4.
紺色のジャージ上下に、タオルを頭に巻いた姿でバッドセンスの原田は現れた。
噴水の近くのベンチで、僕がクリアブルーの藤沢と談笑しているところに急に出てきた。
僕と藤沢はリアクション芸人よろしく、「うわー」と叫びながら背もたれのないベンチで後ろ向きに倒れた。その拍子に外灯の明かりがまぶしく見える。夜の秋空に飛翔する虫は少ないが、しかしその輝きに魅せられてぐるぐると飛び回っている昆虫は確かに存在していて、外灯がもたらす存在感は、僕というよりもバッドセンスだったりクリアブルーだったりするわけで、僕は彼らの放つスター性にあやかりながらスポットライトを浴びているに過ぎないのだと悲観的な気持ちに襲われた。
「おうおうおうおう、同期が後輩芸人とよろしくやっとるな。羨ましい限りやわ」
バッドセンスの原田は鼻の下にあるホクロを指で掻きながら、屈託のない笑顔を見せつけてきた。こんなに素晴らしい笑顔は、彼が人気芸人と呼ばれていたときには見たことがないものだった。売れっ子芸人としてテレビで大活躍していた頃の原田は、カメラの前では楽しそうに振る舞うものの目の奥に疲れが宿っていた気がする。
「初めまして。クリアブルーの藤沢です」
藤沢はすかさず立ち上がって、天然パーマの茶髪を真下に下ろした。
「バッドセンスは、僕達クリアブルーの憧れです」
僕に対しては、「ケンジ先輩、お疲れっす!」と気さくな感じで話しかけてきたのに、バッドセンスの原田にはおじぎの角度が深かった。後輩の中でも、この先輩はこれくらいの立ち位置、この先輩はそんなに立てなくても大丈夫ってランク分けがされていて、それを如実に見せつけられた気がした。
「おいおい。俺は東野じゃないからそんなにかしこまらなくても大丈夫やぞ」
「いえ。やっぱり尊敬する先輩なので礼を失するわけにはいかないっす!」
「おい。礼を失すると言えば、お前の相方はどこやねん。初対面であいさつするときは、普通コンビで来るやろ」
「相方の田中はもうすぐで来るはずなんですけど、ちょっと連絡してみますね」
藤沢はそう言ってスマートフォンを耳に当てた。
クリアブルーの僕への態度は雑だったが、さすがにバッドセンスに対してはそうもいかないようだ。
クリアブルーの田中。参謀役の切れ者だと聞く。
先輩には低姿勢だが慇懃無礼な振る舞いをし、冷静な観察力と分析力で物議をかもすことで有名だった。クールな姿勢とは裏腹に、胸の内には情熱がたぎっており、飽くまで完璧を追及するその様子には常軌を逸するところがあった。
「あれ。アイツ、電話に出ないっすね」
そう藤沢がポケットに携帯電話をしまったタイミングで、クリアブルーの田中は首を回しながらやって来た。黒のレザージャケットに短髪の黒髪、目つきは鋭く、悪びれた様子も見せない傍若無人な登場の仕方だった。
「たっちゃん。遅いよ、先輩方に失礼だろ!」
藤沢が唾を飛ばして怒鳴る。
「うん? ああ、テレビ業界から干された元芸人とテレビにも出演できない自称芸人の2人のこと?」
それを受けた田中は飄々としたものだった。
「別にいいんじゃない。ちょっとくらい待たせても、どうせ実力は俺らの方が上なんだし……」
片手にキャンパスノートを持ちながら、田中は持論を展開していく。
「これからクリアブルーの市場価値は一気に加速する。それこそバッドセンスの再来と言われているくらいだ。元芸人と比較されるのははなはだ不愉快ではあるけれど、いつまでも先輩面をしてないで、さっさと後輩に花道を譲って欲しいものですね」
「なんやと……」
バッドセンスの原田が顔を真っ赤にする。
その声音は低く、こもっている。
「それが先輩に対する態度か」
「原田さん。バッドセンスを尊敬している芸人はたくさんいますが、原田さんを尊敬している芸人なんて誰もいませんよ。わかってますか、あなたはちっとも面白くない。全部相方である東野さんが引き立ててくれたおかげなんですよ。あなたはただただ足を引っ張っていただけじゃないですか」
「たっちゃん。バカ、いい加減にしろ!」
「藤沢だってそう思うだろ。バッドセンスがテレビ業界から干された原因だって、原田さんの失踪や仕事放棄に端を発している。いいですか、原田さん。あなたには価値がないんです。生き馬の目を抜く芸能界にとって、あなたはただのお荷物なんですよ」
「テメェ、それ以上原田を侮辱したら殺すぞ!」
気が付くと僕は、クリアブルー田中のレザージャケットをつかんでいた。
静まり返った噴水の公園に、男三人の荒い息遣いだけが反響する。
「そうか、ケンジさんはギャグセンスだけでなく、トーク能力もないのか。知性がないから話し合いができずに暴力で訴えかけることしかできない。最低ですねえ、そんな芸人は笑えないですよ」
僕はカッとなって、そのまま田中を突き飛ばした。
その手からキャンパスノートを奪い取って、噴水に向かって投げ捨てる。
ページが風でめくれる。彼の努力の結晶がまぶたに焼き付く。
その凄まじい勉強量に度肝を抜かれた。
刹那の出来事なのに、僕の目にはスローモーションに映った。
僕は、最低だ。
こんなことをするなんて。
人の努力を邪険にするなんて。
僕は、僕は。
彼にとっては大事なノートだったはずだ。
それを価値のない物のように扱ってしまった。
あの、いや、違う。
目に溜まった涙に気付かれたくなくて、僕は一目散に駆けだした。
「おい、ケンジ待て!」
バッドセンスの原田の声が追いかけてくる。
「ケンジさん、すいません!」
クリアブルーの藤沢が狼狽したままあやまる。
「放っておけよ。あんなやつ」
クリアブルーの田中は吐き捨てるように投げかけた。
「ごめん、ごめん。お前の大事な物を噴水に投げちゃってごめん!」
僕の足は止まらない。
本当は踵を返して、田中にあやまりたいけど出来ない。
ふとももやふくらはぎが熱くなってくる。
「ごめん。本当にごめんっ!」
徐々に嗚咽になってくる。
「ごめん!」
そう足を止めて電信柱を拳で殴る。
痛みの感情が遅れてついてくる。
僕は赤くなった拳骨を見て、もう一度泣いた。
「ごめんっ」