第5話:皇国の歪(1)
グラノダロス皇国は8つ衛星国家を持つ大皇国だ。皇国では衛星国家を上位、下位に分けそれが交互に配置されている。皇国で行われる公式行事の席次では、上位国家の王が皇帝に近い場所に座し、下位国家の王の席は皇帝から遠くなる。だがその実、国力においては下位国家が上位国家を上回るように計算されていた。
公式の場で席次が上になり皇帝とも親しく話す機会が多い上位国家の王に対し下位国家の王は
「上位国家といっても所詮国力では我が方が勝っているのだ」
と反発し、席次はともかく実際の国力では下位国家に劣る上位国家の王は
「国力がどうであろうと、皇帝陛下に近しい我が国が格上なのだ」
と下位国家を蔑んだ。
無論、衛星国家が連合しての反逆を警戒した皇国の政策である。児戯のような単純な手だが、他を妬む人の心とは、大の大人の精神から成熟という言葉を消し去る効果があるのだ。
その衛星国家の1つにデル・レイ王国があった。皇国の北東部に位置する下位国家である。国王には王女は数多く居るのだが、肝心の王子は1人も授からなかった。後宮に美女を集めそれらに王の子を産ませてもすべてが女児だったのだ。31人目の王女が誕生した夜、うな垂れた国王は、皇国に養子を頂けないかと親書をしたためた。1年前の事である。こうしてアルベルドはデル・レイ王国の次期国王として迎えられたのだ。
その日、デル・レイ王国国王アルベルドは、王妃であるフレンシスと共に馬車に揺られていた。12頭もの白馬で引かれるその巨大な白馬車は金銀で細工で装飾され、車内も部屋と称するに躊躇わぬほどに広い。
国王の対面に座る王妃は、押し黙り一言も口を聞かず視線を外に向ける伴侶に、にこやかに微笑み、明るい口調で話しかけた。
「カルリトス様も、もう2歳になられるとか。可愛い盛りです。私もお会いするのが楽しみです」
だが夫からの返答は無く、それどころか、わずかばかりに動いたその首はむしろ更に外へと向く有様だった。薄い茶色瞳と、それよりも僅かに濃い茶色の髪を持つ王妃の笑顔は少しずつ翳り、最後には俯いた。しばらくした後、再度上目遣いに夫を見たその眼差しには悲しみの色が浮かぶ。
アルベルドとその妻は、現皇帝パトリシオの皇太子の誕生祝いの宴に招かれ皇国へと向かっていた。皇太子の成長はアルベルドの皇帝への扉を閉ざすものであり、アルベルドにとっては面白い話ではない。それをにこやかに話す妻に殺意さえ覚えた。それを自制心を発揮し、何とか無視するに留めていた。
国王夫妻専用の巨大な馬車は、向かい合わせに座っているにも拘らず、その互いの膝が触れ合う事は無い。だが王妃には、それ以上の距離に感じられた。
アルベルドとの婚姻の前に、父である前国王は娘に言い聞かせた。
「皇国は皇祖エドゥアルド以来、国策により例え皇帝の弟君でも領地を分け与えられない。唯一四代皇帝のおり、多大な功績のあった弟君が公爵として領地を与えられたが、宮廷内でも反発の声は大きかったと聞く。しかもその公爵家も三代目には些細な事を理由に取り潰された。アルベルド様も、扶持は与えられておるものの領地は与えられぬ飼い殺しの生活を送っておった。それがお前と一緒になれば国王となれるのだ。きっとお前を大事にして下さるに違いない」
当日、笑顔で手を振りながら王都に入った皇子アルベルドを、デル・レイの臣民は胸を撫で下ろし次に歓呼で迎えた。皇族と衛星国家の王族とでは本来格段の差がある。その為、傍若無人に振舞うのでは? と危惧する者も多かったのだ。
「アルベルド皇子は、心優しきお方とは聞いておりましたが……噂にたがわぬようで胸を撫で下ろしました」
アルベルドをデル・レイに招く交渉を行った大臣はそう言って安堵の溜息を付いた。この大陸で皇族の悪口など以ての外。噂と実際が違う事など日常茶飯事である。
アルベルドとフランシスの結婚式は盛大に行われた。皇国は衛星国家が力を持ち過ぎないように工事や軍役を申し付け財政を圧迫させる事もがあるが、皇帝の弟の結婚式に大盤振舞し多くの贈り物も遣わされ、皇国との関係も良くなると臣民こぞって大いに沸いた。王都の住民達にも酒が振舞われ祭りのような賑わいである。
だが、式の後結ばれ夫婦となった翌日に夫は豹変したのだ。
「すぐにでも、私をデル・レイ王として頂きたい」
国王は唖然とした。如何に現皇帝の弟とはいえ信じられぬほどの非礼、いや、暴言である。フランシスも我が耳を疑った。昨晩、夫は優しく自分を抱いてくれ、この人が夫で良かったと心から思ったのだ。夫の名を呼びその胸に顔を埋めた。それが夜が明けると、まるで魔法が解けたかのように夫の視線は冷たかった。
「それが認められぬなら、私はこのまま皇国に帰りましょう」
その一言で、国王、宰相と大臣達も蒼白となった。単に帰られるだけならば問題は無い。問題なのは帰った後何を言われるかだ。彼は皇帝の弟なのだ。皇国はアルベルドの言い分を信じるに違いない。王国の遇し方が悪かったとでも言うのか。最悪、皇国に叛意ありなどと訴えられてはどのような責めを受けるか。いや、皇帝から数々の品を贈られての式を行ったすぐ後に、その結婚の破棄など理由を問わず大問題である。
