3.
「ケンジ先輩、お疲れっす!」
お笑いのライブを終えた楽屋で、後輩芸人の藤沢が紅茶のペットボトルを片手にやって来た。相方はすでに帰ったのだろう。確かにこのコンビ芸人は実力もあるし、分析力や時代のニーズを読む力は卓越しているが、相方の田中はいけすかない嫌なやつだった。だからむしろ藤沢だけが会いに来てくれたのは僕にとっても好都合だ。
「相方の田中なんすけど、用事があるって先に帰っちゃいました。本当にすみません、根は良いやつなんですけどね」
藤沢は天然パーマの茶髪をいじりながら、黒縁メガネの位置を直す。
クリアブルー。というのが彼らのコンビ名だった。
その芸風は、黒革のジャケットを着た田中がボケを担当し、そこにリズムよく藤沢がボケを被せていくというスタイルだった。突っ込み不在の、独特の世界観を伴った漫才が斬新だと注目されている。今回のお笑いライブの目玉はクリアブルーだったと称しても過言ではない。
「まあ君達も大学生だから大変なんだろう。もしも人気が出たらどうするつもりだ?」
「そうっすね。相方のたっちゃんは大学の卒業資格が欲しいって言ってたので辞めるつもりはないと思いますけど、僕はネタを覚えるだけでも大変なので売れたら退学するつもりですよ」
「退学、か。肝が据わってるね」
「芸人に学歴は不要ですから」
「その通りだな」
「芸能界で生き残る覚悟はできてます。もちろん、先輩に嫌われる覚悟も!」
ぞく、と僕は背中が粟立つのを感じた。
柔和な眼差しに隠された意志の強さは本物だ。
怖い。後続の芸人を見てそう思ったのは初めてのことだった。
若気の至りというか、こうやって突っ走れるやつが成功すると思う。
同期のバッドセンスもそうだった。今はテレビ業界で干されていると聞くが、その勢いは他の追随を許さず、飛ぶ鳥を落とすがごとく先輩芸人を蹴散らしていった。その鮮烈なデビューに憧れて、芸人を志した者もいるくらいだ。クリアブルーにはそれと同等のスター性を感じた。
「ケンジさんって芸歴長いですよね。仲のいい芸人さんとかっているんですか?」
まだ事務所の養成学校に通っている藤沢には、自分みたいな若造もおっさんに見えるようだった。そうは言っても「まだまだ芸歴は浅いよ」なんて謙遜できるほどに若手でもなければ、「おう、業界のことなら何でも聞け!」と言えるほどに情報通でもない。たまのテレビ出演はローカルテレビで行われる低予算の番組だけだった。ギャラも少ないボランティアみたいな仕事。そこに命を懸けるしかなかった。
「まあ同期のバッドセンスとは仲が良いかな。とくにボケの原田とはよく飲みに行くよ」
「え、バッドセンスってめっちゃ有名じゃないですか。最年少でゴールデンタイムにレギュラー番組を何本も持っていたことで有名ですよね。おまけにMCもできるしネタも面白いし、トークをさせてもお客さんにウケがいい。まさしくうちの事務所の看板芸人だった人達じゃないですか。すごいですね!」
「すごいって言うか、俺はただ仲が良いだけだからさ」
「何を言ってるんですか。ケンジさんもすごいと思いますよ」
藤沢はペットボトルを傾けてのどを鳴らす。
「当時のバッドセンスって、一気に売れちゃったじゃないですか。それで同期からも先輩からも嫉妬じゃないですけど、そういう目で見られることになっちゃって。そんな彼らを裏で支えていたんですよね」
「藤沢、それは買い被りだ」
僕は言下に否定する。そんなことを考えたこともない。
「俺はただ、話を聞いていただけだぜ」
「バッドセンスさんと対等に話ができるだけでもすごいと思いますよ」
「それは同期だから」
「でも、他の同期の芸人さんにはできなかったことですよ」
「それはただの偶然だろう。俺じゃなくても良かったはずだ。……ん?」
スマートフォンが着信を知らせる音を鳴らしていた。
相手はバッドセンスの原田からだった。そのタイミングに驚く。
「僕のことは気にせず出てくださいよ。誰からですか?」
「バッドセンスの原田からだ」
楽屋に静寂が広がった。
僕の肉声だけが室内にこだまする。