3-5
定期報告の電話を切ると、既に時計は夜の九時を回っていた。
「また今日も早く帰れませんね」
堀川はそう言って大きな溜息を吐くと、机の上に置いてあったコンビニの袋へと手を伸ばした。ガサガサと中をさばくりおにぎりを取り出すと、具を確認した後ベリっと包装を剥がす。
「あー? なんでだ。別に帰りたきゃもう帰りゃーいいだろ。なんか特別にやる事あったかー?」
革張りのソファに座り机に脚を投げ出した姿勢で藤本が欠伸交じりにそう言うと、堀川はシャケのおにぎりを齧りながらキっと藤本を睨みつける。
「あったじゃないですかっ!! ターゲットとイレギュラーが接触したし、おまけにデモ行為もどんどん数を増やしていってるでしょうっ?! こっちはまだ我々が手を出すほどにはなってませんが、それでも無視はできなくなってきている……」
はあ、と堀川は大きな溜息を吐くと、近くにいた黒スーツの男がそっとお茶を差し出した。
「ありがとう……ちょっと落ち着くよ」
「“蟻と民”だっけ? 狐面の男が率いる様になって反「赤い糸」でデモしてる奴等についた名前。よくもまあ自分達に悪魔の名前なんてつけたもんだな。しかもアナグラムときたもんだ。ガキくせえっつーか、まるで遊びの延長だ」
藤本が呆れた様にそう吐き捨てると、堀川は手にした緑茶をゆっくりと飲みこんだ。
「本当に、ガキの遊びかもしれませんよ?」
「あー? どういう事だ?」
「“蟻と民”への参加者は、「赤い糸」に弾かれた“劣性遺伝子”と現状のままでいたい子供達が大半です。そうなると、あれを率いてる狐面の男は、自称大人とされていますが、子供である可能性も否定できない。彼が表に出てきたのもちょうどここ半年くらいの事ですし、“運命の日”を恐れている子供かも」
「おいおい、それにしちゃー大胆だな。“運命の日”が怖いからって、そのシステム自体を無かった事にしてやろうってんだろ? だとしたら末恐ろしいガキだよ」
藤本は半分寝そべった様な状態だった体を起こすと、ソファに座り直して神妙な顔をして堀川を見た。堀川は藤本へ視線を返すと、小さく頭を横に振った。
「……あくまでも可能性ですよ。しかも何の根拠もない……あー、俺が敷島博士くらい頭が良かったら、こんなに悩まなくても全て丸く収める事ができるんでしょうけど。ダメだっ。さっぱり何も思いつかないっ」
堀川はそう言って頭を抱えると、気を紛らわす為におにぎりをむしゃむしゃと貪り始めた。藤本はその姿に呆れた様に小さく宙を仰ぐ。
「お。敷島博士といやー、あの坊主どうなったんだっけ?」
「坊主?」
口いっぱいにおにぎりを頬張ったまま、堀川がきょとんとした瞳を藤本へ向けた。藤本は早く流し込めと言わんばかりに、堀川の前にあるお茶をずいっと押し出した。
「敷島博士の再来だか、神童だか騒がれてたガキがいたろ? それがぱったり姿見せなくなって神隠しだとかなんとかマスコミが騒いでたけど、最近全く聞かねーなって思い出したんだよ」
堀川は飲み下したおにぎりが上手く通らなかったのか、左手でトントンと食堂の辺りを叩きながら、右手で器用にタブレットを操作すると、該当の少年のデータを探し当てた。
『神童、神隠しにあう!!』等衝撃的なタイトルをつけられたタブロイド紙の見出しから、パルカイを通じて得たパーソナルデータまでをも網羅した政府のデータベースを開いて、堀川は興味なさげに人差し指をスライドさせた。
「ああ、彼の事ですか。俺も彼には期待してたんですけどね。せっかく役に立つ大人になる時期になったら雲隠れとか、ガッカリですよ。彼がいたら、今回の件、なんか良い案出してもらおうと思ってたんですけどね」
「おいおい、そんな子供に任せるつもりだったのか?!」
「子供って、少なくとも今は大人のはずです。でも、だってそうでしょう? 敷島博士に対抗するには敷島博士と同等の頭脳、それが一番シンプルな答えじゃないんですか?」
違います? と堀川はタブレットをソファの上に放り投げながら堀川の意見を問うた。
「……おまえさん、意外とそういうとこにプライドないんだな」
「プライド? そんなもんで事が収まるなら安いもんですよ。でも、実際彼がいたとしても、無理だったかもしれませんけどね」
「どういうことだ?」
「彼、あれだけ世間を騒がせたにも関わらず、捜索願が出なかったんですよ。それって、もうこの世にいないか“ただの人”になっちゃったか、どっちかでしょう?」
「ただの人?」
堀川は机の上のお茶に手を伸ばすと、ズズとそれを口に運んだ。飲みながら不思議そうに眉間に皺を寄せている藤本を見やると、
「大昔の諺ですよ。多くの者は大人になったら凡人になっちゃうって、そういう意味です。だから彼も、案外近くで幸せに暮らしているのかもしれないな、と」
これ、とタブレットで調べた諺を藤本へと見せる。
「なるほどな。まあ確かに、こんな事に巻き込まれずに暮らすに越した事ねえしな」
藤本は、天才と呼ばれた子供がテレビに出ていた姿を思い出した。利発そうな顔をした幼い子供が大人達に囲まれてニコニコと笑っている姿は、子供にしては決して幸せな姿ではなかったはずだ。思わず訪れた感傷に浸っていると、ガン、と陶器がガラスにぶつけられる音がして藤本ははっと視線を上げる。
「無駄話はこれで終わりです。これでもまだ、やる事がなくて帰れるって言いますか?」
半ば強制的な堀川の態度に藤本は思わず笑みを零すと、そうだな、と小さく相槌を打つ。
「天才がいねーんじゃ、俺達凡人がやるしかねーもんな」
「そういう事です。じゃあ藤本さんは過去のクローン達の行動をもう一度洗ってください」
堀川はそういうと、藤本にピっとチップを投げてよこした。藤本は小さなそれを器用に受け取ると、
「へいへい。坊ちゃんは人使いが荒いこって」
と、チップを持った手でがしがしと頭を掻きながら立ち上がった。
「だからっ! そのふざけた呼び方やめてくださいって言ってるじゃないですかっっ!!」
他の者達に指示を出しながら叫ぶ堀川の声を聞きながら、藤本は隣の部屋へと消えて行った。