わたしたち -正義と平等編ー
街に隠れた一軒の居酒屋。
特別な酒や料理は出ないが、いつも文化人気取りの俗臭たる人々が集まる。
ここでは皆店主の前で熱心に意見を交わす。
ある日サイトウはこの店に入り10分、ビールを飲みお通しをつまんでいた。サイトウは特別な仕事をしているわけではない。ただ社会への不満をここで晴らすことで自己肯定感を得ていた。
身長が高くこなれた服装をした男が入ってきた。サイトウの隣席に着くなり話しかけてきた。
「あなたは今日どういったつもりでこの店へ?」
-ここで人の話を聞くのが好き-
サイトウはそう言った。その男曰く、本書きをしているらしい。名はヤマモトという。芋焼酎の水割りを頼んだヤマモトは、さっそく飲み始めるとサイトウへ話題を振った。
「今私はね、正義と平等というテーマで本を書いているんですよ」
社会的な問題になっていることは、すべてこの話にまとまるという。サイトウはあまり興味のない話のように感じ、相槌を打ってごまかす。
[たまにインターネットで見るだろう、野球場に観戦に来た子どもたちの身長差が原因で、平等に同じ数の台を用意しても試合を見られる子と見られない子が出る。だからこそ台の数を子どもの身長に応じて分配することで、全員が同じように試合を見ることができる。これこそが正義なのです]
グラスを片手に楽しそうに話すヤマモト。話題が少し身近に感じたサイトウはビールジョッキを置いた。平等は正しいようで正しくない。正義こそが正しいのだと理解した。ヤマモトは視線を店主の手元に移す。
「話だけ聞けば正義が正しいように聞こえるでしょう。でもその正義ってやつは、一体どこからやってきたんでしょうか」
『宇宙から隕石に乗ってやってきたんじゃないですか』
そんな喉から出かかったシャレを飲み込みつつ、サイトウは質問した。
「僕はその状況こそが正義だと思うのですが、それがどこからかやってくるっていうのはどういう意味ですか?」
「あなたはイデアというものをご存知ですか?」
[イデアというのは完成された理想の姿である。古代ギリシアの哲学者であるプラトンが考えた概念だ。そのイデアというモノで構築された世界をイデア界という。赤色は、赤というイデアがあるからこそ私たちがその色を赤と認識できる]
サイトウは疑問に思った。人間の中で誰かが決めたからその色は赤であって、完成された赤色がどこか別の世界に存在するというのはどうも想像できない。自分の想像力がないだけで、他人はそう認識できているのかもしれないという可能性については、サイトウに想像力がないので思いつかなかった。
「それは昔の人の妄想ですよ。結局赤色は赤っていう概念を決めた人がいるから存在するんですよ。もしかして正義がそのイデア界からやってきた、なんて言うんですか?」
「そんなことはないですよ。あなたの言う通りだ」
ヤマモトは笑みを浮かべながらこちらを向いた。その瞳には悪魔が宿ったようだ。
「イデアは所詮理想にすぎない、とアリストテレスも批判しています。そもそも存在しないし、今のスマートフォンもイデアにあったとは考えづらいからね。僕が言いたいのは、正義というやつも結局は理想なのではないかということですよ」
[平等は理想だ。人間の長い歴史の中で、平等が成り立ったことなんてあっただろうか。確かにすべての人間が平等ならよかった。だが生物学的な差から、社会的な立場まで全く同じである人間は自分だけ。だからこそ正義が必要だ。だがイデア論から見てみれば、イデア界からやってきた平等を理想とした正義が現実に蔓延しているように感じないか。正義は人の意思が介在しなければ成り立たない。だが社会もそこに住む人々も、なぜか平等というイデアを信じ続けている。]
難しい話だ。ヤマモトは何か信念があるかのように話す。しかしその信念をサイトウは汲み取ることができない。平等も正義も与えられる側として生きてきたサイトウにとって、与える側の立場になって考えることは宇宙の真理を解き明かすことと同じだからだ。
「つまり、正義は私たちの理想から生み出されたものであるから、現実の社会には沿っていない、ということですか?」
サイトウは目線を上げながら慎重に言葉を選ぶ。その言葉を聞いてヤマモトは再び笑みを作り、サイトウにたたみかける。
