第2話:平和な日々
「太った……」
ある日の朝、とある建物の一室でアリシア・バオリスは姿見の大きな鏡の前で下着姿となり、憮然とした表情で自身のお腹の肉を摘んでいた。元々そう太っていた訳ではないので、異性から見ればどこが太っているんだ? と首を傾げられそうではあるが、彼女自身は腰周りの円周が増したと感じていた。
なぜ太ったのかしら? と、最近の日々の生活を思い出す。とりあえず朝起きると朝食を食べる。お昼になると昼食を頂き、夜になると晩餐を楽しむ。これに午後のお茶とおやつが顔を覗かせる事もある。そして夜には寝台≪ベッド≫にその身体を投げ出すのだ。
……よくこの程度で済んでいるものだ。と我ながら今更ながら唖然とした。父親から受け継いだ太り難い体質が功をそうしていた。もし普通の女性なら倍は、いや、痩せ気味だった父親と対極にいた母親の体質が自己主張すれば、倍どころかそのさらに倍は軽い。そう思うとアリシアは背筋が寒くなった。
とにかく太った理由ははっきりした。次は今後どうするかである。
頑張って痩せるべきだろうか。それとももう少しくらい太っても大丈夫と判断すべきだろうか。健全な判断をすれば、痩せる方が良い。このまま太っては、洋服箪笥に掛かる服がすべてお払い箱になりかねない。
「エレナ? 私の服の腰のところなんだけど、直してもう少し広げられるかしら?」
鏡の隅に映っている、彼女の服を持ち控えている侍女に問い、
「ええ。少しくらいなら大丈夫と思います」
小柄な侍女は、そう言って黒い髪を綺麗に纏めた頭を軽く下げ、アリシアは、うんうん、と頷いた。
田舎から呼び寄せた忠実な侍女により、洋服達に延命処置が施されそうだと安心したアリシアは不健全な決断を下し、受け取った紺の服に袖を通した。赤い髪と茶色い瞳を持つ自分には、薄い色の物より濃い色の服が似合う。少なくとも彼女自身はそう信じている。
もっともこの不健全な判断は、彼女の職業を考えれば駄目どころか、正気を疑われるほど愚かしい選択である。彼女の同僚達が耳にすれば自身の耳が悪くなったのかと不安になるほどの暴挙であり、彼女の日常を知れば罵声を浴びせかねない。もっとも内心では、一日でよいから彼女と入れ替わりたいと羨望の眼差しを送る者も多いに違いない。
アリシアの同僚達は日々美しさに磨きをかける事に邁進していた。いかに今より痩せるかを考え、太るなど持っての外。だが、彼女達にとってはそれが当然であり存在意義なのだ。そう後宮の寵姫という職業の彼女達ならば。
アリシアはこのランリエル王室の後宮に来て3年になる。もっとも仕えるのはこの国の王ではなく、その王子だった。戦を好む第一王子が万一孫の顔を見せずに戦死してしまっては、と国王から後宮が与えられているのだ。しかも王子はまだ妃を迎えていない。
妃を迎えているならば、よほどの寵愛を得なければその妃を超えるなど不可能。しかしその妃がまだ不在なら……。王子の子種を宿せばしめたもの。そのまま自身が妃となるのも夢ではない。そう思い寵姫達は、騎士が剣をかまえるように紅筆を持ち、敵勢の威圧に耐えるように空腹に耐え、日々彼女らの戦いに身を投じているのだ。
その戦いの蚊帳の外に居る戦意の低い赤毛の寵姫が、薄いなりに少しは運動でもと庭に散策へと扉を開けると、黒い瞳と同色の長髪を後ろで束ねた男と出くわした。
「あら殿下。おはよう御座います。昨夜はお励みだったようですわね」
後宮の主であるランリエル王国第一王子サルヴァ・アルディナは、微笑む寵姫から目を逸らした。いかにも間の悪いところで顔を合わせたと、己の運の悪さに憮然とする。
女性としては背の高いアリシアより、さらに頭半分は背の高い王子が身を屈め口を開いたが、発せられた言葉は幾分言い訳がましい。朝このような場所を歩いるからには、昨夜は後宮で夜を過ごしたのだ。
「コスティラ王国に隣する国から、国王の姪が友好の証しだと使わされてきたのだ。私がコスティラを領した事に、次は自分の国かと危惧しているらしい。それを断っては無用に疑われかねんのだ」
