退屈な午後
退屈になると、私は氷をかじる。毎日、果汁に浸した氷を含んで、思い切り歯を突きたてると爽快な気分になる。氷が口の中で砕ける瞬間を、私は愛している。異物が自らの力で破壊されて無数のかけらとなり、やがては溶けて自分の体を浸透しながら通り抜けていくのだと思うと、この退屈が紛らわされるほどの快感を得られるのだ。
退屈だ。私はいつでもそう思っている。働かなくても十分に生きていける環境にいる私は、することがない。部屋は掃除しないし、勉強もしないし、親しく行きかう友人もいない。退屈だ。だけど私は何をしようともしない。
退屈は人間を腐らせるだろう。粗末なベッドの上で大の字になって、私はそう思っていた。人は日に日に腐って、いつか人としての自己意識を奪われて、ただの人形となるのだ。誰もがそうであるに違いない。だって彼らは懸命に歩き、話し、食べ、活動している。皆退屈が怖いのだ。私のようになるのが怖いのだ。
不意に、小さな羽音が聞こえた。私は首だけをひょいと持ち上げた。私は窓にはめこまれた障子を見つめた。障子紙は枠ごとに全て違う色の和紙で、ステンドグラスのように、四角い模様と色で部屋を飾る。これは私が唯一やった部屋のアレンジだ。この八畳の畳部屋には古い文机とベッドしかない。
「ハナエちゃん、障子を開いてちょうだい。私、お部屋に入りたいの」
枠の一番下、緑色の障子紙のところに小さな影が見える。私は枕もとのコップから氷を一つ口に入れた。それをがりがりかじっていると、声は甲高くなった。
「また氷を食べてるの? 入れてちょうだいったら」
私は象のようにゆっくりと立ち上がり、沈香の煙が白く漂う部屋を横切った。まだ青い畳がペタペタ鳴る。氷はあっという間に溶けて舌に染み込んだ。窓にたどり着いてから手をかけるだけで軽い障子は簡単に開いた。この子はこんなに軽いものも開けられないのか。それは当たり前なことなのだけれど。
鈍色の冷たい空を背景にして、一羽の文鳥がそこにいた。小さな体を縮め、とんとんと跳ねながら私の部屋に入ってきた。白い羽を羽ばたかせ、軽々と体を運び、私の肩に乗る。重みを感じて、私はああ、カナコだ、と思った。
「どうして逃げたの」
私はカナコの首を撫でながら尋ねた。薄桃色の大きなくちばしはすぐに開いた。
「だって退屈だったのよ。ハナエちゃんはかまってくれないし、その上私を置いていつの間にか出かけてたでしょう。私、この部屋でずうっとぼうっとしてたのよ。ぼうっとすることって良くないのよ。頭の中が不明瞭になって、自分の体がものすごく客観的に見えてくるの。あら、これは何かしら。誰の体かしら。羽根がだんだん不思議なものに見えてきて、どうしてこんなもので私は飛べるのかしらって思えてくるのよ。怖いじゃない。今までこれを使って平気で飛んでいたのよ。奇妙よ。不安よ。恐怖よ。
そんなことを考えていたのよ。ハナエちゃんが私を一人にするから。だから鳥かごの落とし戸をくちばしで持ち上げて、体をくぐらせたの。障子は開いていたわ。色紙を通さない健康な日光が窓から覗いていたの。素敵だったわ。だから私は外に飛び立ったの」
カナコはそれだけ言うと私の肩から飛び降りて、文机の上に乗った。私はカナコを追って傍にある座椅子に座った。
「で、今日の私はどうだった?」
私が静かに尋ねると、カナコは動揺して動かなくなった。
「知ってるのよ。今日ついて来てたでしょう」
「それは、そうだわ」
「どうしてついて来てたの?」
私はカナコの小さすぎる頭をそうっと撫でた。カナコは身震いをして私を見上げた。真っ黒な目だった。吸い込まれそうな色だ。
「ハナエちゃんと同じよ。外に行ってもやっぱり退屈だから。だからついていったの」
退屈は私だけではない。当たり前だけれど。カナコは無表情に続ける。
「今日のハナエちゃんは川べりの、段差になった花壇のふちに座ってレースを編んでたわ。あの、いつまでたっても仕上がらない大きな青いレース。ハナエちゃんは、とってもつまらなそうにそれをやっていたわ」
私は午後になると川原に出かける。河川敷には芝生が敷かれていて、清潔で広い。この辺りでは公園代わりになっている場所だ。お互いにぶつかり合う涼やかな水の音が常にしていて、川原の上の世界よりも冷たい空気がひっそりと漂っている。明るくて暖かい日光が私に照りつけてくるのだけれど、ちっとも暑くない。川べりに吹く風は、とても冷たくて優しい。
私はひざ掛けほどもある大きな丸いレースを広げ、ひたすら編んでいた。つまらなくはなかった。つまらないことをしているとは思っていたけれど。
このレースはコースターにもならないし。ドイリーにもならない。何にもならない。ただの退屈しのぎだ。だからこの編み物は、ただただどんどん大きくなっていく。退屈が凌げればいいのだ。それさえできれば退屈の恐怖から逃れられる。もしかしたら、このレースは私の退屈そのものなのかもしれない。
私は魔法瓶に詰めていた大きな氷を取り出して口に入れた。新品の氷は舌に張り付き、無理にはがすと私の舌の表皮ごと外れた。かじるたびに私の皮膚が口の中を回る。何だか愉快になってくる。
