2-1
ユノの右腕のパルカイには、今日も十一桁の番号が映る。昨日ゼロにパルカイを勝手に交換されても、それは少しも変わっていなかった。生まれてから十七年間ずっと見てきたものを不思議に感じる日が来るものかと、ユノは昨日何度も見たゼロのそれを思い出しながら、教室のドアについたセキュリティにそれを当てた。
ピっという認証音に続き開いたドアをくぐると、視界の先に猛然とこちらへ向かってくるアキラの姿が目に入り、ユノはぱちりと瞬いた。
「アキラちゃん、おはよう」
「おはよう、ユノ。話があるんだ。来て」
ユノと少ししか変わらぬ高さのアキラの視線を真正面から受け止めると、アキラは挨拶もそこそこにユノの腕を取り、自分達がいつも座る席までユノを引っ張って行った。黒い丸い頭に引かれながら先を見ると、珍しく今日はギリギリに登校していなかったらしいキョウヤと、アスナの姿もそこにあった。
「おはよう、アスナ、キョウヤ」
「おはよ。朝からアキラが大変」
「どうしたの?」
アキラに連れてこられるままユノは着席させられると、すぐ前の席にはアキラが陣取った。アキラの隣に座していたキョウヤに何事かと視線で問いたが、キョウヤはちらりと目の前にいるアスナに視線をやると、小さく肩を竦めてみせた。
「ユノ。昨日、僕の知らない間に男と会ってたんだって?」
「そうそう。あの人とあれからどうしたのっ?!」
畏まったアキラの声と、瞳をキラキラ輝かせながら言ったアスナの一言で、ユノは今自分が置かれているこの状況を全て理解した。ユノは小さく息を吐き出すと、隣に座ったアスナへと咎める様な視線を送る。
「どうって、別にどうもしないわ」
「えーっ、そうなのっ?! つまんなーい……あーあ、私も一回くらいあんな美形とデートしたいなー……あ、ねえ、じゃあ紹介してくれるっ?」
「……アスナ。余計な事を言って話を大きくしないで」
「デート?……ユノが?……ああっ! やっぱり委員会なんてサボってユノと一緒に帰るべきだった!! ていうかっ! 二人とも知ってたなら止めろよなっ!!」
アキラはアスナの発した三文字にこの世の終わりの様な顔をして見せると、その怒りの矛先をすぐに目の前にいる二人へと発散させた。噛みつかれたアスナとキョウヤはぶんぶんと首を横に振ると、自分達の無実を切に主張する。
ユノはもうすっかり慣れつつあるアキラの過保護ぶりに小さく頭を振ると、同時に零れた溜息と共に口を開く。
「……アキラちゃん。言いたい事は色々あるけれど……アキラちゃんが考えている様な事はないから落ち着いて。二人には言ったけど、彼、大人なのよ」
「…………え?」
ユノが最後の言葉を言い終えると、ぎゃあぎゃあと二人に対して喚いていたアキラの声がぴたりと止んだ。そのままユノの方へ振り返ると、男にしては大きめなアキラの瞳がきょとんと瞬いた。
「大人?」
「ええ、そうよ。だから、デートとかそんなんじゃないの。心配しすぎよ」
「そう、なんだ……」
アキラは大人という単語を聞くと、今まで息巻いていた勢いが削がれた様にゆるゆると自席へと腰を下ろした。だが視線はユノに残したまま、何か言いたげな表情でユノを見つめていた。ユノはなんとか事態は収束したかと小さく息を吐くと、アキラの事は特に気にせずアスナとキョウヤの方へ向き直る。
「デートだったのは二人の方でしょう? そっちこそどうだったの?」
今までに聞き飽きるほど聞いている話題にさほど興味はなかったが、自分の話題を逸らす為にユノは敢えてその話題を選んだ。案の定アキラのお小言にウンザリしていたアスナの瞳が目に見えてキラキラと輝く。
「どうって……もっちろん、いつも通り楽しかったよ! 昨日はね、隣の男子校の子だったんだけど。一年生だよ、一年生っ! なんかすっごい可愛かったー。一年違うって、やっぱりすごく違うよねぇっ……」
その彼の事を思い出したのか、アスナは机に頬杖をついたまま、ふう、と幸せそうな溜息を吐いてみせた。それを横目に見ていたキョウヤも、わかるわー、とアスナに同調する。
「なんか、一年前ってこんなに可愛かったっけ? て思うよな、反応とか」
「そうそうっ!」
(……楽しかったみたいね)
すっかり話に盛り上がり始めた二人にユノは小さく微笑むと、ふと、ゼロとの約束を思い出した。
(……そういえば、二人は「赤い糸」の事をどう思っているのかしら?)