「まあ、それは立派なお心がけです」
と顔の前で両手を沿え、少し首を傾げて微笑むアリシアの目が、上手い言い訳ですわね、と王子を見つめている。
返答に窮した王子は小さく舌打ちをし、これ以上は相手にしてはいられぬと彼女の脇を大股に通り過ぎる。その背に、職業意識が薄いというより、もはや自分の職業を忘れていると疑われる赤毛の寵姫が再度声をかけた。
「あら。せっかくですのに。お茶でもご一緒しませんか?」
「寵姫の部屋からの帰りに他の寵姫の部屋に入るなど、出来る訳なかろうが!」
瞬時に振り返り怒鳴った王子に、やはり職業を忘れていたアリシアが、ああ。そういえば、と手を叩く。
「失礼致しました。仰る通りですわね」
そう謝罪しながらも、自分の迂闊さに口元に手をやりクスクスと笑う。
「とにかく午後からは各国の宰相、大臣から報告を受ける事になっている。その準備もせねばならん。ゆっくりとはしておれんのだ」
「各国というと、例の西にあるバルバール王国の方々ですか?」
「西のコスティラ王国と、東のカルデイ帝国もだ」
それらは、サルヴァ王子が軍総司令として軍勢を進めた国々の名だった。カルデイ帝国は5年前、バルバールはその翌々年に攻め実に1年近く戦い従わせ、さらにそのまま西進しコスティラ王国をも征服した。短期間で大陸東部の3ヶ国を支配したサルヴァ王子は、希代の名将としその名を大陸に轟かせ、東方の覇者とも呼ばれているのだ。
「あら。それはいけませんわ。こんな所で油を売っていないで、早く行って下さいまし」
お前が呼び止めたのだ! と激しかけたのを、王子はかろうじて飲み込んだ。彼女の笑みを含んだ視線から、ならば前日に寵姫の部屋などに足を向け、しかもこんな時間まで部屋にいなければ良いのだ、という指摘を聴覚によらず聞き取った為である。
憮然と無言で背を向けた王子は足早に立ち去り、その背を微笑みながらアリシアは見送った。そして自身も身をひるがえすと当初の目的を忘れ部屋に戻り、更に腰周りの円周を増すべく寝台に飛び込んだのだった。
廊下で行われた2人の会話を、先日この後宮に入った美しい新人寵姫が聞き耳を立てていた。父は伯の爵位を持つ貴族だが、その父とて娘の使命の重さを思えば、そのはしたなさにも目を瞑る。己を知り敵を知れば百戦危うからず、と王子の心を射止めんとの野望に燃える彼女は、僅かな情報も漏らさぬと扉に張り付いていたのだ。
その廊下の会話に、さすがの彼女も目を丸くし、背後に控える黒髪の侍女に戸惑いの表情を向けた。
「あの赤い髪のご婦人は、本当に寵姫なの? 私には親しい……というよりも、サルヴァ殿下に対し、とてもご無礼な物言いだと思うのだけど」
「はい。あの方はアリシア・バオリス様と仰り、この後宮ではとても有名な女性だとか。私も聞いてびっくりしたのですが、アリシア様はサルヴァ殿下のご友人という事なのです」
「ご友人!?」
短期間でそれだけの情報を集めた侍女の有能を褒める余裕もなく、新人寵姫はさらに驚きの声をあげた。後宮に一室を与えられているならば、彼女も当然寵姫の1人。それが友人などとはとても信じられるものではない。
「それは、殿下からのご寵愛篤いというのではなくて?」
それならば理解できるのだ。あまりにも寵愛され、多少の無礼は許される間柄。それなら納得できる。
「いえ。そうではなく。本当にご友人という事らしく……。あれだけ親しげにしておいでながら、サルヴァ殿下がアリシア様の部屋にご訪問なされる事は無いと聞いております」
無論、先ほどアリシアが誘ったように、部屋で一緒にお茶を嗜む事はある。ここでいう、ご訪問がない、とは、サルヴァ王子が彼女を寵姫とし抱くために部屋に入ることが無い、という意味なのだ。
寵姫として抱かれなければ、そもそも親しくならないのでは? そう思うと新人寵姫の疑問は深まるばかりだった。
