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愚者達の戦記  作者: 六三
皇国編
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第12話:張り巡らされた糸

 ゴルシュタット王国宰相ベルトラムは、その日、その名が示す通りゴルシュタット王国の宰相府に居た。執務室にある、大国の宰相が座するに相応しい格調高く且つ重厚な机に座していた。もっとも彼がそこに座るのは、実に3ヶ月ぶりだった。では、その間彼はどこにいたのかというと、やはり宰相府にある執務室だった。


 この謎かけのような状況も、彼の異名を聞けば頷ける。彼はこう呼ばれているのだ。『二ヶ国宰相』と。


 数ヶ月前、彼が率いるゴルシュタット王国軍はリンブルク王国王都アティカに入り、さらに各地の要衝を押さえた。彼はリンブルク王国の宰相をも兼ねリンブルクの実質的支配者となったのだ。


 もっともゴルシュタット王国の宰相でもある以上、ゴルシュタットの政治を見る必要もある。長年の宰相としての治世により法は既に定まり、後は大過なく運用するだけではあるが、彼が決裁しなければならぬ書類が無くなるものではない。


「私が目を通す必要があるのは、この書類だけで良いのだな?」

「はい。私の権限で決裁出来る案件はすべて処理しております」


 留守を任せたブルバッハに問いかけ、その返答に満足しベルトラムは頷いた。


 ブルバッハは、70を過ぎた老人だった。痩せて背は高く乾いた肌はなにやら枯れ木を連想させる。新しきものを生み出す革新的な行動力、探究心などは外見どおり枯れはてているが、その代わりに慣例を守る保守のこけがその精神を覆っている。


 もっともベルトラムも甘くは無く、この枯れた老人が実は野心の新芽を隠していないとも限らぬと、密かに監視するのも怠らない。老人は、娘婿が将来有望視されている官僚なのを自慢としていたが、肝心の娘婿の忠誠の羅針盤は、義父にではなく宰相にその針を向けているのだ。


 ブルバッハを下がらせると、入れ替わりに腹心のダーミッシュを執務室に呼んだ。ベルトラムの諜報活動を担う人物で、ちょうどサルヴァ王子の腹心であるカーサス伯爵にその役割は似ている。もっともカーサス伯爵のような貴族ではなく、もっと下層の出身だ。


 ゴルシュタット、リンブルクそのどちらの政府に雇われている訳ではなく、彼を養っているのはベルトラム自身であり子飼の者である。それだけに、その活動は表立ったものではなく闇に属し、時には直接手を血に染めるのも厭わない。


 彼の風貌は? そう彼と会った直後の人間に聞くと、皆同じ反応をする。一瞬開きかけた口を閉ざし、次に困惑するのだ。彼の特徴を一言で言えば「特徴が無い」事だった。彼と数日一緒に居た人間すら、その翌日に道ですれ違っても彼と気付かぬほどである。


 もっともこの手品には種があった。化粧、或いは小物により、顔に1つだけ人工的に特徴を作るのだ。彼と会った人々は、頬に傷のある男、口髭を生やした男、眼帯を付けた男とだけ覚え、他の造形については何1つ覚えてはいなかった。時には髪の色すらも間違えるほどである。


 中肉中背。薄くも無く濃くも無い、茶色と黒の中間色の髪色。大きくも小さくも無い、目と鼻と口。濃くも薄くも太くも細くもない眉の男が、ベルトラムの前に跪いた。


「奴らは動いたか?」

「はい。シュバルツベルク公爵の別荘で会合を行いました。集まったのは館の主のシュバルツベルク公爵、エーデルシュタイン公爵、デーベライナー伯爵などを筆頭に、他には子爵、男爵など計31名です」

