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教会の中は厳かな空気に包まれ、ある種の神聖性を生み出していた。敬虔なる信者達は先生と呼ばれる代表者の言葉に真剣に耳を傾け、中には両手を組み祈る様に何かを呟いている者もいる。
「昨今、若年層の生活の乱れは益々目につく様になってきています。ここにも、今度運命の日を迎える者、また、これから運命の日を迎える者、そのご両親、様々な方がいらっしゃると思います。ですが、どうか惑わされないでください。我らが“父なる神”は、そんな浅はかな人間の行動など、全てお見通しの上でかの素晴らしい「赤い糸」を生み出したと言う事を、どうか今一度、忘れずに心に刻みつけておいてほしいのです」
先生である恰幅の良い中年女性がそう言うと、年ごろの娘を持っていると思われる中年女性が、真っ直ぐな瞳を先生へと向け大きく頷いた。
「もちろんですわ。うちは家族揃って赤い糸教団の教えを信じて実行しておりますの。近頃の子供達の乱れた生活に娘を近づけるなんて、とんでもない」
中年女性がそう言うと、教会内で共感を示す様に何人もが頷いた。
「そうですか。それは素晴らしい事ですね。きっと、父なる神の加護がある事でしょう」
先生がそう言うと、言われた中年女性だけでなく、その場にいた者が一斉に最前にある祭壇に祀られている像の方へと視線をやった。
それは、「最適配偶者自動選別システム」=「赤い糸」を考案した敷島博士の像だった。
ここは、「赤い糸」を崇拝する者の集まりである「赤い糸教団」(通称:運命教)が所有している教会だった。
「赤い糸」が実装される様になったいつの頃か、そのシステムを至高のものとして崇拝する者達が集まり語らっていた空間が、年月を経てある種の宗教団体にまで成り上がった。現在では全国各地に支部を持ち、敷島博士を現人神だと祀っている、立派な宗教法人になっている。
「皆さんに再度お伝え申し上げます。ご存じの通り、確かに「赤い糸」は、全ての者に対し平等に適切な配偶者を割り当て、また、それまでに行ってきた愚行に対しても洗い流してくれるという恩赦を与えてくださいます。それは大変素晴らしい考えに基づいたシステムではありますが、実は、そうやって奔放に生きてきた者は、必ずその後の社会において低い地位に甘んじる事になるのです。表には出ておりませんが、実際に高位の職に就いている者は純潔を守り通した者の方が多いという統計が出ております。ですから、ここにいる皆さんや、ご子息ご息女の方は、運命の日を迎え選ばれし配偶者と共に歩み始めるまでは、来るべき日を迎える準備期間なのだという事を念頭に置いて、周りに惑わされずに毎日を過ごしてほしいのです。そうすれば、必ず父なる神があなた達に素晴らしい未来を与えてくれる事でしょう」
先生が声高らかにそう述べると、どこかかしこからパチパチと拍手の音が鳴り始めた。それはすぐに教会内に伝染すると、大喝采の中で先生は満足そうに頷いた。
「それでは、祈りましょう。運命教の信者に、大いなる加護をっ!」
先生の言葉に合わせ、ユノは胸の前で両手を組んだ。静かに目を閉じると、音には出さずに祈りの言葉を口にする。
(来たるべき日に、素晴らしい運命に出会えますように)
「…………」
ゆっくりと目を開けると、既に教会の中に居た人々は蜘蛛の子を散らす様に消えており、その姿はまばらに見えるほどだった。ユノが毎週日曜日の日課である運命教のミサ参加の終わりを告げる見慣れた風景から立ち去ろうと腰を上げると、ふと、先ほどから感じた視線がまだ自分へと向けられている事に気づいた。先生の説教に耳を傾けている間にも、同じ感覚を覚えたのだ。
「……あの、なにか?」
ユノは視線を感じる自分の左側へと怪訝そうな瞳を向ける。
「……」
見ると、予想に反して若い、しかも見目の麗しい男がこちらをじっと見ていた事に、ユノは少しだけ驚いて鶯色の瞳を丸くした。黒髪の男はユノと視線が交わると、黒縁メガネの奥の切れ長の瞳が柔らかく弧を描いた。
「熱心に聴いてるなと思って」
見入ってしまったんだ、と男は悪びれずにそう言うと、一拍置いた後に、すみません、と思い出した様に付け加えた。
「別に。本当の事だから気にしないわ。でも、あなたもでしょう?」
信者なんだから、と暗に告げたユノの言葉に、男は一瞬きょとんとした瞳を向けたが、すぐに、
「あ。あー、そうそう。そうなんだけど、僕には直接関係のない事だから」
と、肩を竦めてみせた。
「関係ない?……ああ。あなた、大人なのね」
「うん。君は?」
「私は、今年運命の日を迎えるの。だから、熱が入っているのかもしれないわ」