厄介なピコット編みに苦心しているときだった。黒電話を真似た音で携帯電話が鳴った。あいつだ。すぐに分かった。
「もしもし」
電話に出ると、相手はうれしそうにしゃべりだした。
「君、今どこにいるの。家にはいないみたいだけど」
「もう掛けてこないで。そう言ったはずだけど」
「今日は朝からずっと君の部屋を見ていたんだ。あの障子紙、厄介だよな。中が良く見えないんだ。君が出かけるとき、開けていったから君の小鳥が飛んでっちゃったよ。いいのかな。まあ、小鳥だもんな。また買えばいい。
まあとにかくさ、今日僕は君を見失ってしまったわけだ。どこにいる? 教えてくれれば後で猫をあげる。二十万したペルシャだ。君が喜ぶだろうと思ってさ」
「もう電話しないで」
そう言って電話を切った。そしてばらばらになってしまったパプコーン編みをやり直すことにした。しかしすぐに電話はかかってきた。
「何?」
「僕の精液をあげる。だから電話を切らないで」
私はまた電話を切った。電源も落とした。きっとあいつは何度もつながらない電話に掛け続けるだろう。そして私をどこまでも探すのだ。
私がまたレース編みに戻ろうとすると、激しい息遣いが聞こえてきた。先ほどから橋の下でいちゃついていたカップルが、最後の段階に達したのだろう。湿っているだろう芝生に横たわり、服を着たままで交接を繰り返していた。私が見えないのだろうか。見えていてやっているのなら、それはとても愚かな行為だと思う。
だって、お前たちは獣になったのだ。醜怪なけものだ。
女の方の繰り返される声も甘ったるくて気味が悪いが、もっといやなのは男が何度も女の耳元にささやきかけているその声だ。女を更に悦ばせようと卑猥な言葉をつむぐ。とても不気味だ。自己陶酔の世界に入った人間を見ているのが怖い。自分は素晴らしい場所にいるのだと信じている彼らが怖い。どうしてそんなことを信じられるというのだ?
『私が男好き? あんたが処女だからそういうんでしょ。私が誰とやろうが、私の勝手よ』
私は音を立てずにレースを畳み、小ぢんまりしたバッグに詰めて、川原を離れた。背後から川の流れる静かな音と、女のあえぎ声が聞こえる。香水を買おうと思っていた。それも、強すぎて失神しそうなくらいの麝香の香水を。
コンクリートの階段を上がって雑然とした住宅街に出てみると、気温が高くなっていて、そのせいか私は気分が明るくなった。ここは安全だ。人のセックスなんて見なくていい。私は一つも不安にならなくて済む。背伸びをしながら見上げると、心臓の形をした赤い風船が、誰かの手から逃れて空を漂っていた。
歩道の上で、子供たちがアルマジロでサッカーをしていた。丸くなった、茶色くて大きな生き物は誰のものだろうか。図体の大きい少年に蹴り飛ばされ、僅かに転がる。そしてへばって体を広げる。そこに少年たちが群がって背中を蹴る。するとアルマジロはまた丸まって、身を守ろうとする。
この子供たちの残酷さはどこから来るものなのだろう。大人なら躊躇することを、彼らは平気でやってのける。不思議だ。不思議だけれど、何てひどいことを、という憤怒の情は湧いてこない。時々思うが、私はまだ子供のままでいるのかもしれない。退屈なのは、ちゃんとした子供でもなく、ちゃんとした大人でもないから、相応しい遊びが見つからないせいなのだ。私は、中途半端な世界にいる。ここを抜け出せる手だては、無いものだろうか。
少し行けば今度は少女たちがお葬式ごっこをやっている。男の子が殺してしまった解剖された蛙、巣から落ちた雀の雛、踏み潰してしまったバッタ。彼女たちは植物のない植木鉢の土の中にそれらを詰めて、宗教なんてものを一つも分からないで十字を切る。アーメン。
彼女たちの優しさもまた、理由のはっきりしないものだ。もちろん彼女たちも子供の一部で、残酷ではあるのだけれど、度々こういった優しさを見せる。だけど私は分かっている。昔は少女だった私は、彼女たちが繊細なのではなく、一瞬の気まぐれな親切心に翻弄されているだけだということを知っている。
私は少女だった頃から少年と少女が嫌いだった。彼らは群れを成すのが得意で、集団であるほど強い態度を取った。優しさも残酷さも集団で行われた。私は一人で蟻の巣に水を注ぎ込む、一人ぼっちの転校生が好きだった。私は彼女を見つめて、いいものを見つけたような気がしていた。だけど彼女はすぐ、いなくなった。集団という嘘、友情という嘘の中に溶け込んでいった。私は寂しさに打ち震えた。
あなたは嘘に生きるのですか。私を置いていくのですか。
その時、女の子の一人が叫んだ。
「やだ、見て」
少女たちが顔を赤らめながらキャーっと叫んだ。犬屋敷と呼ばれる粗末な家の玄関外で、白い犬の上に茶色い犬が後ろから覆いかぶさっていた。上に乗った犬はリズミカルに腰を振り、巻いた尻尾が揺れていた。
「交尾してる」
すると少年たちがサッカーを止めて駆け寄ってきた。私は彼らが通り過ぎていく時の風を浴びて、とても不安になった。人間の匂いがする。なりかけの人間の匂い。数年後にはセックスをする人間の匂い。
子供たちは輪になって犬の交尾を眺めていた。とても楽しそうだった。ちょっかいを出したり、つぶさに観察したり、この交接を滑稽なものとして見ていた。