「でもあなたは先ほどイデアは存在しないとおっしゃいましたよね?人間が作ったものを私たちが認識しただけだと」
『そりゃ私の意見はそうだが』
言いかけてサイトウは止まった。なんだかこの本書きが何を言いたいのかわからなくなったからだ。何を言っても言葉を返される状況が、サイトウにとって気分のいいものではなかった。
ヤマモトは急に真面目な表情になった。これがとどめだと言わんばかりの早口で、自分の意見を主張する。
[あなたの言う通りイデアは存在しない。人間が考えたものだ。しかしそれを誰が考えたのかということは問題ではなく、それを使う社会に問題があるのだ。私たちは平等というイデアがあるかのように正義を作り出すが、結局その平等は社会の中で創り出されたものだ。
その社会には誰がいる?私たちだ。今までは個人が必要とする正義が、今は社会にとって必要であるかのように見えてくる。]
最後まで聞いて、結局サイトウはよくわからなかった。
少し苛立ちを感じたサイトウは質問してしまった。
「つまりこの話の結論は何ですか?」
「わからないですか。私たちがネット上で痴話喧嘩している最近の社会問題とやらは、総じて個人にとっての正義が拡大解釈されてしまっているだけということですよ」
[正義は私たち個人から創り出される。その正義の内容について、一人一人が大切にしていればいいことまで発言してしまっては、正義の後ろにある平等というイデアまで見えてしまう。それは神の領域であり、大衆は人の域を超え神になろうとしている。]
サイトウはこの話を聞いて、ヤマモトという人間が社会を代表しているかのように感じた。今のSNSについて批判をしているのだろうし、それによって人々が変わってしまってきているということを言いたいのだろうが、どうも本書きというのは結論を先に持ってこないものだと思ってしまった。
「あなたは、SNS上で発言している人たちを気に入らないのですか?」
「そこはさすがにわかりましたか。最近社会問題と名の付く罵詈雑言が多いでしょう。私はああいうのが嫌いでね。差別と区別、平等と正義についてわかっていない奴が多すぎるんですよ」
ヤマモトはようやく理解してくれたか、とばかりに安堵の表情を浮かべ、焼酎を飲む。こういった話を小難しく解釈し、自分なりに表現しなおすことは本書きに必要な才能なのかもしれない、とサイトウも気持ちと一緒にビールを飲み込む。
「親父さんは今の話どう思いますか。私の話、いつも難しいと言われ女房にも毛嫌いされるんですがね」
苦笑しながら話しかけたヤマモトに対し、ここまで口を閉ざしていた店主は皿洗いの手を止める。経験豊かなシワを刻んだ目元を向け、優しく語りかけた。
「私はお客さんたちと違って、明確な答えってものを持っちゃいないんですよ」
「それでも、私と同じようにああいったSNS上でのやり合いは親父さんも嫌いじゃないですか?」
ヤマモトは食い気味に話す。サイトウからすれば、自分も答えを持ってはいないと言いたくなる。もちろんその場で言い返すなり、わざわざここで言わなくてもいいのにという感情はある。しかし店主は違ったようだ。
「あんまりネットは見ないんでわかりませんが、確かにお客さんの言う通り理想論で飯は食えませんよ。でもね、平等ってやつを夢見て頑張って食う飯も悪かないと思いますよ」
ヤマモトは黙ってしまった。理想論で飯は食えない。正義を振りかざしているだけじゃ社会では生きていけないことも事実だ。だが目指すことは悪いことじゃない。
サイトウは何だかいい気分になった。ビールに続いて日本酒と刺身も頼む。
ヤマモトは少し考え直したくなったのか、今日はもう帰りますねと言って会計して出ていった。それにより調子の出たサイトウは店主に言った。
「親父さんはやっぱいい人ですね」
「そんなことはありませんよ。ただね、私は言いたいことをそのまま言ってるだけじゃ、大衆の仲間入りをできないこと、知ってますから」
30分後、サイトウは店を出た。あの店には来ている人たちはみんな大衆じゃないのだろうか。そんなことを考えながら、帰路につく。
街に隠れた一軒の居酒屋。
特別な酒や料理は出ないが、いつも文化人気取りの俗臭たる人々が集まる。
ここでは皆店主の前で熱心に意見を交わす。