「昔サルヴァ殿下には、この方こそ妃と言われるほど寵愛篤い方がいらしたらしいのです。それが嫉妬にかられた他の寵姫の手にかかり……。アリシア様はその方と親しくしておいでだったとか」
「それで、その方を偲んでサルヴァ殿下とアリシア様は、親しくなったのね?」
「はい。そう聞いております」
なるほど、と頷いた新人寵姫は、サルヴァ王子を篭絡する為には、まずその友人であるアリシア・バオリスに近づくべきだと、作戦を定めた。将を射んと欲すればまず馬を射よ、である。もっとも後宮に新たに来たご令嬢の方々は、アリシアの話を聞くと大抵は同じ事を考える。この寵姫も「またか」とアリシアに軽くあしらわれるのだが、それはまた別の話である。
午後になり、サルヴァ王子は4ヶ月に一度行われる各国の政治、軍事の責任者との会議に臨んだ。王室の一室で、皆が円卓を囲み座っている。それら責任者の後ろには、それを補佐すべく各々の秘書や副官が控えていた。サルヴァ王子はランリエル軍部の責任者だが、この会議の議長も兼ねている。そもそもランリエルは報告を受ける側であって、報告する側ではないのだが。ランリエルが彼らに伝えることがあるなら、それは「通達」なのだ。
「それでは各々方から報告を頂きたい。私が知る限りでは、特に問題は無いと聞いているが」
王子は会議の開始の言葉をさりげなく発した。その声色は尖ってはいなかったが、内容は十分に鋭く、ある国の宰相が引きつった笑顔を浮べたまま背後の秘書に密かに合図を送り、慌てて読み上げる報告書を卓の下で差し替えた。
偽りの報告をしようなど小ざかしい限りだが、万一の場合にと正しい報告書も用意している辺り抜け目ない。その様子を見て見ぬふりをする王子が視線を感じ目を向けると、苦笑するバルバール軍総司令の顔が見える。
王子が自身に匹敵する。いや、超えるとも認める名将である。もっとも外見はとてもそうとは見えず、軍人としては貧弱。一般人として見てやっと普通といった体格だ。事実バルバールの歴代総司令でもっとも個人戦闘が弱い総司令とも称される男なのだ。
「そういえばバルバール王国は、軍務大臣のエドヴァルド殿ではなく、総司令のディアス殿が参られたのだな。エドヴァルド殿はいかがなされた? 何かご病気か?」
「はい。たいした事はないのですが、何分エドヴァルドは高齢でございまして。大事をとり今回は私が代理として出席する事になりました」
「なるほど。了解した。エドヴァルド殿には、私が案じていたと、お伝えしてくれ」
「はい。殿下のお言葉、伝えておきます」
そう言ってバルバールの総司令は一礼した。
「そういえば、ディアス殿の奥方が懐妊なされたとか。おめでたい事だ。何か祝いの――」
と、言葉を区切った王子は怪訝そうな顔をし、自分から目を逸らした総司令へと改めて声をかけた。
「いかがなされた。ディアス殿」
「いえ。失礼致しました」
改めてサルヴァ王子へと視線を戻したディアスだったが、その視線は僅かに泳いでいる。
バルバール軍総司令フィン・ディアスの妻ミュエル・ディアスは今年15歳になった。夫のディアスは38歳。23も年下の、娘といっておかしくない年齢の妻である。しかも大人びているのかといえばそうでもなく、むしろ同年代の少女と比べても幼く見えた。
ゆえにディアスも、子を成すとしても妻が18歳ほどになってから。と考え、親しい者にもそう話していた。しかし繰り返すが、ミュエルは現在15歳である。
ディアス自身もまだ妻と子を作る気はなかったのだが、つい、出来てしまったのだ。無論、コウノトリがやってきて彼女の腹に赤子を運んで来たのではなく、ディアスには十分心当たりがある。
彼の邸宅には、軍総司令として彼の軍略、人柄を尊敬して止まぬ従弟の少年が同居しているのだが、この件に関してはその少年すらも尊敬する総司令に白い目を向け、ディアスも立場が弱い。それゆえ妻との間に子が出来たのを喜ぶ反面、後ろめたい気持ちもあるのだった。
「まあ良い。それではまず財政についてカルデイ帝国から報告をお願いする」