私はというと、冷静にこの光景を眺めていた。私は歩きながら子供たちの周りを迂回して通り過ぎ、ついでに犬の頭を順番に撫でた。彼らは必死な顔をしていた。笑ってしまうくらいに。
交尾する犬の頭を撫でる私を、子供たちは警戒心をみなぎらせながら、それでも面白そうに見ていた。私は彼らの目にどう映っただろう? だけど知ったことではない。犬の交尾は、滑稽ではあるが美しい。それが分からないなら、彼らはやはり子供だ。
しかし、犬のセックスを許せても、何故私は人間のセックスを許せないのだろう。
私は子供たちの視線を浴びながら、繁華街への道を歩いていった。
アーケード街は混んでいた。息苦しいくらいに人間の匂いがした。息の匂い、足の匂い、汗の匂い、経血の匂い。頭痛を抑えながら歩いているうちに、いやなものを見つけた。
「待ってたよ」
下着店の入り口に、あいつはいた。やせていて、背が低くて、額が狭い、そして蛇のようにしつこい、私のストーカー。私はこの男を見るたびに背筋が凍る。この男の目的ははっきりしている。はっきりしているからこそ私は避ける。私は用もないのに下着専門店に入った。すると驚いたことに一緒に中に入ろうとするのだ。
「下着店だけど」
「彼氏が一緒に入るくらい……」
あいつの手が私に伸びる、その瞬間に私は逃げた。ドアにぶつかり、人にぶつかり、あいつを置いて走った。アーケードは長く続いていた。怪訝な顔で振り向く人々をよそに、汗がじわじわと湧いてくるのもかまわずに走った。横断歩道を渡り、食べ物屋の続く道に入った。ラーメン屋の生ぬるい湯気が顔に被さってくる。飲み屋が連なっているが、昼間だから誰もいない。ここで捕まったら、あいつに捕まったら、セックスしなくちゃいけない。そんなことを漠然と思った。
幸い、あいつは追ってこなかったようだ。私はゆっくりと、こわばった足を揉み解しながら歩いた。しばらく歩くと服屋やアクセサリー屋が連なる通りに出た。ほっとした。女ばかりだ。しばらく歩くと、靴屋と服屋の間に、ピンク色の外壁の小さな店が見つかった。
店に入る前からむっと甘い匂いがしていた。ドアは始めから開いており、安売りのティーン向け香水が脇のワゴンに並べてあった。中に入ると匂いはますます強烈になり、女の匂いも濃くなった。初めて入る香水店だが、品揃えはよさそうだった。
麝香の香水が欲しかった。思い切り強くて下品だと感じるくらいが丁度いい。何故そんなものが欲しいのかが全く分からなかったが、私はどうしてもそれを身に付けたかった。
ブランド物の高い香水から見ていく。形は様々だ。シンプルな瓶、四角い瓶、丸い瓶、ハート型の瓶、シュールな形の瓶。形と共に、様々な色がある。対象年齢が高くなるほどに、瓶の色は透明になっていくような気がした。でも麝香の香水は、毒々しい色の瓶に入っているのに決まっている。強烈な甘い匂いをさせて、主張しているのに違いない。
思い出してみれば、あの匂いは誰かがつけていたものだ。とても美しくて上品な、左手の指が一本だけ無いあの少女。『いい匂いでしょ』私は清潔な彼女のその匂いを敏感に嗅ぎ取り、どきどきしながらも違和感を覚えていたことを覚えている。
何故、そんな匂いをつけるの? 汚いよ。止めてよ。
私は子供のころ、雑貨屋の香水コーナーであれが麝香の香水の香りだと知った時、欲しくて仕方なくなった。彼女の香りを身に付けたかった。彼女のようになる。いや、――彼女になる。
だけど今は違う。私は彼女のようにはならないと決意している。だけど麝香の香水は探す。矛盾している。何故か、分からない。
香水はなかなか見つからなかった。今は春で、薄着になってきているから麝香のような強烈な香りは置かないものなのだろう。店内も花や果物の香りばかり漂っている。
瓶に詰めた脱脂綿の香りを次々にかいでいる時、新婚らしい夫婦がいた。お互いに体に触れ合い、性的な視線を交し合っている。私はこういう夫婦を見ても、他の人のように幸せになることができない。気味が悪い。そう思うのだ。
『あなたはできないものね。普通の人ができることを、あなたはできないものね』
不意に甦った台詞。私は胸がうずいた。かいでいる香水の香りが分からなくなるくらいの苦しみだった。
「ねえ、何をそんなに一生懸命探しているの」
話しなれた幼い声が耳に届いた。子供が話しかけたのかと思って辺りを見回したが、誰もいなかった。夫婦に取り残されたベビーカーだけが、目に付くものだったが――。
「何を探してるの」
髪の毛も僅かな、瞼の腫れた丸々とした赤ん坊が私に尋ねた。
「……麝香の香水」
赤ん坊はニヤニヤ笑った。
「フェロモンの香水かあ。何に使うの」
私は口を結んで首を振った。何のことだか分からない。それにこんなに小さな赤ん坊と会話することが、とても奇妙なことに思えた。
「僕のこと変に思った? 大丈夫、僕は天才児なんだよ。何だってしゃべれるさ」
赤ん坊は相変わらずニヤニヤと笑いながらそう言った。
「ねえ、僕は母のお腹の中にいるとき、とても期待していたんだよ。外はどんな世界だろうって。君は覚えていない? あの期待感」
赤ん坊は丸々とした小さな手で自分の頭を撫でる。あどけない表情だ。