「思ったよりも少ないものだな。もう少し多いと予想していたのだが」

「ですが、会合には参加していない、爵位の低い者も数多く居ると思われます」

「まあ、それはそうであろうがな」


 ベルトラムは、ゴルシュタット王国の宰相からリンブルク王国の宰相へと顔を代え頷いた。


 彼らの中で特に力を持っているのが、その2公爵に1伯爵という訳だ。侯爵が居ないが、リンブルク王国には侯爵という爵位がそもそも無いのだ。


 現在ベルトラムは、ゴルシュタット王国軍の力を背景にリンブルク王国内でその影響力を拡大、すでに多くのリンブルク貴族が彼に擦り寄ってきている。それはリンブルク国内のおよそ8分の1の勢力だった。それに対し、シュバルツベルク公爵の別荘で会合した貴族達、その影響下にある貴族達の勢力は3分の1近くに達すると推測された。残りの者達は、まだどちらの旗を振るか立場を鮮明にはしていない。


 つまりベルトラムに敵対する者達の方が勢力ではまさっているのだ。にも拘らずベルトラムが留守の間に集まるという隠れた行動をするのは、ベルトラムにはゴルシュタット王国の力も加算される為だ。ゴルシュタットが出てきては、例えリンブルク王国すべての勢力を糾合しても比べ物にならない。


「宰相閣下。如何なさいましょう。一網打尽にする事も出来ますが」


 ダーミッシュが特徴の無い口を動かし、特徴の無い声で言った。


「いや、今しばらく泳がせよ」

「しかし、以前も同じ言葉を仰いました。今回は前回よりさらに人数が増えております。時が経てばさらに彼らの勢力は増しましょう」

「構わん。所詮それも我が手の内よ。お前は奴らの動きを掴む事のみに集中せよ。奴らの行動を妨げる必要は無い」

「は。かしこまりました」


 豪胆。それがベルトラムだった。敵対勢力が力を増していくのを知った上でそれを無視する。それは知性ではなく、経験、そして胆力を根にしていた。もっともそれは無謀ではなく、知による計算が根底にある。


 鎖に繋がれた獅子の爪が、牙が届くぎりぎりの距離。頭では安全だと分かっていても平然とは出来ぬものだ。並みの者なら獅子の咆哮だけで怯え逃げ出す。だがベルトラムはその前でいびきをかける。



 ダーミッシュが部屋から姿を消した後、すべての書類に目を通し決裁したベルトラムは帰路に着いた。表向き領地は息子に譲り、ゴルシュタット王国内にベルトラムの領土は寸土も無いのだが、宰相として王都内に屋敷は持っている。もっともこの屋敷も名義は息子だ。


「お父様。お帰りなさいませ」


 馬から下り、馬番に手綱を渡していると、娘のクリスティーネがわざわざ馬屋まで来て出迎えた。赤みがかった茶色い髪が、滑らかに巻かれ胸元にまで垂れている。瞳はさらに赤が強い。だが情熱を表すその容姿に対し、表情から受ける印象は柔和だった。それは常に口元に浮かぶ、優しい微笑の賜物と思われる。


 ベルトラムは、クリスティーネを愛していた。今年16歳で、息子より13も下の歳の離れた娘だ。妻が娘を体内に宿した時、病弱だった妻は子供を産むのは危険と医師から告げられた。


「ご長男の時はまだ今より健康でしたし、若くもありました。ですが……今回は諦めた方が良いでしょう」


 ゴルシュタット王国国王の主治医でもある医師は、そう言って出産に難色を示したが、ベルトラムの妻は微笑み首を振った。


「私がこの子を宿したのには、きっと何か意味があると思うのです」


 そしてクリスティーネが生まれ、妻は難産によりこの世を去ったのだ。


 彼女は優しい女性だった。いつも笑みを絶やさず、その微笑みは、常にすべてを許していた。ベルトラムは大国の宰相という地位を得る為に、人には言えぬ手段も取ってきた。誰からも許されない事もだ。だが妻の微笑みは言っていた。私は貴方を許します。


 実際妻が、夫の所業を知っていた訳ではない。だが、ベルトラム自身はそう感じていた。妻も、薄々は何かを感じていたかも知れない。しかし、夫を見る目は常に優しく微笑んでいた。


