独白 ~ 黒髪のニック
「あんたなんて産むんじゃなかった」
それが俺の母親の口癖だった。
「黒髪なんて何の役にも立たないクズだし!あんたのせいで陛下の訪れもなくなったのよ!」
と頬を強く殴られたり、蹴られたりすることもあった。
(性格の悪い浮気女だから愛想を尽かされたんだろう)
内心そう思っても口に出せるはずもない。
それでも昔は庇ってくれる侍女や侍従がいた。
俺を庇う使用人たちにも我慢ができなかった母親は彼らを処罰し解雇した。
気がつくと母親の言うことに逆らわない、汚いものには見て見ぬふりをする使用人だけが残っていた。
そいつらは俺がどれだけ暴力を振るわれても助けようとはしない。
逆に一緒になって俺を罵倒し、喜々として虐待に参加した。
しかし、普段は母親にこびへつらう輩も、彼女がいないところでは彼女の悪口三昧だった。
「・・・あの黒髪。絶対に国王陛下のお種ではない・・・」
「だから・・・陛下のお渡りがなくなって・・・・いい気味・・・ふふ」
人間の醜悪な部分を嫌というほど見せつけられた。
さらにまだ五歳の俺の体を触りまくるような使用人もいた。嫌だと抵抗すると殴られる。
この世界には神なんていない。地獄があるなら、悪魔がいるなら、どうかいっそのこと俺を殺してくれと、そう願うような生活だった。
ある日、母親の暴力が過ぎて俺は意識を失った。
もうこのまま死ぬ・・・と覚悟したが、最後まで自分の母親には憎悪と軽蔑しか感じなかった。
***
皮肉にも俺を助けてくれたのは天使だった。
茶色い髪の愛らしい天使。
アリソンという名の少女が俺を救済し、教会に居場所を作ってくれた。
髪色で人間の価値は決まらない。黒髪なんて気にしない。
そんな風に言ってくれた彼女の優しさに涙が止まらなくなった。
もっと言って欲しくて、わざと拗ねたことを言ったこともある。
俺が拗ねてもいじけても彼女は我慢強く俺を慰めてくれた。俺の気が済むまで隣に座って話をしてくれる。彼女と一緒にいると心が浄化されるような気持ちになった。彼女は決して俺を放置したりしない。
彼女は文字通り天使のように誰にでも優しかった。何か目的があって優しくするのではない。ただ思いやりがあるのだ。
ひねくれた俺は、こんな善良な人間が存在するはずない、何か裏があるに違いないと何度も疑った。
しかし、彼女は決して期待を裏切らなかった。彼女の心はどこまでも真っ白で誰も足を踏み入れたことがない雪原のようだった。
茶色い髪なのに教会で大切にされている様子を見て不思議だったが、実は彼女が『銀髪の乙女』だと聞いて衝撃を受けた。
人々に恩恵をもたらし愛される銀髪の乙女は、黒髪の俺とは対極の存在だ。
なぜ俺に優しくするのか?
最初は同情なのだろうと思った。彼女は誰にでも優しい。その優しさの一切片を俺にも分けてくれたんだと思った。少し胸が痛んだが、同情でも彼女の傍に居られるならそれで良かった。
しかし、次第にアリーの優しさは同情なんていう安っぽい言葉では括れないことが分かってきた。アリーは周囲の人間に純粋な愛情を注いでくれる。大袈裟な愛情ではなく目立たない優しさで、下手すると気がつかない人もいるのではないかと思う。
優しさを知らずに育ってきた俺にとっては、そんなさりげない優しさでも熱すぎるくらいだった。アリーが温めてくれたおかげで、凍りついていた俺の心は柔らかく解れていった。
アリーは修道院に行きたいと口癖のように言っていた。
しかし、現世でご利益の多い『銀髪の乙女』が修道院に入ることは許されないだろうと俺はタカをくくっていた。
俺はずっとアリーと一緒に居られるものだと信じて疑わなかったんだ。
アリーのおかげで異母兄のアランとも仲良くなれた。
それまでは会うことも許されない雲の上の存在だったアランは黒髪の俺を弟と呼んでくれた。
黒髪でも気にしないと言ってくれた二人目の大切な人だ。
アリーとアランのおかげで俺はようやく人間になれた。
二人と一緒に見る空が青い時は、その青さが眩しかった。雨が降る日に教会で一緒に掃除をしていると雨の音しか聞こえない静謐さが愛おしく感じた。
アリーとアランはいつでもそこにいて、俺がこの世界で意味のある存在なんだと教えてくれた。
二人のおかげで人間は醜いばかりではないと知ることができたんだ。
それなのに、アリーが修道院に行くことが決まったと知らされた時の絶望は忘れられない。
彼女が希望していた修道院は国内で最も戒律が厳しく、外界との連絡は全く取ることができない。
文字通り、家族も友人も全てを捨てて修道女になるのだ。
つまり、俺との接点は完全になくなる。
俺はその頃十歳になっていたが、自分のアリーへの気持ちが単なる友情ではないことを自覚していた。どうしようもなく絶望的な恋心を抱いていると分かっていた。
どうしても彼女が欲しかったが、彼女の瞳が俺と同じ熱を帯びることはなかった。