「だけど残念だったなあ。僕は失望したんだよ。この世界に。皆愚かなんだもの。馬鹿と馬鹿が作った世界に、この僕が住んでいられると思う? 僕は大人になっても他人にぺこぺこしないし、言うことを聞かないし、女房とセックスするために目配せをしたりしない。でもそこまで徹底してやっても不満だろうなあ、と思う」
彼の両親が近づいてきた。私がベビーカーにかがみこまずにじっと立って彼らの子供を見つめていることが、不安に思えたのだろう。母親が私を睨んでいる。
「聞いたんだけどさ、僕は英才教育を約十年受けなければならないらしいよ。だからその前――二歳くらいの時かな――自殺しようと思う。手段は考えてある。自殺には見えないやり方だ。新聞には載らないよ。だから君も知りようが無い。だけど僕は他人に人生を操作されたくないんだ。フェロモン香水もつけたくないよ。
さあ、君はどう思う?」
そこまで聞いたところで、彼の母親がベビーカーをひったくった。彼はぐらぐらと体を揺らしながら、無邪気そうにニコニコ笑っていた。二人の大切な天才児は、両親の程度に合わせて、母親の買った香水をいい匂いだね、と褒めたり、父親にパパは優しい夫だね、とおだてたりしていた。両親たちはそれがとても誇らしいようだった。周りの人々は珍しげにそれを見ていたので、母親はますます興奮気味に赤ん坊に声をかけた。
去り際に、赤ん坊は私に手を振った。じゃあね、バイバイ。そう聞こえた。彼の声は耳に残った。頭の中をこだました。
手を夫婦と赤ん坊が去ると、店内は静かになった。あの天才児は、この店にはちょくちょく来るらしく、店員は淡々と接客を続けていた。ただ、一人の中年の女が彼らの後姿を羨ましげに見つめていた。
結局私は胡蝶蘭の香りの香水を買った。あの赤ん坊が言ったことのせいかもしれないが、実際見つけた麝香の香りが思い出以上に強烈すぎたということもある。見つけた瓶は紫色で、匂いは動物の匂いだった。買わなくてよかった。私は胡蝶蘭の涼しげな香りに満足して、大通りに向かって歩いていった。
大通りの交差点でも、お葬式ごっこは行われていた。少女たちは手を合わせ、目の飛び出した猫の死体を街路樹の根元に置いて、そこを祭壇にしていた。猫の顔はつぶれていて、腹部から腸が飛び出していた。この気味の悪いものを、少女たちは静かに拝んでいた。私は顔を背けながら歩きだそうとした。
その時突然、私は手が千切れるような錯覚を起こした。気がつくと、私のバッグは手から離れていた。小柄な少年の走る背中が見える。手には胡蝶蘭の香水の入った私のバッグが握られている。スリだ。私は追いかけた。そばにいた男が彼を捕まえようとしたが、少年がすばしっこすぎて彼には無理だった。私は追った。他の人々も追った。だけど結局、少年を捕まえることはできなかった。
今日は妙に退屈しない日だ。私はそう思った。
家に帰ると、私はくたくただった。だからベッドに大の字になって、沈香の落ち着いた甘い香りをかいでうとうとしていた。財布には数千円しか入っていなかったけれど、様々なカード類があの中にはあった。編みかけのレースもあった。諦めがつかないものが多すぎた。
私は確信していた。あれも子供の遊びの一つなのだ。子供の遊びは無邪気で残酷だ。そのくせ妙に計算高い部分がある。あれはちゃんと目的があってやったことだ。私の金は彼らのものになるだろう。そしてゲーム代にでもなって消え去るだろう。つまらないものだ。子供自体は、私を退屈させないが。私は新しく氷をかじった。
ああ、退屈だ。子供が欲しい。
突然、そんな思いが起こった。私自身、びっくりした。子供を手に入れて、私はどうするのだろう。あんなスリごっこや大人顔負けの嫌がらせに満ちている彼らを手にして、どうなるというのだ。
『だって、退屈がまぎれるもの』
彼女がいつかそう言った。確かにそうだ。だけど――私はセックスがしたくない。獣になりたくない。あえぎ声を出したくないし、異物を体に入れたくない。
子供は欲しい。だけどセックスはしたくない。
忙しい考えを頭の中で泳がせながら氷をかじっていると、そこにカナコが帰ってきた。緑色の障子紙に影が映っている。彼女に相談してみたらどうだろう。私は口の中に冷たいものを含みながらのろのろと象のように歩き、色のうるさい障子へと向かった。
「ほうら、私は一つ残らずハナエちゃんのことを知っているのよ」
語り終えると、カナコは自慢そうに胸を張った。私はゆるりと微笑むと、カナコの頭を撫でた。
「でも、考えていることは分からないでしょう?」
カナコは不安そうに体をあちこちにやった。
「どうしたの。ハナエちゃん。スリにあったこと? ストーカーのこと? 赤ちゃんのこと?」
「本当に全部知っているのね。ううん。私、子供が欲しいと思って」
私がそう言うと、カナコは金切り声をあげた。
「何言ってるの!」
「だって、欲しいものは欲しいんだもの」
私は口を尖らせた。カナコは興奮気味に小さな翼を羽ばたかせた。
「嫌よ。私ハナエちゃんがセックスをして、子供を生むなんてこと絶対に嫌」
カナコは本当に悲しそうだった。だけど私は鼻で笑った。
「セックスなんてしないわ」
「じゃあ、どうするの」
