5.
木綿豆腐の水を切り、ショウガとネギ、ニンニクをみじん切りにしていく。熱したフライパンに油をしいて、ショウガとネギ、ニンニクをまな板からフライパンに移し替える。食べ物の爆ぜる音が、耳に心地よい。そこに豆板醤、豚ひき肉を加える。木綿豆腐を一口大にカットし、フライパンに投入する。水溶き片栗粉を入れてとろみをつけたら、お皿に盛り付けて完成だった。
いつもの料理。いつもの手順。
頭がぼーっとする。
学生時代の僕はクラスメイトを笑わせることに終始していた。
頭が悪いから。そのせいで存在価値を認めてもらえないから。
だからせめて、笑いの力によって、アイデンティティを確立したかったのだ。
小皿に盛り付けて味見をしてみる。
「うん。うまいのかまずいのか、よくわからない!」
みんなを笑顔にする。
それこそが僕の存在意義だった。
それなのに昨晩、クリアブルーの田中を傷付けてしまった。
僕は、何をやっているんだろう。
「たっだいまー。今日のご飯はなにー?」
フォーマルなスーツに身を包んだ彼女は、ヒールの高い靴を脱いでキッチンのドアを開けた。仕事鞄を食器棚の近くに放ると、「えー、いい匂いがする!」と胸の前で手を合わせた。これも恒例行事。そのはずなのに何だか空虚で満たされない感じがする。
「どうしたの。そんなに浮かない顔して。今日は営業もライブもない日でしょ」
「ああ、うん。何でもない」
「ギャグを披露するときは、いっつも浮き輪よりも浮いてるのにね」
「うん、そうだな」
「そうだなって、突っ込まないの?」
「今はそんな気分じゃない。それよりも麻婆豆腐を作ってみたんだ。早く食えよ」
「うん、食べるけどさ……」
炊飯器のふたを開けて、茶碗によそってあげる。
炊きたての米は、白く輝いていた。
しゃもじを濡らして米を盛り付けるのを彼女は嫌うが、たまにそれをやってしまうことがあった。
今日はそんな"たまに"の日だった。
「どうぞ」
「ありがとう」
ユウコはほとんど手をつけずに、
「で、何があったの?」
そう訊いてきた。
「実は昨日の夜の出来事なんだけどさ……」
僕が事の顛末を話し終えると、ユウコは腹を立てていた。
「いや、それはケンジは悪くなくない?」
「悪い悪くないの問題じゃない。相手の大事な物を邪険にしてしまったんだ」
「そんなことでくよくよすることないよ。むしろ相手があやまってくるのを待ちなよ」
スパイシーな香りが鼻腔をくすぐる。
「何て言えばいいんだろうな。俺は、アイツを笑わせたくなったんだよな」
「はあ? どういうこと?」
「アイツ、昔の東野みたいだからさ」
「東野さんって、バッドセンスの?」
「そう。周りからの期待に応え続けてきたせいなのか知らないけど、常に余裕がなくて、本当に辛そうなんだよ。あんなに敵を作るような発言をしてて大丈夫かなって思ってしまう」
「あのさ、それって優しさじゃないよ。その考え方、なんかムカつく!」
ユウコは頬を膨らませた。僕は頷く。
「俺の職業は芸人だからさ。やっぱりみんなを笑顔にしたいんだよな」
「格好いいこと言ってるけどさ。そんな嫌なやつは放っておけばいいじゃん」
「周囲に見放されるのって、めちゃくちゃ辛いことなんだよ」
僕はそう溜め息を吐く。
「放っておくのは、かわいそうだと思うぜ」
「自業自得でしょ。そんなの!」
「うん。アイツも笑えない芸人なんだな」
「そうだね。あー、ムカつく!」
ユウコは口の中を麻婆豆腐でいっぱいにしてから、
「その田中ってやつ、ぶん殴ってやりたい!」
額に太い血管を浮かべた。
緊張と緩和。収縮と弛緩。
お笑いと筋トレは似ている。
「なんか、俺の考えって、お笑いじゃねえ?」
「いきなり何を言ってんのよ」
「だって本来は怒るべきところで、意味不明な理由で相手を憐れんでいるんだぜ」
「確かに。バカみたいだとは思うけれど……」
「クリアブルーの漫才は完璧を追求しすぎて"緊張"だらけなんだ。逆に俺のギャグはアホすぎて"弛緩"し過ぎている気がする。つまり、俺とアイツが組めば最強なんじゃないか?」
一瞬、時間が止まった。
「それはない。だって仲悪いでしょ」
「確かに、それはあり得ないな」
クリアブルーとバッドセンスか。
バッドセンスの東野だったら何て言うんだろうな。
アイツの行動だけは、先が読めない気がする。