彼女は静かな湖面のような穏やかな瞳で周囲の人間を同等に見つめていた。誰かが彼女にとって特別な存在にならないことに安堵しながらも、自分が彼女の特別になることは永遠にないのだと分かって、さらに絶望した。
子供の俺は拗ねて、拗ねて拗ねまくった。他に自分の気持ちを伝えられる術を持たなかった。結果、彼女にちゃんと別れも伝えられなかった。
彼女が去った後に何故ちゃんとさよならを言えなかったのだろうと後悔した。
どんなに空が青くてもそれを美しいとは思えなくなった。夜、目を閉じると思い出すのは彼女の笑顔だけだった。
朝、目を覚ました時に彼女がもういないということを思い出して泣き崩れた。
アランが心配するくらい俺は全てに対して何の感情も抱けなくなった。人生には絶望しかないと改めて思い知らされた。
母親に捨てられ、救済してくれた初恋の人に捨てられ、俺は自暴自棄になっていた。
一方、成長した俺に近づいてくる女はどんどん増えた。
黒髪なんてと軽蔑しながら、俺の顔が気に入って迫ってくる女たちには反吐が出そうだった。
アリーに言われて始めた剣技の訓練はずっと続けていた。体を滅茶苦茶に酷使している時は少しだけ彼女のことを忘れることができるし、騎士団長でもある叔父のノアは指導が上手い。
俺は剣術や勉強に打ち込んでアリーを忘れるように努力した。そのおかげで十二歳の時に、史上最年少で騎士団に入団することができた。
どんなに容姿の美しい女が近づいてきても、しなだれかかられても、婀娜っぽく言い寄られても俺の心が動くことはなかった。
アランだけは俺の気持ちを分かってくれていたと思う。
ひそかにアランを恋敵だと疑っていた時期もある。アランはいつも飄々として女の捌き方も上手だが、誰かに恋している様子はなかった。アランが心を許している女性もアリーだけだったと思う。
あまりに女が群がってくるので、俺はだんだん気持ち悪くなってきた。彼女たちは俺がどんな気持ちでいても関係ない。自分の理想だけを一方的に押しつけてくる女たちに自分の母親を重ね、ますます女が嫌いになっていった。
夜、星を見ながらアリーも同じ星空を眺めているのだろうかと想いを馳せる日々だ。
ただただ彼女に恋焦がれていた。
一時的に騎士団を離れ魔法学院に入学すると、俺とアランは黒王子、白王子などと有難くもないあだなをつけられ、女子生徒たちがわらわらと群がってくる。
俺が冷たい視線で睨むと怖がって逃げていくが、アランは表面上だけでも礼儀正しく淑女として扱うのでなかなか女を排除することができない。アランも内心はそんな女たちを嫌がっていた。
俺もアランも特定の誰かと恋に落ちることなく、学院では勉学や剣術の訓練に明け暮れていた。
そんな中、突然アリーが還俗するという勅命が下された。
なぜ突然に?という理由は分からない。アランは事情を分かっているようだったが、俺には教えてくれなかった。
アリーが戻ってくる!
俺は彼女に対する気持ちの整理がつかなかった。一生会えないと思っていたから。
女に対する不信感や軽蔑の感情はどうしようもないほど高まっていたし、アリーが自分を捨てたことに対する怒りはずっと澱のように心に蓄積していた。
女性騎士のリズと共に、学校でアリーの護衛をして欲しいと頼まれた時は正直躊躇した。
「嫌だったら断ってもいいよ。誰か他の奴を探すし」
アランにそう言われて、俺以外の男がアリーの側にいることは我慢できないと執着する自分に気がついた。
そして、七年ぶりの再会。
約七年ぶりにアリーを見た瞬間、あまりの清廉さに俺は足元から崩れ落ちそうだった。
成長して十七歳になったアリーの美しさは言葉では言い尽くせない。
相変わらず茶色い髪のカツラを被ってはいるが、緑がかった金色の瞳は澄んで透き通っている。きめ細かい白磁のような肌は滑らかでつい触ってみたくなるし、形の良い鼻梁から蠱惑的な唇までのラインは最高級の芸術品のようだ。
彼女の神々しいまでの美しさを目の当たりにして、俺はなんだかいたたまれなくなった。
彼女は美しいだけでなく人望熱く清廉で全てに秀でた存在だ。
高嶺の花という言葉がピッタリだ、俺なんかに手の届く花ではないと心の中で自嘲した。
その上、彼女の顔には恐怖と戸惑いしかない。
俺たちを懐かしむような表情は全くなかった。
加えて彼女は卒業と同時に修道院に戻ることを希望していると聞いて、俺は絶望した。
彼女は再び俺を捨てるのか?
彼女を想っても何の甲斐もない。彼女は俺のことなんかなんとも思っていないんだ。
それを思い知らされて、俺は彼女に対する強い不満と憤りを抑えられなかった。
そんな・・・無垢な、何の罪も知らない少女のような顔で、俺の心をグサグサと突き刺す。俺の心からどれだけ血が流れてもお前は何も気がつかない。
(どうして・・・どうして、俺たちといることを選んでくれないんだ?!)
俺の怒りは憎悪に変わった。