カナコが私を凝視する。
「子供は、市役所で貰ってくる」
「市役所?」
「保存してある胎児をもらえるのよ。良いでしょ」
「それって……」
「そういうこと」
それきり黙って、私は布団にもぐりこんだ。カナコは言葉を失って、しばらく文机を離れなかった。呆然としているようだった。しかしやがてぱたぱたとささやかな羽音をたてて、卓袱台の上の鳥かごへ入っていった。私はそれを見てから、電灯の灯りを消した。まだ七時だった。
「私、今日も空を飛んでいたいわ」
次の日の昼食の後のことだった。カナコが言うので、私はすぐに障子を開いた。紙のステンドグラスは、強い太陽光に圧倒されて色が薄れた。さっぱりとしたやや冷たい風が吹き込んできた。カナコは飛んでいかなかった。ただかごから出て、卓袱台の上にとんと乗っただけだった。
「行かないの?」
「ハナエちゃんは行かないの?」
私は身分を証明するものを探していた。しかし昨日盗まれてしまったバッグに全て入っていたらしく、一つも見つからなかった。自動車免許証も、健康保険証も。私は初めてあの子供スリが憎くなった。激しく憎んだ。私の邪魔ばっかりする。奴らは、私が子供のときから私に思い通りにさせてくれない。
私は仕方なく、保険証を発行してもらうために市役所に向かうことにした。そのついでに子供を貰えばいい。
私が襖を開いたのを確認すると、カナコは意を決して窓から飛んで行った。身軽なカナコは、とても美しかった。私は窓から体を乗り出した。今日もいい天気だった。水色の空を、ちぎれ雲が苛立つくらいのんびりと流れていた。
私は魔法瓶の入った黄色いバッグを提げ、氷をかじりながら、美術館に向かった。別に何の用事も無いのだが、子供をもらう前に、なんとなく何か変なものを見てみたかったのだ。
広い玄関に入った瞬間、私は圧倒された。天井まで届きそうな巨大な青いオブジェが目の前にあった。木でできていて、人間の形を意識しているような気がする。よく見れば、手もあり、足もあり、頭、というより球体がある。しかし、球体は三つあり、大きな一つ以外は腕の位置にある。どうやらこれは人間ではないらしい、と思って説明書きを見たところ、これは『親子』という題名で、人間だという。
ずいぶん奇形な家族だ。べったりとくっついて、離れようとはしない。この子供はきっと集団に溶け込めないだろう。子供らしい感情を持ち得ないだろう。私と同じように。私が子供を持つなら彼らくらいの奇形な関係になりたい。くっつきあって、依存し合うのだ。
そんなことを考えていると、視界に幽霊のようなものが映った。誰かが私の斜め後ろをすっと通り抜けていったのだ。振り返ると、彼女はじっと床を見ながら歩いていた。十七歳くらいのとてもきれいな少女で、筋の通ったやや高すぎる鼻を床に向けて、少し腰を曲げた姿勢で進んで行く。手には白い毛糸玉を持っていて、彼女の長い栗色の髪が絡みこんでいた。私は彼女を目で追った。彼女は大分大きくなった毛糸を地面から巻き取りながら、美術館の玄関を出て行った。
「手伝おうか?」
私は思わずそう言った。少女はそれを無視して、歩道に続いている真っ白な毛糸を巻き取っていた。
私は玄関を出て彼女を見つめた。とてもか細くて、とても挑発的な格好をしていた。黒の胸元の開いたTシャツと、お尻がはみ出しそうなショートパンツ。もちろんセックスの匂いがぷんぷんした。私の苦手とする女だった。しかし私は彼女と話がしたかった。
「こうやってね、巻き取ってるのよ」
彼女が私に話しかけた。私たちはずいぶん遠く離れていたので、私が彼女を追って、横に並んだ。彼女は毛糸を巻き取りながら歩いた。よく見ると毛糸は歩道の上にどこまでも続いている。
「毛糸を?」
「馬鹿」
彼女はけらけら笑った。しゃがれた声だった。
「地面を巻き取ってるのよ」
「そう」
「地面を巻き取るということはつまり、地球を巻き取るということなの。もうなくなっていいんじゃないかって思うのよ、ここ」
「へえ、じゃあ地球は大分小さくなったかしら」
「いいえ。大きくなるばかり。いつか膨張しすぎて破裂するんじゃないかしら」
「それも良いんじゃない?」
「駄目よ。私が私の手で、少しづつすり減らしていくんじゃなきゃあ」
「そうね。ところで、私、子供を持とうと思うのだけど、どう思う?」
私は一種の実験的な質問をした。彼女はどう返してくるだろうか。少し期待した。彼女は黒々と化粧した目できょとんと私を見た。
「良いんじゃない?」
「あ、そう」
私は肩透かしをくらった。
「子供なんてさ、あんたみたいな病的な女に育てられちゃえばいいのよ。愛しすぎてぼろぼろにしてしまうようなタイプよね。あんた、病気でしょ」
私は少し考えて、答えた。
「そうね。きっと病気だわ」
「気にすること無いわ、私も病気だから」
「何の病気?」
それを聞くと、彼女はにやりと笑った。毛糸玉をぽんぽんと下腹部にぶつける。
「セックス狂って病気」
私は吐き気がした。それでも我慢をした。
「私、毎日セックスするの。理由は分からない。多分男たちが毎日セックスしたがるからよね。それに時々お金をくれるから。
