬ、そのように駆け出したりなさっては!」
知っている。
神世の女は、走ったりしないのだ。
おっとりゆっくり動くのが、品が良いとされているからだ。
だが、父が龍の宮へ行くと言うのなら、どうしても連れて行ってもらわなければ!
そう、そこにはあり得ないほどのイケメンたちが、ひしめき合っているはずなのだ。
今がいったいいつなのか分からないが、それでも主人公たちの姿だけは、長年この小説を読んでいた自分としては、絶対に見ておきたいものだから!