3-2 「やってみない?」
体で日光を受け止めている。
この病院はいつも、何故か明るい。
一体どうなってるんだろうとは思う。
聞くところによると、窓が他の病院に比べて多いらしい。
でも、それだけで少し明るい気分になるのは間違いない。
―――パタパタパタパタ
遠くからスリッパで歩いてくる音がする。
特徴的なリズム。
少し片方がわずかに詰まる音。
「やぁお待たせ、日向野さん。調子はどうだい?」
待っていたら、担当医の韮沢先生がやってくる。
そう、韮沢先生の音。
小さい頃からずっと自分を診てくれた先生だ。
「変わりないです。今日はどうされたんですか?」
今日は韮沢先生に相談したいことがあるので、ぜひ病院まで足を運んで欲しいと言われた。
先生に呼び出されるのも初めての事である。
「うん、その話は後でするから、折角来てもらったし、まずいつもの先にやっちゃおうか。」
「はい。」
いつもの問診や触診などをし、先生がパソコンでカルテを作っている音がする。
それもあっという間に5分ほどで終わったけれども。
「おまたせ。特に変わりないから、いつもと一緒ね。で、だ。」
先生がパソコンに打ち込む音が消え、キィっと椅子が回る音がする。
恐らくこちらを向いたのだろう。
「楓ちゃん、ゲームってやった事ある?」
「ゲームですか・・・?」
突然の思わぬ問いにパチパチと瞬きをしてしまう。
ゲームとは、かくれんぼとか、鬼ごっことかああいうゲームの事だろうか?
昔はよくやっていたけれども・・・。
「そう。テレビゲームの方だね。今は時代が進んで、VRていうのが出ていてね。聞いたことあると思うけれど、人間の脳に直接働きかけて夢を見せる様な感じでゲームをするんだよ。」
「ゲーム・・・。」
全然楓にはピンとこない。
隣のお兄さんが、叫びながらテレビの前でやっていた車のゲーム・・・みたいなものなのかな?
「元々、医療や軍事で開発されていたものだからねぇ。ゲームと言ってもかなりしっかりしている技術だし、健康面では何も心配がない。」
「はい。」
「でね、そのVRは医療の現場でも使われていてね。研究がされているんだけれども、その医療枠でね楓ちゃん遊んでみない?」
「えっ!?」
「でも私・・・ピアノが・・・。」
音大に入る為に今までずっと勉強してきたのだ。
学校から帰ったらずっと音楽をしていると言っても過言じゃない。
それこそ少なくとも一日6時間。
弾けるときは8時間でも9時間でも弾く。
誰でもみんな音大を志望する者がやっている事だ。
目が見えない自分は、ハンデがある分もっと努力するしかない。
ゲームなんかしている暇などないのだ。
―――自分には音楽しかないのに。
今にも手を零れしまいそうなのに。
「まずね、VRの中だと時間の進みが遅くできるんだ。」
「え・・・。」
思わぬ先生の言葉に思考が停止する。時間の進みが遅くなる?
「だからね、楓ちゃんが不安に思ってる音楽の練習なら、出来ることはVRでやってしまった方がより効率的だよ。それに、今は塾とかでもVRでやってるところが多いから、より時間を有効活用できる。」
「今、そうなんですね・・・。」
VRの話は友達から聞いたことがあったけれど、まさか世界がそんなに変わっているとは思わなかった。1日中ピアノを弾いて引きこもっていたから、浮世離れしているとはよく言われるけれど。
まさかそんなに時代に取り残されているとは思わなかった。
親も、音大に合格するまでは・・・と情報をあえて伝えていなかったのかもしれない。
「あとね。」
そっと、先生の手が自分の肩に触れた。
温かい、優しい先生の体温。
「君はVR(向こう)でなら、目が見える可能性があるんだ。」
「え・・・。」
今度こそ、楓は言葉を失った。
今まで諦めてきたもの。
父の顔、母の顔、兄の顔。友達の顔。
幼い頃の記憶しかないけれど、それが見ることが叶うのだろうか?
「楓ちゃんの場合、後天的な病気で目が見えないわけだし、色々と条件が良かったんだ。先天的に見えない人にはまだ技術的に難しいらしい。けれど、幼い頃ちゃんと目が見えていた君だと、恐らく脳が視覚を覚えているんじゃないかって。でも、100%じゃないし、やってみないとどう見えるか分からない。あくまで医療枠だからゲームで遊んでもらうついでにデータを取らせてもらって、他の患者さんの為に役立たせてもらう。その分機材とかはこちらもちだよ。」
どうかな?と韮沢先生が笑う気配がする。
「ご両親には伝えてある。楓ちゃんが望むなら、って返答は頂いてるよ。僕も無理してまで楓ちゃんに勧めたいわけじゃないけれど、ほら、楓ちゃん芸術家志望でしょ?」
「・・・・はい。」
芸術家志望と言われるとなんだかとても恥ずかしい。
自分はただ、好きな音楽がやっていたいだけなのだ。
それで生きていくためには、その道しかなかっただけで・・・。
「うちと提携しているのはね、ファルディア戦記っていう、VRMMORPGってジャンルのゲームなんだ。戦記って言うから厳ついイメージがあるけれど、ぶっちゃけ何でもできるゲームらしい。」
「何でも・・・?」
「そう、料理したり、散歩したり、それこそ音楽をしたりなんてこともできるらしい。モンスターを倒してお金を稼いだりね。僕がそんな世界にいったら、すぐ死んじゃうけど、若い楓ちゃんならきっと大丈夫だよ。」
「先生ったら・・・。」
思わずクスリと笑ってしまう。何でも小器用にこなす韮沢先生はきっとゲームでも上手くこなしてしまうだろうに、こうやって楓を元気づけてくれようとする。
「それにほら、楓ちゃん今、ピアノで悩んでるって聞いたから。ゲームの中で少し散歩してきたらどうかな?気分が晴れて綺麗なものを見て美味しい物でも食べたら、新しいアイデアが湧くかもしれないよ?」
ああ・・・と楓は思う。
韮沢先生は知っているのだ。
楓が、音楽で詰まっていることに。
もがいて苦しんでいる事に。
それでも、今にも沈んでしまいそうな事に。
いつもそうだ。
楓の周りは、いつも優しく、温かい。
少し泣きたくなる。
楓はいつもそうだ。
いつも何かが足りない。
欠けた不完全な人間なのに、いつも周りが優しい。
楓だけが、いつも、いつも何かが足りないのだ。
それが嬉しく、申し訳ない――――。
だから、音楽くらいは自分にできなければならないのに。
自分には音楽しかないのに・・・。
「どうだろうか?やってみない?」
先生が、自分を思って提案してくれた事が分かったから。
楓には断る理由が思いつかなかった。
「よくわからないですが・・・続けられるかも分からないですが、それでもいいのなら。」
それで、いつも自分の面倒を見てくれる先生の役に、少しでもたてるなら。
その時はそう思った。