ユノがそう言って視線を父なる神の像へとやると、男も釣られる様にそちらへ視線をやった。
「……信じてるんだね。「赤い糸」を」
男の声に真剣味が増した様な気がして、ユノは男を見返した。どうしてそんな当たり前の事を聞くのだろうかと不思議に思っていると、男はすぐに次の言葉を接いだ。
「ああ、ごめん。決して否定している訳ではないんだ。ああ、言葉って難しいな。えーと、そう、僕は、「赤い糸」に関する人々の感情を研究してるんだ。だから、つまり、君に協力してもらえないかと思って、見ていたんだ。本当の事を言うと」
男は言葉を探る様にそう白状すると、ごめん、とユノに向け小さく頭を下げた。
「別に、謝る程の事じゃないわ。でも、協力するって言うのは、他の人に頼んだ方がいいかもしれないわ」
「……どうして?」
「何をするのか分からないけれど、私、あまり話が得意な方じゃないもの。だから上手く説明
出来ないと思うわ。それに、きっと偏った意見しか言う事が出来ないと思うもの」
ユノはそう言うと、ちらりと敷島博士の像の方へと視線をやった。両親が敬虔な運命教の信者であった為、ユノは生粋の運命教の信者だった。だから生まれてからずっとその教えを信じているユノは、その視点からでしか話をする事が出来ない。適任じゃないと身を引こうとすると、男はその見た目にそぐわない様な慌てぶりでユノに迫った。
「それは問題じゃない! えーと、今聞かせてもらったけど、君の言葉はとても真っ直ぐだ。だから、僕はそういう人の言葉で聞きたいんだ」
「でも……」
男の熱意に少し面喰らったユノが、それでも躊躇う様な仕草を見せると、男は、あ、と何かを思い出した様に自分の右腕につけられているパルカイへ視線を落とした。
「じゃあ、これでどうかな?」
男はそう言うと、自分のパルカイをユノの目の前に持ってきた。ディスプレイを目の前に突き付けられ、ユノはそこに表示されている文字に、思わず息を呑んだ。
「ゼロっ?!」
ユノは思わず上げてしまった大声を押さえる様に慌てて両手で自分の口許を覆った。信じられないものを見る様にもう一度ディスプレイへ視線を落とすと、今度はそれを男へと移す。
「明日付き合ってくれたら、どうしてここにゼロが表示されているか、教えてあげるよ」
男はそう言うと、ユノの瞳を覗き込んだ。
「興味ない?」
「……」
男の漆黒の瞳が正常な判断を狂わせてしまう様な気がして、目を逸らしてしまいたかった。だが、どうしても、ユノは逸らす事が出来なかった。
(どうして?)
普段であれば、ユノはこんな簡単な誘いには乗らなかっただろう。ただ今日は組合せが悪かったのだ。ユノが信じる「赤い糸」を祀るこの場所で、それを揺るがす様なものを見せられれば、誰だって同じ行動をとるだろう、とユノはこれから自分が取るであろう行動へ言い訳をつける。
「どうして、あなたのパルカイは、ゼロを示しているの?」
通常、そこには個人の識別番号が表示されている。それは頭が一から始まる十一桁の数字からなる文字の羅列であるはずなのに、男のそれにはただ一つ、0の文字だけが記されていた。
ユノが不安気な声でそう聞くと、男は柔らかに笑ってみせた。掛けていた黒縁眼鏡を取りシャツの胸ポケットに入れると、
「どうしてだろうね。知りたくない?」
と、悪戯っぽく首を傾げる。強気な男のその仕草にユノは思わず呆けてしまったが好奇心には勝てず、ついに観念した様に小さく息を吐いた。
「あなた、最初の印象より随分と意地悪なのね……わかったわ。明日、あなたに付き合えばいいの?」
「ほんとにっ?! ありがとうっ!!」
「……」
男はユノの承諾の返事を聞くと、ぱっとその表情を輝かせた。その目まぐるしい表情の変化をユノは目を丸くしながら見つめていると、ふと、ある事に気づいて首を傾げる。
「……私、あなたと、どこかで会った事あるかしら?」
眼鏡を外した男の顔になぜだか既視感を感じ、まるで使い古されたナンパ文句みたいな言葉を口にすると、男はまた表情を変える。ふ、と口元に笑みを浮かべると、
「僕が誘ってるんだと思ってたんだけど、まさかキミの方から誘ってくれるなんてね」
と楽しそうに笑ってみせた。
「! 私は、そういう意味で言ったんじゃっ……」
からかいを含んだ男の言葉にユノは男を少し咎める様に見やると、男は、ごめんごめん、そう怒らないで、と顔の前で片手を立ててみせ、
「でも、それも明日になったらわかるよ」
と、男は穏やかな笑みを浮かべてみせた。
「……」
気が付くと教会の中に人の姿は見えず、ユノとゼロの番号を持つ不思議な男二人きりだった。静寂な教会の中、ただ敷島博士の像だけが、じっと二人のやり取りを見つめていた。