 その妻と同じ笑みを湛える娘が、さらに笑みを深くする。


「お父様。実はお話したい事があるのです」

「ほう。どんな事だ?」

「いえ。ここでは。食事の後にお話したいと思います」


 娘は口元で手の平を合わせ、秘密の話なのだという仕草をした。その目が少し悪戯っぽく輝く。悪意の無い驚きを父に与えたい。そんな感じだ。


 ここで話せぬなら、わざわざここまで出迎えに来ずともよかろうに。とベルトラムは苦笑し、

「では、食事の後を楽しみにしよう」

 そう言ったベルトラムは、ゴルシュタット王国の宰相のものではなく、リンブルク王国宰相のものですらない、ただの娘を愛する父親の顔に見えた。


 屋敷には、召使や侍女を除けばベルトラムと娘の2人っきりだった。長男は、王都から少し離れた領地の屋敷に住みその経営に専念している。晩餐は豚肉の燻製をメインにじゃが芋を潰した物を主食とした。内陸国であるゴルシュタットでは魚が食卓に上がる事は殆ど無い。ベルトラムの財力ならば毎食魚を食べるのも可能だが、人は幼き頃より食べなれた物を好む。一時物珍しさで、魅惑的な美人に浮気しても、いずれは古女房の元に戻るのだ。


 燻製にもじゃが芋にも、辛子マスタードで作ったソースをつけて食べる。単純な料理のようだがこれで中々奥が深い。


「お父様。このソースは私が作ったのですが、お味は如何ですか?」

「ああ。お前の母の味に随分近くなった。もう少し甘味があったような気もするが」

「甘味ですか? 辛子のソースを甘く感じるなんて……お砂糖を入れた訳ではないのでしょうけど」

「まあ。甘いといっても微かにだ。砂糖の甘さではなかったようだ。色々と試してみるがいい」


 困惑する娘に、父はそう言って優しく微笑んだ。


「はい。お父様。私も早く、お母様のようになりたいと思います」

「うむ。私がまだ一下級士官で貧しかった時、お前の母は――」

「朝から晩までじゃが芋だけの料理だったが、すべて味を変えていたので、少しも飽きなかった。のでしょ?」


 今まで何度も聞かされた台詞を暗唱し、娘は少し首を傾げ微笑んだ。その様子にベルトラムも微笑む。理想の親子の風景だった。


 その後も親子は、楽しく談笑を交えながら食事を楽しんだ。その後、場所をベルトラムの私室に移す。

「それで、話とは何なのだ?」

「はい。実は……」


 娘は、そう言うと口ごもり、父に背を向けた。なにやら恥らっているように見える。


「なんだい。はっきりと言いなさい」


 何かの雰囲気を察したのか、常に優しく語り掛けてくる父の声が少し苛立っているように聞こえた。娘は僅かに戸惑いながら、もったいぶり過ぎてしまったのかと、中断させた言葉を続けながら父に向き直る。


「実は、私、ご交際している男性がい――」


 顔、があった。鼻先が触れるほど近くに、今まで見た事も無い形相の父の顔がある。激しい視線ではない。一見感情の無い、しかしその奥底には黒い炎が燃える目があった。左右から父の手が伸び、一瞬身体が浮くほどの力で両腕を掴まれ、激痛がクリスティーネを襲う。


「い、痛い。お父様……」

「その男と、何か有ったのか?」


 娘の言葉を無視して、低い声を発しベルトラムが腕の力をさらに込める。


「え?」

「その男と、何か有ったのかと聞いている」

「痛いです。お父様……。何も、まだ何もありません」


 その言葉に、やっとベルトラムは腕の力を緩めた。娘は一瞬ふら付き、掴まれていたところを手でさする。まるで殴られた後のように熱を持っていた。


「本当であろうな」


 幾分和らいだものの父の視線はいまだ鋭い。絶対的な強者を前に娘の声色には少し媚びた音色が含まれていた。


「はい。本当です。お父様」

「指一本、お前には触れさせておらんのだな?」

「勿論です。お父様」

「うむ。お前は、母のように清らかでなくてはならん。分かっているだろうね?」


 ベルトラムの表情が和らいだ。父の怒りがやっと収まったと娘はほっとし、もっと優しい父に戻って貰おうと、さらにおもる言葉を続ける。


「はい。お父様とお母様は、ご結婚なさるまで僅かながらも触れる事も無かったとか。私も、お母様のように純潔を守り、お父様のような誠実な男性と結ばれたいと思っています」