アスナとキョウヤは、いわゆる典型的な“子供”だった。「赤い糸」がもたらした子供の特権を余すところなく謳歌し、不特定多数の異性と交遊する事を楽しんでいる。ユノは運命教の教義に反する二人の行動を今まで理解出来た事はなかったが、どうして二人がその行動を取る選択をしたのかという事もまた、考えた事もなかった。
(ゼロが言っていた事は、こういう事なのよね?)
「……ねえ、二人は「赤い糸」の事をどう思っているの?」
「……え?」
ユノはアスナとキョウヤに話しかけたつもりだったが、アキラも含めた三人の瞳がユノへと向いた。話に興じていた二人はピタリとその口を閉じ、三者三様に不思議そうな色を湛えたその内、アスナが代表して口を開く。
「なになに? いきなりどうしたの? もしかして、運命教の勧誘?」
「……運命教は勧誘なんてしないわ」
茶化す様なアスナの言葉にユノが小さく首を横に振ると、アスナは、ゴメン、と小さく謝った。
「でもなんで今更そんな事聞くの? ユノが信じてるのは知ってるけど、今までそんな事一回も聞いた事なかったのに」
「……昨日会った人が、大学で「赤い糸」の研究をしていて、それで色々な人の意見を聞きたいって言っていたの」
(可笑しくは、ないわよね?)
ゼロとの話し合いで、身元がバレてしまうと色々面倒だと言う事で、ゼロの事は大学で「赤い糸」を研究をしている学生という事に決まった。ユノはその手伝いを頼まれたという言い訳は、それほど不自然ではないだろうとユノも口裏を合わせる事に承諾をしたのだ。
「ふーん……」
「それでユノに協力して欲しいって? それってナンパじゃねーの?」
「……違うわ。だからどうして、あなた達は男と女が会うだけで、すぐに恋愛と結び付けようとするの……それに、彼は大人だって言ったはずよ」
キョウヤの言葉にユノが小さく溜息を吐くと、キョウヤとアスナが顔を見合わせた。
「……女と男、しかも昨日の人みたいな美形と出会って、恋愛以外にする事あるの? 逆に」
「え?」
思ってもみなかった回答にユノが目を丸くすると、アスナが、はああ、と呆れた様に大きな溜息を吐いた。
「あのさ、いつも言ってるけど、それが普通だよ? ユノみたいなのがほんとレアなんだからね? だって、それが「赤い糸」だもん。子供の内は色んな人と恋愛楽しんで大人になったら落ち着きましょう、って、それを推奨してるんでしょ? それを楽しんで何が悪いの?」
「推奨? 推奨なんてしていないわ。それはあなた達が「赤い糸」を誤解しているのよ」
「誤解? どこが? よくわかんない。だって、子供にだけ許されてるっていうのは、そうしろって事でしょ?」
「え?」
(そんな考え方が、あるのかしら?)
初めて聞くアスナの考えにユノが驚きに言葉を失くすと、キョウヤも同調する様に口を開く。
「でも実際そんなよーなもんだろ? 大人になったら勝手に決められた相手あてがわれんだから、それまでは好きにして良いって言ってんだろ?」
「勝手に決められた相手って……それは最適な相手なのよ?」
キョウヤの物言いにユノがむっとした表情をしてみせると、キョウヤは開きかけた口を一旦閉じて息を吐きだした。
「あー……うん、まあ、それはそーなんだけどさ。まーいーや。ユノと言い合いするつもりもねーし」
「そうそう。ていうか、なんでそこに疑問なんて持つの? 最適な相手は「赤い糸」が決めてくれるんだから、そうじゃない相手とは子供の内に楽しんでおけって、そういう事でしょ? ほら、子供の頃に読んだ童話? でもさ、何でもない日を祝ってたのがあったじゃない。それと一緒だと思う。何でもない人バンザーイ、みたいな」
アスナは敢えて茶化してそう締めくくると、口許に綺麗な笑みを浮かべてユノを見た。
(……全く理解出来ないわ)
想像を超えた認識のギャップにユノは思わず絶句した。「赤い糸」はそういうものではない、と二人の誤解を解きたいと思ったが、何を言えばいいのかは全く浮かんでこなかった。
「……」
(……あ。でも、アスナは)
ユノはふと脳裏に過ぎった考えにちらりとアスナを一瞥した。アスナの視線の先にいるキョウヤへとユノが視線を移すと、それに目ざとく気づいたアスナがユノへと視線を寄越す。
「私ね、好きなものは最後まで取っておく主義なの」
「……え?」
ふいにかけられた言葉の意味を瞬時に理解出来ずユノが思わず腑抜けた声を漏らすと、アスナは楽しそうに綺麗な笑みを作って見せた。
「……そう」
「うん」
(だから、キョウヤとはまだ付き合わないって、意味かしら?)