頭からつま先まで舐められて――変なところを舐めるのが男は好きだけど、耳を舐められるのが一番嫌だわ。歯を磨いてない奴に息を吹きかけられるのなんて最悪。おえっ。買ったばかりの化粧水の瓶を突っ込まれたり、洗ってない相手の体を舐めたりするのも嫌。化粧水を使いたくなくなるし、口の中に残ったつばを飲み込めなくなる。
だけどあれだけは好きよ。男のあれを入れられること。気持ち良いから。あんたもそうでしょ。乱暴に入れられるほど陶酔できるでしょ」
私は彼女をひどく嫌悪していた。こういう話を一本調子に、平気な顔で続けられることに驚いた。彼女はそんな私に気づいたらしく、口を斜めにしてこう言った。
「大丈夫。もう飽き飽きなの。うんざりしてるのよ。セックスはもういや。第一体力も精神力も消耗するのよね。病気はうつされるし、毎日毎日体が汚れていくのが分かる。それに何回堕胎したか分からない。ほんとに……」
彼女は泣き出した。私はそれを無表情に見つめていた。彼女の足は止まっていた。彼女は大きな毛糸玉を抱きしめながら号泣していた。黒い涙がポツポツと落ちた。
「セックスなんてもうしないわ」
「私もしない」
「子供も欲しくない」
「私は欲しいわ」
彼女は汚れた顔で私を見た。醜い黒い模様が頬にできていた。
「市役所で?」
「ええ」
「なら、私が堕胎した赤ん坊、貰ってくれない?」
「いいわよ」
彼女は微笑んだ。私はぎこちなく笑った。彼女は子供を欲しくないが私は欲しい。この約束が成り立つなら、それはとても丁度いい。私は彼女のことが少し好きになった。彼女も同じ気持ちでいてくれているような気がした。
「ユリエちゃんじゃない」
不意に声がした。気持ち悪い声、そう思った。中年の男が私の背後から彼女に話しかけている。いやらしい笑顔を浮かべて。
「久しぶり」
ユリエは作ったような明るい笑顔で男に擦り寄った。媚びた猫みたいに。
男はとても嫌な顔をしていた。歯は恐らく磨かれていないし、きっと脂性だ。鼻も曲がっている。ユリエはこんな男と知り合いなのだろうか。
「友達?」
男が私を見たので私はすぐに目をそらした。
「違うよ。さっき会ったばかりの人」
『違うよ。ハナエちゃんなんて友達じゃないよ』
私は口を結んで彼らを見た。お互いに媚びながら、どうでもいい会話をしている。二人は「デートをする」ために連れ立っていくことにしたらしい。揃って歩き出した。
ユリエは男と腕を組んで、私にバイバイ、と手を振った。そのついでに毛糸をぽいと地面に投げ捨てた。毛糸は新しいアスファルトの上をころころと自由に広がっていく。
「結局のところはいざという時になるとどうでも良くなっちゃうのよね。赤ん坊も、耳に息を吹きかけられることも」
彼女は明るい声でそう言った。私はじっと毛糸玉の行方を追っていた。男が興奮した面持ちで彼女の腰を抱いた。
そうか、そういうものか。私はじめじめした感情にとっぷり浸かりながら不本意な納得をした。セックスなんて、どうでもいいことなのか。
私にはできない。心の底から拒否してしまう。私のような人間は何人いるだろう。きっと私一人なのだ。私しか、いないのだ。
私は美術館に戻って、オブジェの周りにある椅子の一つに腰を掛けた。そこでぼんやりしていた。奇形の家族の像を眺めながら。私も奇形だ。人間として、奇形なんだ。
隣の椅子に誰かが座った。誰なのか、私はすぐに分かった。
「君を探すのに少し苦労したよ。下宿先は男子禁制だし、君は携帯電話を持たなかったからね」
私は驚いて彼を見た。彼は楽しそうに笑っていた。何故、携帯電話のことを知っているのだろう。
「今日も君は障子を開けっ放しにして出て行ったね。小鳥が飛んでいくのを見たよ。逃げたんじゃなかったんだね。そのあと君は下宿先を出て行った。走って、どこか見えないところを歩いていった」
私は民家の裏にある細い路地を歩いていったのだ。彼に見つからないように。
「君は子供が欲しいんだって? それなら僕の精液をあげるのに。市役所なんかで貰わなくてもさ」
私はぞっとして立ち上がろうとした。その瞬間、腕をつかまれた。彼の手のひらはぬるぬるしていた。精液だ。私は悲鳴を上げた。長くてか細い悲鳴だった。
彼がぎょっとして手を離した。私はオブジェの監視員の冷たい目を無視して走り出した。彼はすぐに追ってきた。そして昨日と違って、私は捕まった。腕を再びつかまれ――あのぬるぬるしたものはただの汗だと私は気づいた。
「ねえ、セックスをしようよ」
「いや」
私は腕を振り払った。彼は赤ん坊をあやすように、優しい笑顔を浮かべていた。
「セックスをしようよ」
「どうしてそんなことばかり考えてるの」
「君が好きだからさ」
「好きなら消えて。どこかに消えて」
「消えないよ」
「憎いのよ。あなたがとても憎い。この世に存在している、そう思うだけで嫌」
私がそう叫ぶと、彼はショックを受けたようだった。青ざめた顔を私に向けたまま、手を離した。
「君は僕が嫌いなの」
「好きだったわ。だけど今は嫌い」
私は泣いていた。怖いのか、悲しいのか、分からなかった。
「あなたは嫌な雰囲気がないから付き合ったのに、セックスのことを言い出したから」
「だから嫌いになったの」
「そうよ、嫌いよ」
