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片側が前面ガラス張りの真っ白な室内は、そこから注ぐ日の光で溢れていた。その部屋の真ん中、真っ白な真新しいシーツに包まれたキングサイズのベッドの上で、ニルはノートパソコンを睨みつけながら小さく唸った。
「やっぱりさー、「赤い糸」作るくらいだから、敷島博士ってすごいんだねえ」
ニルは独り言の様にそう言って暫く画面を見つめていたが、途端に、
「だめだー」
とまるで降参のポーズの様に両手を上にあげ、そのままの姿勢でベッドへと倒れ込んだ。
「どうかなされましたか?」
画面で確認したのかそれともニルの声が大きかったのか、端末からアンの声が聞こえた。言葉とは裏腹に相変わらず抑揚のない声からは心配の度合いを測る事は出来なかったが、ニルは楽しそうに端末に向かって言葉を発する。
「アンちゃん、暇だから話し相手になってよ」
「そのような理由で離れる訳には参りませぬ」
「かたいなあ。自力破壊が出来なくて落ち込んでるんだから、慰めに来てよー」
「……」
端末からはアンの盛大な溜息が聞こえ、そこで途切れた。
「あれ?」
ニルが不思議そうに端末に向かい小首を傾げると、それと同時にプシュっとドアの開く音が聞こえ、今日も秘書風の黒いスーツに身を包んだアンが現れた。
「ニル様。私はあなたと違って忙しい」
アンの辛辣な第一声にニルは思わずぽかんと口を開けると、すぐにくつくつと肩を震わせて笑い始めた。
「そうだよね。ごめんね、アンちゃん。でもさあ、ボクだって今頑張ってたんだよー?」
ほら見て見て、とずいっとパソコン画面をアンの方へ向けると、アンは言われるがままにそれを覗き込んだ。
「いいとこまではいけたんだけどさあ、どうしてもここから入れないんだよねえ。だからもう、自分で壊すのは諦めるよ。時間の無駄だしね」
ニルは、はあ、と溜息を零すとノートパソコンをパタンと閉じた。アンが大きな黒い瞳をニルに向けると、ニルはそれに気づいて紅玉の瞳を返す。
「ニル様は、なぜ「赤い糸」の破壊をお望みで?」
「だって、それが人間なんじゃないの?」
「は?」
ニルが当たり前の様に言った言葉がアンにとっては予想外だったのか、アンはぽかんとした表情をしてみせた。普段は表情の乏しいアンにしては珍しく表情を崩したのがおかしくて、ニルは楽しそうに笑った。
「別に皆が勝手に想像しているような大きな野望も大義名分もある訳じゃないんだよ。最初なんて、ただ敷島博士の世紀の大発明を壊せたら楽しいだろうなって、それくらいの気持ちだったしさ」
「……」
「ああ、ボクのせいで巻き込んじゃったアンちゃんの前でデリカシーのない発言だったね。ごめんね。ボクなんかの配偶者に選ばれちゃったから、パルカイがガラクタになっちゃって、安定した未来が消えちゃったんだもんね。もし望むなら、「赤い糸」中に紛れ込ませてあげるから、いつでも言ってね。それくらいはお安い御用だよ」
ニルが僅かな罪悪感を笑みの中に忍ばせると、アンはふるふると頭を横に振った。艶やかな黒髪が絹のスーツの上を静かに滑る。
「いいえ。私は自分で望んでここにいる。あなたが気に病む事ではない」
「……そう。それが本心なら嬉しいなあ。だったらやっぱり、「赤い糸」を壊すのが、人間が人間らしくいる為の一番の近道みたいだね」
「その意味は?」
アンの瞳が、興味深げにぱちりと瞬いた。ニルは、立ってるのもあれだから座りなよ、とベッドの縁を指差すと、アンはおずおずとベッドの縁に座り食い入る様な視線をニルへと向けた。
「……アンちゃんも、「赤い糸」が“運命の日”に僕達に何をするかは知ってるよね?」
無言で頷くアンを確認するとニルは続きを話すべく口を開く。
「最適配偶者とされる者が恋人で無かった場合、その関係はあっけなく解消される代わりに、その気持ちも綺麗にすり替えられる。まあ子供達はそれを逆手に取って遊び放題だけど、それって、人間らしさを奪われているんだって事には気づいてないんだよね」
「人間らしさを、奪われている?」
アンが言葉の響きに不思議そうに瞬くと、ニルは大きく頷いてみせた。
「うん。だって、心を奪われて誰かを好きになるなんて人間にしかできない事なのに、国を存続させる為にそれを放棄したんじゃないか。感情による心の揺れは無視して、遺伝子による配合率の高さで決められた事をまるで自分の意志の様に押し付ける。人間らしい感情の欠如の代わりに、安定した生活を差し出すって言うのは耳触りがいいけど、その背後に劣性遺伝子がいる事には目を瞑って見ないふりをする。気持ちを潰してきたから、そんな事が平気で出来るのかもね」
「それは?」
「例えば、好きで好きで仕方ない人と離れなければならなくなった時、それはもっと悲しくて辛くて心が引き裂かれる程痛いものじゃなきゃいけないんだ。それを乗り越える事で人間は心を成長させていったというのに、あんな簡単に強制終了しちゃうから、何が人を傷つけるかという事が分からなくなっちゃたんだろうね」
だからね、とニルはそこで言葉を挟んだ。
「アンちゃんはもっとボクに怒っていいんだよ。アンちゃんの未来を潰したのはボクだからさ」
「……」
ニルがそう言って笑うと、アンは一瞬ポカンとした表情でニルを見たが、すぐにまた頭を横に振ってそれを否定した。
「ニル様。私は自分の意志でここにいる。あなたに怒る事など、なにもない」
「そっか。そうだったね……それにしても、反対者は順調に集まってるんだけど、いまいち決め手に欠けるなあ。このままだと、手を打つ前にタイムリミットが来ちゃうなんていう最悪の結果になりかねないなあ。それだけは絶対に避けたいんだけど……」
ニルはそう言って閉じたノートパソコンをまた開くと、画面に一人の男のデータを開いた。バストアップの写真の横には次々とその男に関する情報が現れ、ニルは指でそれを追う。
「敷島博士も、システムをクローンに護らせるなんてよく考えたよね。よっぽど他人を信用してないのか、それとも、何か他の理由があるのか……この辺りはもっと調べてみれば分かるかな? じゃあそれはアンちゃんに任せていい? 分かんなければ聞いてくれていいからさ」
「わかった」
「さてと……じゃあ後はボクの方かな。なんかもっと……」
ニルはふと、ベッド脇に転がっている狐面に目を留めた。最初に目立ち過ぎると動きづらくなるという理由だけで嵌めた、特に意味のないそれも、今では“蟻と民”の代名詞の様になっている。
「…………なんにでも、物事を動かすにはカンフル剤は必要だよね」
ニルはそう言うと、これから起こることを想像してとても楽しそうに笑った。