7.
「そ、そうだ。今日は鍋焼きうどんを作ろうと思って食材を買って来たんだ。キッチンを借りてもいいか」
「ああ、好きに使ってくれたらいいよ。俺はあんまり料理とかしないから流しは綺麗になってると思うし」
その言葉通り、キッチンには水気すらなかった。
だが近くに転がっている45リットルのゴミ袋には弁当の山が築かれていた。
マルチな才能は本物かもしれないが、生活能力は僕よりも低いのかもしれない。
「自炊とかしないのか?」
「ファンの女の子を抱くときは料理を作ってもらったりするけど、自分でやろうとは思わないな」
「それじゃあ身体に良くないだろ」
「適材適所ってやつかな。苦手なことはやらない主義だ」
「お前に苦手なことがあるとは意外だったな」
「いっぱいあるよ。自動車の運転免許も持ってないし」
「マジでか。まあ都心だったら必要ないかもな」
「田舎に帰っても取ろうとは思わない。絶対に事故を起こすから」
僕は苦笑しながら鍋に火をかけていく。
その片手間にまな板にシイタケを載せて軸を切り落とす。
ついで長ネギ、油揚げ、かまぼこ、ほうれん草をカットしていく。
「原田から聞いたぜ。悩み事があるんだろ。言うてみな」
前傾姿勢でタブレットに向かいながら、東野は優しい声を出す。
僕は返答に窮しつつも、ほうれん草を鍋に入れて、すぐに水気を絞った。
「どうかした? 早く言うてみなよ」
それには何も言わず、土鍋にめんつゆを入れてから、うどん、しいたけ、かまぼこ、ほうれん草を投入する。箸で麺をかきまぜてほぐれてきたところで卵を入れてふたを閉める。
「あのさ、芸人を……」
言いかけたところで、異変を感じた。
のどの奥、胸の辺りで言葉が詰まったのだ。
子どもの頃、のどにもちをつまらせた感覚に似ている。
早く吐き出したいのに、吐き出せない。
何かが邪魔をするのだ。息が苦しい。
「言いたくないなら、今は無理に言わなくていいよ」
東野はタッチペンの動きを止めて、僕を見ていた。
ああ、そうか。なんて今さら思う。
僕は芸人をやめたくないんだ。
ふうとため息を吐いて、換気扇を回す。
コンロの熱気で額に汗がにじんでいた。
「テーブルの上からタブレットをどかして!」
「おお、わかった」
「鍋敷きを準備して。そこに置くから」
「任せとき!」
「そっちに持ってくぞ」
コンロの火を止めて食卓の上に土鍋を置く。
余熱でぐつぐつと食材が煮える音がしていた。
鍋のふたを開けるとかぐわしい香りが広がった。
「小どんぶりを2つ用意してくれ。俺は取り分ける係をやるから」
僕は指示を出しつつ、菜箸とお玉を手に取る。
小どんぶりを受け取ってから、鍋焼きうどんをよそってあげた。
「なんか、嫌なことでもあったんか?」
ネットフリックスで話題の映画を流しながら、東野は何気なく聞いた。
もしもまだ話の準備が整っていなくて沈黙になってしまったら「映画に熱中してて聞こえませんでした」って言い訳もできるし、頑張って話そうとして、たどたどしくなってしまっても映画の音声が場を和ませてくれる。彼はそういう細かいところの配慮だったりとか、シーンに応じた雰囲気作りが本当にうまい。だから僕は勇気を振り絞ることができた。
「実はさ。芸人を引退しようかなって、思ってるんだ」
借りて来たネコみたいに身体を小さくして答えると、東野はベランダ側に置いてあるギターをヘタクソに掻き鳴らした。
「そっか。いろいろあったんやな」
彼はそう言うと、チューニングもせずに無作為に弦をはじいた。コードもめちゃくちゃで、曲を演奏しているという感じではない。本当にただ思い付くままに右手を振っていた。
「ただな、騒音やねん! 俺のギターもお前の漫才も」
映画の音響だけで十分なのに、そこに不必要な音楽が追加されたせいで不協和音になる。子どもの頃にドリンクバーの機械で作った「コーラとメロンソーダとオレンジジュースとカルピスソーダと野菜ジュースと緑茶を混ぜたやつ」みたいな印象だ。色は汚いし、味も微妙だ。
「素人の弾き語りのどこが面白いねんって話やん。そんなのプロのミュージシャンが音を奏でた方がよっぽど素敵やん。でも、誰かの心に刺さるときが必ずあんねん。誰も聞いていなくても、みんなが耳を塞いでも、たとえ少数でも、喜んでくれる人って必ずいると思うのよ」
僕はうどんのつゆを飲んだ。少ししょっぱかった。
「だからさ。まあ詳しい話はしなくてもいいけど、辞める理由によっては俺は反対かな」
タブレットの中の映画では、主人公が大爆発に巻き込まれて吹っ飛ぶシーンが映し出されていた。そこにヘタクソなギターのメロディが重なったせいでひどく滑稽に見える。音楽ひとつで、人は興奮したり、悲しくなったり、楽しくなったり、笑ったりするんだ。そんなことを思いながら肩を落とす。
クリアブルーを笑わせる。
そんなことが果たして可能だろうか。