私は彼と付き合っている。今も、現在進行形で。だけど、別れられないでいる。何故なのか分からない。
彼からは未だにセックスの匂いがしない。だけど彼はセックスをしたがっている。私は怖かった。セックスをするということが、今ここに、目の前に存在することが怖かった。
「君はセックスが怖いんだろう。なら試してみようよ。本当は大丈夫なのかもしれない。それに僕も自分がホモセクシャルじゃないことが分かるかもしれない」
彼が苦痛に満ちた顔でそう言うと、私は驚きのあまり逃げようとするのを止めた。彼の言ったホモセクシャルという言葉が、とても不思議な響きで私の中をかき回した。
「ホモセクシャルなの」
「違う、と思う。だって君が好きだから」
「ホモかどうか確かめるためにセックスしたかったの? 私が嫌がっているのを分かりながら?」
「それは」
「私はセックスしないわ。セックスしないで子供を持つの。あんたなんて必要ない。あんたの精液も必要ない」
彼は黙り込んでいた。そして持っていた紙袋の中から何かを取り出し、すっと差し出した。昨日子供にすられた私のバッグだった。私はそれをひったくった。出来るだけ彼の指先に痛みが走るように。
「取り返してくれてありがとう。中身には触ってないわよね」
「いや、少し」
彼は無表情に言った。私は激昂した。
「汚いわ」
「財布が盗まれてないか確認しただけだよ。それくらい平気だろう」
「恋人だから?」
私は彼をあざけり笑った。彼は傷ついた顔をした。だけどもう関係ない。
「もう、今日で本当にお別れよ。セックスはしたくないし、昨日私は市役所で子供を持とうと決心したの。お別れするしかないわ」
「子供の父親にはなれない?」
彼は切なそうに言った。私は言下に否定した。
「なれない」
彼は黙っていた。いつまでも黙っていた。あまりにも静かなので、私は彼の横を通り過ぎ、市役所に向かって歩き出した。そして、新しいほうの魔法瓶を取り出し、中から氷を取り出した。口に含むと少し溶けていたらしく、水の匂いがした。奥歯で噛む。がりりといい音がして氷は砕けた。私は爽快な気分には、なれなかった。パタパタと、カナコが私を追う音がした。
銀色の四角い箱。市役所は高く聳え立っていた。その前に、人だかりがあり、中には血まみれの男が倒れていた。腕が変な方向に曲がり、頭からは血が溢れている。血のせいで顔が見えず、年齢が分からなかった。ガードレールに突っ込んでつぶれた車がそばにあり、人々はざわざわと騒いでいた。誰も男に応急処置をしていなかった。死んでいるからだ。
「アーメン」
少女たちは輪の中央にいた。真顔で、あるいは笑顔で、死体を見つめている。お葬式ごっこだ。
彼女たちの優しさは、優しさではない。優しい自分を作る、自己形成の過程にある彼女たち。これは自分を作ろうとする作業に他ならないのだ。彼女たちは大人になるだろう。当たり前のプログラムに従って。そしてセックスをするだろう。
ざわめきを後に、私は成人証明書を取り扱っている部署に、エレベーターに乗って向かった。エレベーターは私を高く運んでいく。このまま空まで連れて行ってくれないだろうか。そんな気分になる。でも、必ず止まってドアは開く。
成人証明書の部署は、がらんとしていて、空気が生ぬるかった。ただ奥のほうに二人、人がいた。女の質問に、男が困ったように受け答えしている。やけに密着して、気持ち悪い。私はつかつかと歩いていって彼らのところに行った。驚いたことに女のほうは三十代くらいで、男は私と変わらないくらいだった。女はどんなタイプの女が好き? と甘ったれた態度で聞いていた。男のほうはいち早く私に気づいたらしく、こんにちは、と挨拶をした。
「そんなにセックスしたいの? そんなにセックスが好き?」
私はいきなりそう尋ねた。女は驚いたように私を見た。
「セックスをして、何になるの? 子供を持つ方法ならいくらでもあるわ。それなのにどうしてセックスをしたがるの?」
「さあ……」
女は気味悪そうに、そして怒り気味に私を睨んでいた。
「成人証明書を持って、市役所の冷凍室に行けばいくらでも子供はもらえるのだもの。セックスなんか必要じゃない」
「あなたは変なのよ」
女は笑った。
「大人になったらセックスをするものなのよ。子供が出来るかどうかなんて関係ない。それが当たり前なの。あなたは大人じゃないわ」
「大人よ。二十歳だもの。成人証明書をちょうだい。ちゃんと保険証は持ってるから」
「残念ねえ。大人にしか上げられないから、セックスできない子供には上げられないわ」
「子供だってセックスはするわよ。さあ、成人証明書をちょうだい」
「ほら、墓穴を掘った。大人も子供もセックスする。あなたはしない。それってあなたが異常だという証明じゃない? そんな人にはあげられません」
彼女は余裕を湛えた笑顔でそう言った。私はこぶしを固めて震えていた。私は普通ではない。彼女も言っていた。普通じゃないから何にもできない。役立たず。仲間はずれ。
彼女は言っていた。
『あんたは一生そのままよ』
でも、子供だけは生みたい。
男性職員が近づいてきて、私の保険証を持って行った。そして女の職員が彼に話しかけるのをぼんやりと見ている間に、私の成人証明書は出来ていた。
