プロローグ
──街が燃えている。
つい先日まで平和に暮らしていた命が、理不尽に失われていく。
街を見守っていた優しい兵士達も、
元気に走り回っていた子供達も、
皆に誕生を祝福された赤子も、
全て等しく、平等に、一切の容赦なく、魔物の群れに蹂躙されていく。
この街が始まりだった。
この時が始まりだった。
後の世の者達はそう語る。
人類の敵である魔物を統べる、絶対の王。
最悪の敵対者、
『魔王』
彼の存在が動き出し、人類史上最悪の戦い、『人魔大戦』が始まったのは、この時だと。
ここはラオルート帝国主要都市、商業都市アルカナ。
人々は悪夢の始まりの場所として、恐怖の象徴として、この場所を、『始まりの街』と呼んだ……。
◆◆◆
──そんな始まりの街の片隅で、一人の少年が死にかけていた。
元々ボロボロの服を大量の血でさらに汚したぼろ雑巾のような姿で、壊れた家の下敷きになって死にかけていた。
少年は孤児だった。
ろくな食料もない貧民街で生き、空腹に我慢できない時は、八百屋から野菜を盗んだり、他人の弁当を盗んだりして、捕まればボコボコにされて、なんとか逃げてを繰り返して生きてきた。
そこに希望はない。
夢もない。
ただ死から逃れる為だけに、死んだように生きて、ここで無意味に死のうとしていた。
──だが、少年の眼は生気に満ちていた。
普段の生ける屍のような眼ではなく、この絶体絶命の状況にあって輝いていた。
その理由は一つ。
少年は、生まれての『喜び』を感じていたからだ。
少年の見ている先、小さな広場のような場所で、兵士達と一人の少女が戦っている。
少女はとても美しく、可憐で、およそ戦いとは無縁に見える。
だが、相手をしている兵士達の顔は絶望に染まり、全力で斬りかかっては、逆に斬られて死んでいく。
少年は兵士の一人の顔に見覚えがあった。
少年が何を血迷ったのか、冒険者の弁当を盗もうとして失敗し殺されかけていた時に、助けてくれた優しい兵士だ。
他の兵士達には兵士長と呼ばれていた。
激昂した冒険者3人を武器も使わずに軽く打ち倒し、さっきまでの戦いでも、魔物の群れを次々に斬り殺していた実力者だ。
そんな実力者が少女に弄ばれている。
体に薄い光を纏って斬りかかる兵士長。
少女は無駄な足掻きをする哀れな獲物をいたぶるように、少しずつ追い詰めていく。
少年はそれを見て思った。
(すごい! かっこいい!)
激痛に悲鳴を上げる体を気にもとめず、ただただ少女の戦いに魅入っていた。
かつて、貧民街の仲間が憧れと共に語っていた『英雄』という存在。
当時の彼には憧れなんて感情はわからなかった。
でも、今は違う。
少年は少女に憧れていた。
少女は少年にとっての英雄になった。
そして少年は夢を見る。
生まれて初めての夢を。
(僕もこの人みたいに強くなりたい! それで、いつか、この人を超えたい!)
心の奥底からの叫び。
魂からの欲求。
その思いは狂気の域に達し、憧れは狂愛へと変わり、少年の心に憧れとは別のもう一つの感情、『恋心』が生まれた。
物語の王子様に恋する少女と同じ種類の。
だが、酷く歪で、歪んで、されど純粋で一途な恋心が。
少年はまだ知らない。
この少女こそが人類最悪の敵、『魔王』である事を。
少年はまだ知らない。
この時抱いた憧れが、狂愛が、ただこの場所で無意味に死のうとしている少年の運命を大きく変える事になる事を。
少女の剣が、兵士長の体を真っ二つに切り裂く。
そして、その視線が少年の方を向いた。
愛に狂った瞳と、殺戮に狂った瞳がぶつかる。
少年はこれ以上ない程の歓喜に包まれた。
そして、少女は……
「面白い眼をする奴じゃのぅ……」
そう独り言のように呟いて、少年の前にやってきた。
「怒りでも憎しみでも恐怖でもない。こんな状況にあって恋する乙女のような眼をしておる。それでいて、凄まじい闘志を感じる。こんな眼をする奴は初めて見たわ!」
楽しそうに笑いながらそんな事を言った。
少年は何か言葉を返したかったが、喉が潰れたのか、肺がやられたのか、声が出てこなかった。
「うむ! 気に入った! 小童、これをやろう!」
少女は懐から、黒くて禍々しい、掌に収まるくらいの珠を取り出してそう言った。
「お主がこれに耐えられるかわからんが、もし耐えられたのならば、また会う事もあるじゃろう。
ワシは人間を根絶やしにすると決めておるから、お主を殺さないという選択肢はない。
もし生きてまた会う事があったならば、その時は全力で殺し合おうぞ!」
「では、さらばじゃ!」と言い残して、少女は去って行った。
残された少年は、一人思う。
(殺し合う……?)
「殺し合う……殺し合う……」と、少女が言った言葉をただひたすら反芻する。
声は出ないので、心のなかで。
そして、少年は答えを得た。
彼の一生を決めてしまう事になる答えを。
(そうか……あの人を殺せば、僕はあの人を越えられるんだ!)
少年は、そんな狂った結論に達した。達してしまった。
仕方がないのかもしれない。
何故なら、今の少年にとって憧れの人物である彼女の言葉は天啓にも等しいのだから。
そして、少年は折れて激痛の走る腕を伸ばして、少女が置いていった黒い珠を手に取る。
彼には分かった。
何故か理解出来た。
「これ」は、彼女が自分に与えてくれた「道標」なのだと。
少年が珠を掴んだ瞬間、珠は彼の掌の中に溶けて消えた。
直後、今までを遥かに越える、凄まじい激痛が少年を襲った。
少年は自分を襲う『愛の鞭』に恍惚とした表情を浮かべながら、少女との再開を夢見て、心を踊らせるのであった。
これが、一人の英雄と呼ばれた狂人が生まれた瞬間だった。