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6.

 閑静な住宅街が立ち並ぶ一角にあるマンション。向かい側には真言宗のお寺と墓地があって、信心深い方々が何度も参拝に訪れる場所。そんなおよそ有名人とは似つかわしくないような場所にバッドセンスの東野は住んでいた。一時的だったとはいえ、テレビの帯番組を持たせてもらったり、局の冠番組のMCを堂々と務めていたりと、まさしく大物芸能人の仲間入りを果たしていた彼ならば、もっとセキュリティ対策が万全に組まれた一軒家にでもいるべきだろうと思いつつも、いつまでも庶民の感覚を忘れない親しみやすさがあるなと、僕は片頬を緩めてしまうのだった。


 先輩や同期、後輩からも「絡みにくい芸人」と称されて久しいが、実は彼自身が壁を作っていることはそんなになかったりする。周りを囲む人たちが勝手に「東野さん」「あの東野さん」と距離を置いて話すせいで結果的に絡みにくくなっているだけなのだ。それは彼が経営するオンラインサロンでのファンへの対応を見ても一目瞭然な気がする。


 去る者追わず、来るもの拒まず。

 バッドセンスの原田が職場から逃げ出したときもそうだ。

 怒ることもしなければ、追いかけることもしなかったらしい。

 それを人は「ふところが深い」とか「鈍感なだけだろ」と言うけれど、そのどちらも正確にバッドセンスの東野を言い表しているように思えた。余裕があるというか、本質を見抜いているというか。そんな彼だからこそ適切なアドバイスをくれると思ったし、仲良くなりたいと思ったのだ。


 真に人から求められる存在。


 それはバッドセンスの原田でもなければ、クリアブルーの2人でもなければ、ましてや僕なんかでもなくて、バッドセンスの東野に落ち着くのだと思う。その証拠に、芸能界から一歩身を引いた現在でもなお衰えることのない輝きを見せているのだ。


 こんな太陽みたいな存在に近付きたい。


 マンション入り口のガラス扉を押し開けると、目の前には管理人室があって、2階へと続く階段が右手に続いていた。管理人は不在にしているようでその部屋は真っ暗だった。


「芸人を続けていくべきか、迷ってる」

 そんな人生を左右しかねない重大な相談事を、相方でもない人間にしてしまっていいのだろうか。そう思うとずしりと両足が重くなって、本来ならばつまずくことのない段差でさえも危うく転びそうになる。

「ユウコには、言えない。心配かけたくないから」

 僕はきっと独善的な偽善者なのだろう。

 バッドセンスの器量の大きさに甘えているだけなんだ。なんてうつむきながら歩いていると、すれ違った住人と肩がぶつかりそうになって少し慌てた。人の目が怖い。それはステージに立ったときだけの感想ではなくなってきている。どうやらプライベートすらも侵食されているようだ。僕は存在意義をまだ見つけられないでいる。


 203号室の前に立って、息を吸い込む。

 念のために、夕ご飯も買ってきておいた。

 僕はスーパーの買い物袋を見詰めながら不安になってしまう。

 迷惑じゃなかっただろうか。僕なんかが来客で。


 思い切り鼻から息を吐き出して、インターホンに指を伸ばすと、ガチャリとつまみを回す音が聞こえた。ゆっくりとドアが開いて、中途半端な位置で止まる。「どちら様ですか」そうドアガードによって阻まれた扉の隙間からのぞく顔に、僕は笑ってしまった。


「お前、その顔。あははっ!」

「うん、まあな。テレビに出てたときとは違って、今はこんなやねん!」

「それでも動画配信サービスはやってるだろ」

「予定がない日はこんなもんよ」

「お前らしいわ」

「まあ、上がれよ」


 彼は寝起きの浮浪者みたいな髪型をしていた。

 さらにその格好は、ももひきと黒のティーシャツ一枚だ。

 本当にお金の使い方が一般の人とは違う。まさしくバッドセンス。

 相方の原田とは違って、高級車には乗らないし、高級マンションには住まないし、高級時計も身に付けていない。とことん質素で、その生活水準はいつになっても変わることがなかった。


「今はちょうどマンガを描いていたところだ」

 そうタブレットをこちらに向けてくる。

 デジタルの作画だった。

 すでに週刊誌での掲載が決まっているらしい。

「新年の読み切り枠で載せてもらえることになったからな。脱稿するギリギリまで妥協はしたくないんだ。最近だと芸人で芥川賞を受賞した防弾ベストの川端直樹が注目されているからさ、俺もその波に乗りたいんだよな」

 そう言いつつ、タブレットにタッチペンを向ける姿は漫画家そのものだった。


 僕はベランダ側に立てかけてあるギターを見て、

「そういや動画配信サービスではさ。ギターの弾き語りもやってるよな」

「おお、月額課金制のサブスクリプションも見ててくれてるのか!」

 そう東野は目をキラキラと光らせる。本当に楽しそうだ。

「漫画ばっかり描いてると腰が爆発するからな。ギターは趣味で始めた」


「毎週欠かさずにコントやってるのも凄いよな!」

 部屋干しをしている洗濯物が、ヒーターの温風で揺れていた。

「まあ、お笑い芸人としての東野のファンもいれば、漫画家としての東野が好きって人もいるだろうし、ギターの弾き語りが聴きたいって子もいれば、プライベートの姿が見たいって言う人もいると思うのよ。だからそのすべてをぶつけていきたいって思っている感じかな。全身全霊を込めたこの存在こそが芸術作品というかさ。自分を表現するための媒体がたくさんあるだけで、やっていることは何も変わっていないと思うよ」


 相変わらず、見ている世界が違いすぎる。

 僕はお笑いだけでも四苦八苦しているのに、東野は様々なジャンルで成功している天才だ。

 そんな人から学べるものなんてあるのだろうか。

 急に不安が込み上げてきた。

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