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普段から別段穏やかな空気が流れているわけではなかったが、今夜の総理官邸は一段とピリついたムードに包まれていた。堀川率いる特別対策チームの執務室としてあてがわれた室内には誰の話し声もせず、疲労に項垂れる面子に向け、労をねぎらい配られる茶器の音だけが響いていた。
「ターゲットの真意も測れず、彼が「赤い糸」に対してどう決断するか分からない所に、“蟻と民”の台頭。ほんと今回は過去に比べて随分と不安要素ばかりで嫌になりますよっ!!」
堀川は配られた茶に手を伸ばすと、ズズズと啜る様にそれを飲んだ。既に飲み干す勢いで茶を喰らっていた藤本は、勢いよくその器をガラスのテーブルへと戻した。その動作に堀川が神経質に眉根を寄せる。
「まーな。今回の奴は過去のクローン達とは行動パターンが明らかに違うしな。今までの奴等は複数人の人間に接触してるが、今回は自発的に接触しているのは一人だけだ。おまけに、過去の奴らの中には今の時期に早々に存続を決めていた奴もいたもんだ。どうなるかはわかんねーが、まあでも、今回の奴は、最後の最後まで決めねーんじゃねーか?」
「そうでしょうね。だから俺達も打つ手がなくてピリピリしてんですよねっ?! 分かってますけどっ!」
「……ほんと、坊ちゃんは短気だよなー。そんなにイラついたって、現状は変わりゃしないぜ?」
「あなたはもう少し危機感持ってくださいよっっ!!」
堀川が勢いよくテーブルをバン、と手で打つと、室内の他のメンバーが何事かと視線を寄越した。だが藤本が降参する様に両手を上げている姿を確認すると、いつもの事かとすぐに各々の仕事へと戻って行った。
「危機感ねえ……でも、ターゲットが接触してる嬢ちゃんは熱心な運命教の信者なんだろ? だったら、その嬢ちゃんが「赤い糸」を壊してくれなんて言うはずねーだろ。その辺は間違ってねーよなあ? 協力者さんよお」
藤本はそう言うと、少し離れた場所に座っている人物に鋭い視線を投げた。その瞬間室内の空気は一層緊張感が高まり、その場にいる人物全てが、部屋の隅に座る人物へと意識を集中していた。
「!」
呼ばれた人物は突然の注目の中、向けられた視線に明らかな慄きを見せたが、それでも藤本の問いに応えるべく必死に何度も頷いてみせた。堀川はその光景に小さく溜息を吐く。
「後々何か言われたら困りますから、あまり粗暴な口調は控えてくださいね。まあ確かに、普通に考えれば、運命教信者に意見を聞いたクローンであれば、まず「赤い糸」破壊は考えないでしょう。ですが、今回はクローンが今までとは違う思考パターンを持っているかもしれない、という可能性があります。まあでもこれは考えても仕方のない事なので、引き続き協力者の方に彼等の考えの軸がブレない様に上手く調節をしていって貰うしかないですね。そうですよね?」
堀川も協力者へ向けそう声を掛けると、協力者と呼ばれた人物はまたも大きく首を縦に振った。
「お願いします……それよりも、今問題なのはこっちですよ、“蟻と民”。ニルとかいう彼のおかげで、どんどん勢力を拡大していっています。おまけに、最初は無視していた運命教がまさかで敵対視し始めましてね、各地のデモに対抗してデモを行う様になって、大変な事になってますよ」
堀川は頭が痛いと言わんばかりに右手で眉間を押さえた。
「でも、運命教が“蟻と民”を潰してくれりゃあ、一気に問題がなくなんじゃねーか」
「……藤本さん、それ冗談ですよね? “蟻と民”は、昔はどうだったか不明ですが、ニルが現れてからは抗議に一切武力的行為は絡んでいません。あくまでも、思想の主張として「赤い糸」の廃止を呼びかけているんです。ですが、もしここで運命教が武力行使に出てしまったら? 運命教には選民意識の強い一部過激派がいると聞いています。もし彼らが、劣性が故に本能を押さえる事が出来ない下等生物だと見下している“蟻と民”を武力で押さえつける様な事があったら、それが、本能による衝動的なものではないと主張するにはいささか弱くないですか? 彼等もあくまで宗教団体なんです。言い訳がきかなくなって、「赤い糸」の分が悪くなりますよ」
「そいつは困るな。「赤い糸」を潰す様な事になったら元も子もねーしな。それにしても、あのふざけた狐面の男は何者なんだ? あんたなんか知ってるか?」
藤本はまた部屋の隅の協力者に声を掛けたが、今度は首を横に振るだけだった。
「ほんとかあ? まさか、俺達を裏切って“蟻と民”につくつもりじゃねーだろーなあ? 「赤い糸」がなくなりゃ、こんな事しなくてよくなるもんなあっ?」
先ほどより強い口調で藤本がそう言うと、協力者はその声の大きさにびくりと体を震わせた。だが、先ほどと同じく首を横に振るのみで、堀川が小さく溜息を吐いた。
「藤本さん、だからそういう口調は恫喝と取られる事もあるんですから気を付けてくださいって言ってるじゃないですか……それに、協力者は僕達に協力する必要があるから協力者なんてやってるんですよ。裏切るなんて真似、できるわけないじゃないですか」
「わかんねーだろ? 向こうについて「赤い糸」が壊れちまえばこの世の中どうなんのかわかんねーし、少なくとも俺達の犬みたいな真似しなくてよくなるんだしな」
「それでも、リスクの低い方を取るのが賢明な考えってやつです。協力者にとって、「赤い糸」崩壊による不確定な可能性に賭けるよりも、存続をさせた方がはるかに素晴らしい未来が待ってるんですから、そんな事しませんよ。ねえ、そうでしょう? だから僕達の犬なんてやってんだよねっ?」
荒くなった堀川の語尾に、また室内に沈黙と緊張が落ちた。言われた本人は大きく目を見開くと、それでも、健気に首をコクコクと縦に振った。
「おい、堀川……」
「……すみません。突破口がなくて苛ついて人にあたっても仕方ないですよね。はあ……今日はもう解散にしましょうか? どうせいても、大した収穫はなさそうですし」
藤本の諌める様な声に堀川はバツが悪そうに苦笑すると、室内にいるメンバーにも帰宅の指示を出し始めた。
「あ……キミは、僕が送っていくから」
堀川が部屋の隅の人物に向き直ってそう言うと、その人物はやはり首を縦に振るだけだった。