「冷凍室は地下二階です」
澄んだ声で、男性職員はそう言った。私は小さな証明書を持って、エレベーターに向かった。
寒い。歯の根が合わないくらいだ。冷凍室は広く、天井は高く、女たちが大勢いた。皆が何かをほおばっている。大きな氷の塊だ。
高くそびえる氷の山があった。ブロック状の氷が、ピラミッドのように積み上げられているのだった。
女たちは獣のように氷を貪った。お互いにぶつかり合い、罵り合い、蹴ったり殴ったりしながらより良い氷を探していた。私は寒さで震えながらそれを観察していた。
「成人証明書はお持ちですか」
入り口のカウンターにはコートを着た職員が数人並んでいた。私はもらいたての成人証明書を見せた。彼らは群がって私の証明書を見た。寒すぎて機械が使えないので、確認のためには自分の目に頼るしかないのだろう。
責任者らしい眼鏡の男性職員が頷いて、証明書は返された。私は彼に声をかけた。
「いつもこうなんですか」
「いつもこうですよ。彼女たちはより良い子供を得たいものですから。さあ、あなたもどうぞ」
そっけなく追い払われた。私は仕方なく獣たちが群がるピラミッドに近づいていった。凍った床はやけに靴音を響かせた。しかしピラミッドに近づくにつれて、それは女たちの騒ぐ声にかき消された。
私は後ろからそうっと氷を見た。一つ一つの中にはとかげのようなものが入っていた。頭は大きくて、尻尾は巻いている、小さなもの――人間の胎児。女たちは凍った胎児を食べている。ここは、堕胎された胎児を保存しておく場所なのだ。ユリエの胎児も、きっとここにいる。
私は隙間を探した。氷に触れる隙間を。しかしどこにも無かった。女たちはそれぞれ縄張りを持っていて、私は近づこうとしては威嚇された。そんなに子供が欲しいのだろうか。私は不思議に思った。私も子供が欲しい。だけどこれほど熱心にはなれない。
私はピラミッドの周囲をぐるぐる周った。冷凍室は四角くて、隅に半分に割れてしまった氷の塊があった。中の胎児も真っ二つで、食べるには躊躇された。仕方が無いのでそれを避け、更に何周も周って、私はとうとう床にさびしく転がっている一粒の小さな氷を見つけた。太った女に踏み潰されそうになっているところを、私はあわてて救った。立ち上がって、天井の電灯の光に中身を透かしてみる。胎児はまだ未熟なおたまじゃくしのようで、どう見ても人間ではなかった。
私の、赤ちゃん。
私はためらわずにそれを口に持っていった。唇に触れ、歯に触れ、舌に触れ――、私はそれを噛み砕いた。砕けたそれは私の口腔の温度で溶け、胎児の破片が舌に触れた。私はそれをしばらく舌に乗せた。味はしなかった。そして、溶けて出来た水と共に、ごくんと飲んだ――。
「ハナエちゃん、今日は市役所に行ったわね。どう? 妊娠できた?」
カナコが無邪気に尋ねる。
「うん、ついでに産婦人科に行ったら、妊娠二ヶ月だって」
「良かったわね」
「ええ」
私はようやく妊娠した。セックス無しで。とても幸せだった。この子供と私は奇形な親子関係を持つだろう。子供はスリをするだろう。お葬式ごっこをするだろう。アルマジロを蹴るだろう。ただ、セックスはしないだろう。
「ねえ、どうしてそんなに子供が欲しかったの。妊娠なんかしたの」
文机の上でカナコが首をかしげる。私は答えない。
私は彼女を思い出していた。私を裏切り、集団に溶け込んでいった幼い彼女。左手の小指の無い彼女。大人ぶって強烈な麝香の香水を学校につけてきた彼女。中学生の時からセックスを繰り返し、高校生の時に出来た子供を虐待死させて刑務所に入れられてしまった彼女。『あんたは普通じゃない』と私に言った彼女。親友だった、彼女。妊娠するまで気づかなかった。私は彼女を愛していた。
セックスを嫌悪したのは彼女のせいだ。退屈なのは彼女に会えないせいだ。私は泣いた。慟哭と言っていいほどに激しく泣いた。
「どうして泣くの、ハナエちゃん」
カナコが悲しそうに言った。私は悲しくなかった、と思う。だけど涙はぼろぼろと流れた。
おなかに宿ったあの氷の胎児は、彼女がいつか堕胎した子かもしれない。彼女が初めてで最後の堕胎をしたのは確か妊娠二ヶ月の頃だったから。彼女は泣きながら子供を降ろした。とても悲しそうだった。だから次の子供を産んだのだ。それなのに彼女はその子の細い首を絞めたのだった。
私に宿ったこの胎児がもし彼女の子だったら――、私はこの子を彼女の好まない育て方をしてやろう。私は彼女と違って、計画に沿うのに疲れて、殴ったり、罵倒したりしない。あの青い像のような、奇形な家族になるのだ。それはきっと、無意味で、子供にとっては地獄のような人生だろう。二歳で自殺したら、上等だと思う。
「カナコ、私が妊娠したのはね」
かごの中でえさをついばんでいたカナコが振り向いた。私はバッグから青いレースを取り出して、ゴミ箱に捨てた。あいつは確かに中のものには触れていないらしく、大きなレースの畳み方も同じだった。ただ、胡蝶蘭の香水は麝香の香水と入れ替わっていた。
「退屈だったから。それだけよ」
私は香水の箱を開けて、紫色の瓶から麝香の匂いを体に噴きつけた。それはセックスの匂いがした。
《了》