 そう言って神に誓うかのように両手を合わせ父に微笑む。


「そうだ。お前は母のような女になるのだ」


 ベルトラムは娘を優しくその胸に抱き寄せ、娘も素直に父に身を委ねる。屋敷から一歩も出さず、世話はすべて侍女など女に任せ、男なら血の繋がった兄とすら触れた事の無い清らかな乙女の耳元でベルトラムが囁いた。


「何せお前は、母の生まれ変わりなのだからね」




 その後、改めて娘から話を聞くとその交際しているという男は貴族の次男坊らしい。どうせ家を継げぬと趣味に精を出し、日がな一日笛を吹いている。屋敷の敷地の外でその笛を吹いているところを敷地内の庭を散策していた娘の耳に笛の音が入り、屋敷の柵越しに言葉を交わしたのだ。


 その柵越しの会話が、談笑に変わり、さらに交際に代わるのにはさほどの時を必要とはしなかった。男は娘の美しさに一目で虜になっていた。娘は屋敷から出ないのだから2人が会うには男の方から来るしかなく、どうとも思っていない女性に毎日会いに来る訳は無いのだ。


 そして娘の方も、殆ど初めて接する同世代の異性にすぐに心引かれた。それは娘に男に対する免疫が無い所為もあったが、貴族の次男坊は娘が好みそうな優しい青年だった。


 娘の話を、主観と客観、そして偏見を交えてそう解釈したベルトラムが、殊更優しく娘に語り掛ける。


「なるほど。中々良さそうな青年ではないか。私も一度会ってみたいものだな」

「本当ですか!? お父様!」


 先ほどの父の様子から、交際には反対されると内心脅えていた娘は思いの外父の反応が良いのに胸の前で手を組み喜んだ。


 その数日後、青年とベルトラムとの顔合わせは現実の物となった。青年は、全体的に線が細く、娘の話し通り優しげな雰囲気を持っている。彼は、自分が交際している相手の父親がこの国の宰相である事は知っていたが、まさかこんなにも早くこの国一の実力者と対決するとは思ってもおらず、緊張で石のように身を硬くした。


「まあ、そんなに緊張せずとも良い。娘と交際しているとい聞いているが、間違いないのだな?」

「は、はい! お嬢様とは、真剣にご交際させて頂いております!」


 貴族の次男坊は、ここが勝負と勇気を振り絞り声を大きく答える。


「うむ。中々しっかりしているではないか。将来が楽しみな青年だ」

「いえ。滅相も、あ、いえ。あ、ありがとう御座います!」


 あまり謙遜しても軟弱に見られると思ったのか、慌てて言い直した。その様子に、ベルトラムは優しく苦笑した。


 その後、さらに2人は打ち解け、ベルトラムは青年をいたく気に入ったのか、青年の笛の音を聞きたいとねだった。青年も快く応じ、宰相の前で1人だけの演奏会を行う。その笛に、ベルトラムはさらに青年を賞賛した。


 そしてなんとベルトラムは、リンブルク王国に笛の勉強をする為に留学しないかと彼に薦めたのだ。もちろんその費用はベルトラムの援助である。国としては小さいリンブルクだが、周囲を大国に囲まれている分それぞれの文化が入り込み、融合し、芸術の水準は高い。話はとんとん拍子に進み、ベルトラムがゴルシュタット王国での公務を終えると、共にリンブルク王国に向かう事になった。


「じゃあ、行って来るよ」

「はい。お待ちしております」


 屋敷の柵越しに若い男女が言葉を交わす。離ればなれになるのは悲しいが、父が恋人を認めてくれた事に娘は喜んだ。青年も、彼女の父が援助をしてくれるのなら、交際を認めてくれたのだ、と、この美しい女性との未来に今だけの辛抱と決意を固める。


 その2人の様子を、ベルトラムは微笑み眺めている。


 殺しはせん。殺せば心に残る。リンブルク王国に着けば、金と女を与え堕落させてくれる。娘には、その程度の男だったのだと伝え忘れさせるのだ。娘はしばらくの間悲しむだろうが、その時はまた胸に抱いてやり、慰めてやらねばなるまい。


 引き裂かれる運命の2人は微笑みながら見詰め合っていた。それが2人が交わす最後の笑みだとも知らず。

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