父はアルベルドに王位と王城を奪われ、今は母と、30人の妹達と共に王家が避寒に使っていた小さな城に移った。夫は妻からすべてのものを奪い、その代わりに何も与えてはくれないのだ。
夫は不快げに視線を外に向け続け、妻は悲しげな瞳で夫の端正な横顔を見つめた。2人を乗せた馬車は、御者の鞭打つ音と、馬の嘶きと地を蹴る蹄の音。それだけを発し他に音は無く、次に馬車が停まるまで2つの視線が交わる事は無かった。
グラノダロス皇国皇都バルスセルス。その中央に位置するエスカサル宮殿。幅1.35ケイト(約11.5キロ)。奥行き1ケイト(約8.5キロ)。皇祖エドゥアルドが作り上げた、町1つがすっぽりと入るほどの巨大な建造物だ。外郭の内部はさらに多くの区域に分かれそれぞれに屋敷、庭園が整えられている。その中でも中央に位置するラバンドラ宮は、皇帝が住まい一際大きく、絢爛を極めていた。あえて平屋で建てられ、その分縦と横に広かった。それぞれ950サイト(約800メートル)にも達する。
デル・レイ王国国王夫妻の乗る馬車は、エスカサル宮殿の門の前で護衛の兵士達が乗る馬車と別れその敷地に乗り入れた。宮殿内は厳重に警護され自身の護衛など不要のはず。皇国に叛意を持ち、それを害そうとするか、後ろ暗く自身の身を守る必要があれば別ではあるが。
馬車は広大な庭園を進みそこに辿り着いた。だが彼らが乗りつけたのは、ラバンドラ宮の正門といえる皇族が使用するティオン門ではなく裏門というべきコルデオ門だった。前皇帝の第5皇子であり、現皇帝の皇弟にも関わらずだ。
それが更にアルベルドを苛立たせる。皇国は属国の王国を一段下として扱う。それは、皇国に代わる存在を認めぬという皇祖以来の政策によるものだ。皇族出身者といえど、属国の王家に『降格』したのなら例外ではない。
にも関わらず、馬車を降りたアルベルドは笑みすら浮かべ、出迎えた文官に頷き応える。アルベルドは、飼い殺しの身から一国の王となれると喜びデル・レイ王国へ向かったのだ。ここで屈辱を露にしてはその欺瞞がばれると、腸が煮えくり返るのを押さえ新たなる欺瞞で全身を覆った。
王妃たるフレンシスには、それが更に困惑させる。夫の考えがまったく分からない。今まであれほど不機嫌だったのに、何故宮殿に着いた途端これほどにこやかに応じるのか。生まれ育った場所に帰った喜びではないはずだ。ならば道中不機嫌になる訳が無い。
「どうした? そのような顔をして。これから兄上に会うのだぞ。もしかして馬車にでも酔ったのか?」
「それは行けません。すぐに部屋をご用意しますので、少し休まれては如何ですか?」
困惑の表情を浮べる王妃にアルベルドが笑顔で話しかけると、文官も気遣いの言葉を掛けた。その言葉に、王妃は夫の顔色を伺う。大丈夫です、と言えば良いのか、それとも、お願いします、と言えば良いのか。どちらの答えが、夫の意にそうのか。夫との距離を広げたくない王妃は懸命に考えた。だがやはり夫の望む答えが分からない。
やむを得ず、そもそも夫が馬車に酔ったのかと聞いたのだからと、
「申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
と文官に軽く会釈した。
「かしこまりました」
一礼した文官は一度部屋から姿を消し、すぐにまた現れた。そして用意した部屋に案内される。
「狭い部屋ですが、お身体がよろしくなるまで、ご休息下さい」
文官はそう言うと洗練された動作で一礼しまた姿を消した。
文官は狭い部屋と言ったが、デル・レイ王国の国王夫妻の寝室より遥かに広く、銀糸で縁取られた寝台≪ベッド≫に軽く身を伸ばすにはちょうど良さそうな長椅子があり、それは金で飾られていた。皇国の宮殿とはこれほどの物なのかと王妃が目を見張っていると夫の不機嫌な声が聞こえた。
「まったく。馬車に酔ったなど……。どんな貧相な馬車に乗っているのかと物笑いの種ではないか」
見ると、椅子に深く座り足を組んで投げ出し、煩わしげに金色の頭髪をかき上げる。その声は大きくは無かったが、王妃の心を存分に刺した。
「申し訳ありません……」
王妃が俯いた。どうしていつもこうなのかと、その薄い色の瞳に涙が滲んでいる。
夫とは政略結婚だ。それは承知している。でも、人生は長く、それを共に歩むなら、少しでもそれが健やかに安らぎを得られるものをと王妃は努力していた。だが夫たるアルベルドは一向にその努力に応えてくれない。いや、夫婦ならば共に向き合う問題ではないのか。
そう思い悩む王妃の苦悩を、微塵も共有する気のないアルベルドは、
「まあ、よい」
と椅子から立ち上がり、扉へと向かう。
「あの……どちらへ」
「何処でも良かろう。お前は、望みどおりここで休んでいろ」
控えめに問いかける王妃に夫は吐き捨て、そのまま王妃に一度も視線を向ける事無く部屋から姿を消す。部屋に取り残された王妃は、しばらく閉ざされた扉を見つめていた。その扉は豪華で重厚であり、それだけに堅く冷たい。それは夫の心を表しているかのように、王妃には思えた。