以前の印象に比べ、歯切れの悪いバルバール軍総司令を訝しく思いながらも、改めてサルヴァ王子が言葉を向けると、それぞれの責任者は報告を行った。
それらの報告はサルヴァ王子を満足させるものだった。虚偽の報告も無いようだ。ランリエルでも独自に調査したといってもすべてを把握できている訳ではないが、相手にしてもどの部分について調べられたかを掴めない以上、すべて真実の報告をするしかない。
「各国天災、災害も無く財政は安定し、我が国に対する賠償金の支払いも問題ない。という事だな?」
その言葉に各国の宰相が固い表情で頷く。ランリエルの支配下にあるこの3国は、毎年ランリエルに対し賠償金を支払う事になっているのだが、さすがにここはにこやかに返答出来るものではない。
次に軍事についての報告を受けたが、それらについてもランリエルに不利益となる増兵や、軍勢の配置換えも無くサルヴァ王子が満足するものだった。
議題は、陸路、水路を利用した貿易等の経済活動に移った。戦火が終息し平和となった4ヶ国間で、人と物の動きを活発化させようというのだ。それは経済を発展させる事だけが目的ではない。交通を整備し人の行き来を頻繁にし交流させる事で、それぞれの国の民の距離を近づける。その狙いがあった。物理的な距離だけではなく、時間的な距離だけでもない。心の距離を近づけるのだ。
今まで戦乱に巻き込まれぬようにと住む者の居なかった国境付近の街道にも、現在多くの宿場町が作られつつある。町を作るにも人手が要り、新たに作る町では5年間税を免除するとの布告に、すでに多くの者が、今まで捨て置かれていた国境の土地に集まっていた。それらが完成すれば、定期的に各国を結ぶ駅馬車も運行される予定だ。
それらは次官級の閣僚が詳細を詰める事になっている。各国の宰相、軍務大臣が座っていた席には代わって次官らの顔が並び、続けて会議を行うのだ。
ディアスも会議室から出て廊下を自室へと向かっていた。王室の、しかも支配国の王室の廊下であまり礼を逸した行動は出来ぬと、伸びをしたいという衝動を抑えながら、やはり会議になど出るものではないと、次回の会議までに軍務大臣の病が良くなるようにと祈った。
「ディアス殿待たれよ」
その声に振り返る。
「これは殿下。何か御用でしょか」
「用というほどではないが、貴公と今宵酒などを酌み交わしたくてな。貴公とは――」
と言葉を切り、ちらりと辺りを見渡すとディアスの耳元で続きを囁いた。
「貴公とは共にコスティラを攻めた時以来だからな」
どうやらコスティラ宰相をおもんばかっての配慮に、ディアスは思わず微笑んだ。かつてディアスはコスティラ宰相イリューシンに、古今稀に見ると言われるほどの手酷い裏切りを行ったのだ。何せバルバールに味方したコスティラ軍を、形勢不利と見るやランリエルに売渡し生贄の羊としたのだから、ディアスはコスティラ全国民から恨まれても仕方ない。しかもその時コスティラ軍参謀を務めていたのが、現宰相イリューシンなのだ。
「確かにあの時以来ですね。分かりました。ご同席させて頂きます」
「そうか。では、夜に使いの者を寄越そう」
「お待ちしております」
2人は小さく頷き合うと、背を向けお互いの部屋へと足を向けた。
平和な日々だった。近隣諸国との関係は良好であり戦塵が舞う事も無くなった。火種を起さぬように気をつけ、災害に備え土地を肥えさせ経済を安定させる。民を富ませ人心を落ち着かせれば反乱も起こらず、他国から攻められる隙も出来ぬ。そう考え、サルヴァ王子は内政に励んでいた。国内外で、戦についてのみ名が通っていたランリエルの王子が、内政でも手腕を振るっている事に更に名声が高まっている。
すべてが順調だった。このまま幾瀬と時が過ぎれば、若き日は領土拡張に努め、後年はその安定に努めた名君。そう呼ばれるのだ。だが、その平穏な湖面に一石を投じ、波紋を広げようとする者の存在を、まだサルヴァ王子は知らなかった。