面食らった様にユノが小さく頷くと、話の意図を汲み取れないキョウヤが視線をアスナへとやる。
「なに? いきなり」
「え? ああ……この前ユノと一緒に行ったスイーツのお店で買ったお菓子今日持ってくる約束してたんだけど、まだ後で食べようかなーって。ね? ユノ」
「え?……え、ええ」
「え? 今持ってんの? 食おうぜ」
「食べたい? いいよ。ちょっと待ってね」
咄嗟に吐いた嘘かと思ったが、アスナは楽しそうに自分の鞄を探り始めると、すぐに可愛らしくラッピングされた小さな袋を取り出した。面食らうユノの目の前で、キョウヤがすぐさまそれに指を伸ばす。
「……そんなことよりさ、ユノ。その男に協力するって言ったの? じゃあまた会うって事っ?!」
今まで沈黙を守っていたアキラの声にユノが視線をそちらへやると、真剣な目をしたアキラの顔がそこにあった。二人との雰囲気のギャップにユノがぱちりと瞬くと、お菓子に舌鼓を打っていた二人の口から、はあ、と大きな溜息が漏れた。
「そもそも、アキラのそれが一番不毛なんじゃねーの?」
「そうそう。アキラこそユノが好きだって公言してるのに、なんにもしようとしないなんて、ほんとよく分かんない」
キョウヤとアスナが呆れた様にそう言うと、アキラはぐるんと顔をそちらへ向ける。
「僕はこれでいいのっ! ユノが「赤い糸」を信じて待つって言うなら、僕も一緒に待つよっ!」
アキラの主張にキョウヤとアスナはなんとも言えない表情で顔を合わせた。
「でもさあ、それでアキラが選ばれるとは限らないじゃない?」
「選ばれるってっ!! 小さい時からずっと一緒にいるんだから、僕よりユノに相応しい奴なんていないのっ!!」
「えーっ、なにそれ。傍にいるだけで選ばれるなら、「赤い糸」なんていらないじゃん」
「……まー、そんな統計出てねーもんな」
心底呆れた様なアスナの言葉に、キョウヤが相槌を打った。その姿にアキラは小さく息を吐くと、コホン、と仕切り直しの咳払いを一つ払う。
「とにかくっ! 今はそんな事はどうでもいいから。それで? ユノ、その男にまた会うの?」
急に自分へ向いた矛先にユノは一瞬反応が遅れた。
「え?……ええ。今日の帰りも会う約束をしているわ」
「!! 何それっ! 聞いてないっっ!!」
「ええ、そうね。今初めて言ったもの」
ユノが当たり前だと言わんばかりにそう言うと、アキラは一瞬ぽかんとした表情をした後、なんとも言えない表情をして大きな溜息を吐いた。
「そういう事じゃなくてさー……わかった。じゃあ、僕も一緒に行っていいっ?!」
「え? それは駄目よ」
「どうしてっ!!」
「だって、人を連れていくなんて言っていないもの」
「…………それも、そうだね」
ユノの正論の前にあえなく引き下がったアキラを見て、アスナとキョウヤが小さく首を横に振った。だがアキラはそこで諦めず、すぐに次の言葉を接ぐ。
「じゃ、じゃあ、今度僕にも会わせてよ、その人に」
「え? どうして?」
「どうしてって……だってユノが心配だしっ」
食い下がるアキラにユノが不思議そうに小首を傾げると、アキラの表情が一瞬固まった。ほんとユノ相手って大変だよな、とキョウヤがアスナに向け小さく呟いた。
「だから、アキラちゃんが心配する様な事は何もないわ」
「え……あ、あとっ、僕も協力できたらなってっ!」
そう言った瞬間、アキラの顔が明らかに、しまった、という表情をした事にユノ以外の二人は気づいていた。アスナは両掌を上に向け呆れたポーズを取っていたが、ユノは全くそれに気づかなかったようで、驚いた様にアキラを見た。
「アキラちゃん、協力してくれるつもりなの?……だったら、会えないか聞いてみるわ」
「え? あ、うん……」
すんなりとユノが承諾した事にアキラは勢いを削がれた様に生返事を返す。面倒な事に自分から首を突っ込んで、と傍観していたキョウヤとアスナが呆れた様にアキラを見る。
「……なんとか首の皮繋がった感じだけど、またアキラも自分からめんどくせー設定にしてったな」
「ほんとにねー。ユノ相手だと、大変だね」
アスナはユノに聞こえない様に小声でそう言って肩を竦めてみせると、だな、とキョウヤは視線をユノ達の方へ向け同意をしてみせた。