君より先に逝ける幸せ
私の名はオルフェ。昨日で80の歳を迎えた。
私の名はオルフェ。今日、賢者と呼ばれる存在だ。
私の名はオルフェ。明日にはこの命尽きるだろう。
安楽椅子に座り、私は過去を思い返す。
幼い頃の私は、神童であった。
10を数える頃、新しい魔法体系を生み出した。
15を目前に、数多の組織に改革をもたらした。
18を過ぎ、国の大臣となった。
人生の4分の1を超える前に、私の名は歴史の教科書に載っていた。
だがそんな事、その後の人生に比べれば些事でしか無かった。
大臣として過ごし、国内の膿を追い出していた私は、ある日奴隷の存在を耳にした。
異人種が人権を無視され、非人道的に扱われていると聞き、私はすぐに奴隷を解放するべく動き出した。
私が先頭に立ち、人々を先導し、国内の奴隷業者を一掃した。
そして、解放した奴隷の中に、未来で私の妻となる女性を見つけた。
あの頃の彼女はまだ幼く、大人の庇護が無ければ生きていく事が困難な年齢だった。
だが、そんな年齢でも彼女は見目麗しく、私は一目で恋に落ちた。
彼女が何処から来たのかも分からないと聞き、私は自分の立場を利用して彼女を自宅へ連れ込んだ。
彼女を傍に置き、私が与えられる全てを彼女に与えた。
衣食住を満たし、勉学を教え、淑女としてのマナーを躾た。
全ては、私の伴侶として相応しい女性とする為に。
それから彼女を娶るまで、様々な事があった。
魔王が現れ、異世界から勇者を召喚し、彼女を連れて勇者と共に旅に出た。
彼女が絶滅したとされる長命種、その僅かな生き残りで、自国を含む数多の勢力に狙われた。
魔王に彼女が拐われて、助け出し、彼女と互いに思いを伝えた。
魔王との決戦前に、彼女が私の子を身籠った。
魔王を倒し、元の世界へ帰る友からロリコンと呼ばれ意味を問い質し歴史に残る死闘となった。
全てが終わり、友がいなくなってから、私は彼女を妻に迎えた。
そこから先の私の人生には、常に彼女の存在があった。
公私両方の面で私を支え、共に歩いて来た。
そんな彼女と、別れを迎える事になるのだ。
子も、孫も、ひ孫も。私がまだ死ぬとは思っていない。
だが、自分では分かっている。もう、私の命は尽きようとしていると。
彼女はそれを察してか、少し前から片時も私の傍を離れようとしない。
傍目には、この歳でも仲睦まじい夫婦に見えているのだろう。
「……ディー」
瞳を閉じたまま、隣に立つ彼女の名を呼ぶ。
「なぁに?」
長命種の彼女は、出会った時から少し育ちはしたものの。
60を過ぎても、今なお10代のような美しさを保っている。
「……今まで、ありがとう」
言葉を喋る事も億劫になってきている。
「それ、もう100回は聞いたよ? ……それに、いつも言ってるでしょ? お礼を言うのは、私だよって」
クスクスと笑う彼女の声は、いつ聞いても心地良い。
「何度言っても足りんよ。君がいなければ、私は志半ばでいつか死んでいただろう」
「それ、本気で言ってるの? 私がいなくても、あなたは大丈夫だったよ? だって、あなただもの」
後ろから、彼女に抱き締められる。
彼女の優しい匂いが私を包んでいる。
「ディー。君のいない世界へ、私は旅立たねばならない。私はそれが怖い。君無しで、私は平気なのかと」
手を伸ばし、愛しい彼女の頬に触れる。
「大丈夫だよ、私の大好きなあなたは、例え一人でもきっと生きていけるよ。……だから、私が行くまで待っていて?」
頬に触れた手を、そっと握り返される。
「私は自分がそこまで強い男だとは思っていないよ。君がいなければ生きていけない」
「もう、そんな風に弱音を吐いてたら、勇者様に笑われちゃうよ?」
「あの男は私の顔を見る度に笑っていただろうが」
彼女の方へと振り返る。いつものように、彼女の笑顔がそこにある。
「大丈夫だよ、あなた。……昔のように、向こうでも皆の為に道を作って。あなたが手本となって、皆を導いてあげて。その為の準備を、してあげて」
「あの頃の私は若かった。だが、今はもうダメだ。情熱も、野心も、既に枯れてしまった」
彼女が回り込んで、私の正面へと立ち、私に抱き着いてくる。
「……もう、それ以上弱音を吐かないで。あなたがそんな風に怖がっていたら、私まで怖くなっちゃう。あなたのいない未来を、私はずっと生きなきゃいけない。あなた無しの人生を、私は耐えられるか分からない。だから、お願い。私の為に、強くあって」
服に顔を埋め、泣きそうな声で彼女は私に訴えてくる。
……そう、そうだ。彼女は長命種だ。私が死んだあと、彼女は私と共に生きた年月よりも遥かに長い月日を、私無しで生きねばならないのだ。
私の人生に、常に彼女の存在があったように。彼女の人生には、常に私があった。
そんな私が死に怯えていては、彼女は生に怯えてしまう。
ならば。私は笑って、目の前の死を受け入れよう。
それが、彼女よりも先に逝く、私が彼女にしてやれる最後の事だ。
「すまない、ディー。弱い私を許してくれ。もう大丈夫だ。もう、死は怖くは無い。」
彼女の頭を撫で、優しく声をかける。
「いつか君が来る日まで、私は死の世界で君を待とう。この世界でそうしてきたように、向こうの世界を作り替えよう」
死の恐怖は、既に無い。それよりも、死後の世界で為さねばならぬ事ができたから。
「君より先に逝き、君の為に生きて待つ。死んだ人間でも、誰かの為に生きる事ができる。こんなに幸せなことは無い」
「あなた……」
顔を上げ、涙を拭いながら微笑む彼女の頭を、私は出会った時のように優しく撫でる。
ディーと唇を重ね、想いを交わし合う。
今の私には、遥か昔に魔法を極めた時のように。組織を改革した時のように。国を導いた時のように。魔王との戦いに赴いた時のように。
心を燃やす情熱が渦巻いている。
翌日、私はディーに看取られて息を引き取った。
彼女は、最後まで笑っていてくれた。
心には、彼女の笑顔がいつまでも残っていた。