2.
「たっだいまー。お腹すいたー」
フォーマルなスーツに身を包んだ彼女は、ヒールの高い靴を脱いでキッチンのドアを開けた。仕事鞄を食器棚の近くに放ると、「えー、いい匂いがする!」と胸の前で手を合わせた。
僕は電子レンジからプラスチックの食器を取り出しながら、「今日はカルボナーラにしてみたんだ」とラップについた水蒸気を払いながら出来栄えを確認してみる。ホワイトソースの上に載せたスライスチーズがとろけてジュワジュワと音を立てていた。チーズの濃厚な香りがキッチン全体を満たす。換気扇を止めて、食卓に黄色いパスタを並べていると、彼女も上着を脱いで椅子に腰掛けた。
僕は誰かの喜ぶ顔を見るのがたまらなく好きだ。
良かった。自分はこの世に存在していてもいいんだって免罪符を与えられたような気持ちになれるから。ひどく主観的で利己的な感情だけど、生きている理由がほしいのだ。こんなにも生きやすい世の中なのに、僕は生きる理由がないと生きられない気がする。
「あんたなんか生まれてこなければ良かった」
優秀な兄貴は寵愛され、下等な僕は見捨てられた。
幼少期のトラウマ。
僕は、無能で無価値な人間です。
そんな僕に、生きる資格を与えてください。
冷蔵庫から発泡性葡萄酒を取り出す。
食器棚から足の長い狭口のワイングラスを持ってきて注ぐ。
炭酸がパチパチと弾ける音を楽しみながら、彼女は「おいしそう」と恍惚とした表情を浮かべる。
僕は「喜んでくれてよかった」なんて満面の笑みを見せるけど、内心では「見捨てないでくれ」と強く願っていた。本業のお笑いの世界では全く必要とされていないような男だ。だからこんな慎ましい生活を送るくらいの自由は許してほしい。せめて恋人からは必要とされる存在でありたい。
「いただきます」と手を合わせて、彼女は上品な仕草でカルボナーラを口に運ぶ。ふわっと漂うチーズの香りが、ドキドキしながら見守っている僕の食欲も刺激した。「ん、おいしい!」そう目を丸くして、ワイングラスを傾けて舌鼓を打ってくれる彼女がどうしようもなく愛しく感じる。
「素晴らしいよ、コレ。お店が出せるレベルだよ!」
「ユウコ、それは大袈裟だよ」
僕はそう言ってから、パスタを巻いて口に入れた。
「うわ、本当だ! これはお店の味だ。て、自分で言うんかい!」
そうひとり漫才をして空気を凍り付かせたところで話題を切り替える。
「そういえば、俺達が初めて会ったのって、去年のお笑いライブのときだよな」
「うん、そうだよ!」
「あのとき、楽屋まであいさつしに来てくれたじゃん」
「あはは、そうだったね!」
「その当時の俺はめちゃくちゃ滑ってたけど……」
「うん」
「て、誰が今でも滑り続けるフィギュアスケーターじゃ!」
「誰もそんなこと言ってないって」
彼女は笑いながら続きを促してくる。
「それなのに、『ファンになりました! 頑張ってください』って言われて……」
「うん」
僕は目頭が熱くなってくるのを感じて、スパークリングワインで口の乾きを癒した。
て、俺は口だけを潤したいんじゃ。目元まで潤わなくていいよ、ボケ!
そう心の中で突っ込みを入れながらも、涙がぼろぼろと溢れてくるのを止められなかった。
「本当に、俺って面白くないし、常にフィギュアスケーターだし。そんなこと言ったらフィギュアスケートをやっている人に失礼だけど、これは物の例えだから勘弁してな。本当にもう滑りっぱなしで、事務所の人からもほとんど見放されてて、同期の活躍や後輩が台頭していく姿を舞台袖で指をくわえて眺めているのが関の山で、もうお笑い芸人を辞めようかなって、それは今もまた思い始めているけど、そんなときにユウコが楽屋に来てくれて、『ファンになりました! 頑張ってください』って言ってくれた日には、本当に苦しかったし、めちゃくちゃ辛いことばかりだったけど、今まで生きてきて良かったなって心から思うことが出来て、そして、あの……」
そんなとりとめのない話を、彼女は「うん。それで?」と丁寧に訊き返してくれる。
僕は膝を擦りむいた小学生のように泣きながら続ける。
「それで、あの、なんでこんなフィギュアスケーターを好きになってくれたんですか?」
「えー、唐突だなー」
「もしかしてユウコのお笑いの琴線に触れたとか?」
「ん、それはない!」
「即答すな! せめてもうちょっとでいいから悩め!」
「面白くはない。決して!」
「倒置法を使って語調を強めるのやめい! お茶を濁せ!」
「ケンジの漫才は、スパークリングワインのように純粋で濁りなく、面白くない!」
「傷口に塩を塗るのやめい。せめて敵に塩を送れ!」
「んー、面白くなかったけど」
「地味に傷付く前置きやめい! 自分が一番よくわかってるから」
「誰よりも、輝いて見えたんだよね」
「ドリルせんのかい。心をもっと抉られるのかと思ったわ」
「そこは突っ込むところじゃない」
「はい、すいません!」
「面白いかどうかはともかくとして、すごく楽しそうだったんだよね。みんながネタを披露するのに精一杯になっている中で、ケンジだけはお客さんとしっかり向き合ってて。情けなくてもいい、みじめでもいい、みっともなくてもいい。ここに来たお客さんを笑顔にするためだったら何でもやるぞっていう感じの"気迫"みたいなのがすごく伝わってきて、そこに惚れちゃったのかな」
「気迫……」
「ねえ、今はお笑いの仕事やってて、楽しい?」
楽しいわけがない。
楽しめるはずがない。
誰も笑わせられていないのに。
芸人としての居場所がなくなっているのに。
そんなことを考えられる余裕なんてない。
「私はお笑いとかよくわかんないけどさ」
ああ、疲れちゃった。
そう腰をトントン叩きながらユウコは言った。
「大事なことって相手を楽しませることだけじゃないと思うよ」
「え?」
「まずは自分が楽しむ。それを忘れてない?」
「自分が、楽しむ?」
「そ、誰が辛気臭い顔をした芸人を見て笑うのよ」
「確かに、笑えないかも……」
「根がバカなんだからさ。もっと楽しくやろう!」
「誰が大口を開けてあくびをする動物だ! て、それはカバだ!」
「うん、大丈夫。いつも通り面白くない!」
「全然大丈夫じゃねー!」
まずは自分が楽しむ、か。
僕はユウコと一緒にいるときが楽しいんだよな。
観客全員をユウコだと思って頑張ってみるか。