第5話:憂鬱な総司令
少女の名は、ミュエル・ハッシュといった。
「本当に12歳なのか? 童顔で12歳に見えるけど、実は18歳じゃないのかい?」
ディアスは藁にも縋る思いで問いかけたが、少女は可憐な唇を動かし自分は正真正銘12歳だと断言した。
腰まである長い黒髪と同じ色の大きな瞳。12歳にしては若干細面だったが、それ故将来の美貌が想像できた。成人すればすらりとした美しい女性になるだろう。それには後6年ほど待たなくてはならないであろうが。
いや、6年待たなくとも少女は十分他を圧する美貌を有していた。ただしあくまでも12歳の少女としての美貌であり、少女嗜好ではないディアスにして見れば、少女はどこまでも少女でしかない。
父は伯爵だが爵位は高くとも経済的にも社交界的にもあまりぱっとしない。
叔父のゲイナーは対象範囲を上流階級から大幅に広げ、少女嗜好の甥の希望にあう(とゲイナーが信じた)美貌の少女を探し当てたのだった。
いや、この段に及んではケネスに家名を継がせるのを防ぐ事だけを考え、親の地位などには目もくれなかったと言うのが正解だった。
しかも返答も聞かず「これならば文句が無かろう」とディアスが不在にもかかわらず邸宅に少女を置いていってしまったのだ。
少女の両親も、武門の名流にしてバルバール王国軍総司令ディアスに娘を嫁がせる事が出きるならと、
「良き縁談だ」と娘を送り出したのだ。もちろんディアスが少女嗜好の変態であるという、ディアスが聞けば全力で否定するであろう事は、ゲイナーによって巧みに誤魔化され、少女の両親は娘の結婚相手が少女趣味の変態だとは思ってはいない。
お父様から、ディアス殿はこの国で一番の結婚相手なのだと教え込まれた少女は、この事態に呆気にとられたディアス家の従者や使用人、そしてケネスを尻目に方々へと「ディアス様の妻になるミュエルと申します」と挨拶をして回ったのだ。
そしてなんと、その挨拶を受けた人々も少女の言葉を信じてしまったのである。
王族や国で一、二を争う大貴族を除けば、条件的には他の追従を許さぬ優良物件のディアスが、35歳にもなって未だに独身なのには何か理由があるのでは? と常々噂になっていたのだ。
「なるほどなるほど、それならば今までディアス殿が独身だったのも頷ける」
「しかしあのディアス殿がまさか少女嗜好だったとは」
「人は分からぬものですな」
このような噂がたちまち王都中を駆け巡ったのだ。さすがのディアスもこの事態には文字通り頭を抱えた。人の風評など気にしない男なのだが、ものにはすべて限度というものがあり、さすがに少女嗜好と思われるのは避けたいところだ。そしてそれ以上に、この少女に申し訳ない気持ちがある。
自分は12歳の少女となど結婚する積もりは無く、言ってしまえば手違いなのだ。そしてその手違いの責任は、叔父であるゲイナーにではなく自分にあった。ディアスはそれは認めていた。確かに叔父の行動は強引だったが、12歳の少女を嫁に欲しいと言ったのはディアス自身なのだ。
居間で頭を抱えながら椅子に座っているディアスに、ケネスが困惑気味に問いかけた。
「あの女の子と本当に結婚なさるのですか?」
「まさか……そんな事出きる訳がない」
ケネスの問いかけに頭を上げ、視線を移したディアスは、少年の顔が赤いのに気付いた。
自分には断じて少女嗜好は無く、いくら美しくても12歳の少女になど食指は動かないが、17歳のケネスにとっては十分恋愛の対象ではないのか?
ミュエルは他に類を見ない美しい少女だ。ケネスが恋心を抱くのも当然と言える。しかも一つ屋根の上に住んでいるのだ。
「ミュエルを呼んで来てくれないか?」
そう言い付けミュエルを連れて来させ椅子に座らせると、ケネスにも座るように促した。そして出来るだけ優しい口調でミュエルに話しかけた。
「お前との結婚についてだが、さすがにすぐにとは行かない。お前はまだ12歳なのだからね」
「そうなのですか?」
お父様からは、すぐにでもディアスと結婚するかのように聞いていたミュエルは首を傾げたが、夫となるディアス様がそう言うならそうなのだろうと素直に頷いた。
「それに結婚するまでには、お前にも色々と学ばなくてはならない事が沢山ある。その勉強はこのケネスが見てくれるから安心しなさい」
「え!?」
事前の相談のない話にケネスは驚いたが、ミュエルはそんな事情は知らない。
「ケネス様、よろしくお願いします」と頭を下げ微笑むと、少年は真っ赤になりながらも頷く。ディアスもその様子に満足げに、うんうん、と頷いたのだった。
さらにミュエルの部屋も便利だろうと、ご丁寧にケネスの部屋の隣りとしたのだ。ここまでお膳立てをすれば、2人が自然と恋仲になる日も遠くないだろう。自分のような父親ほどの年齢の男と一緒になるより、少女にとってよほどいい筈だ。
それに、自分とミュエルとの縁談が破談となり改めて妙齢の女性と結婚すれば、周囲に流れた自分が少女嗜好だという噂も自然と無くなるだろう。ディアスはそう考えたのだ。
翌日から、ケネスはミュエルの家庭教師となった。勿論ケネスに花嫁修業としての教師になど出来ないが「将軍の妻になるのならば学問も出来なくてはいけないんだよ」とミュエルに言い聞かせた。
「はい。分かりました」
人を疑う事を知らない素直な少女は頷き、ケネスの元で勉強に励んだのだった。
ケネスの方はというと、最近なにやら身だしなみに気を付けているようである。ミュエルを意識しているのは一目瞭然だった。
これで2人の仲が進展したところで「ミュエルの御両親には私から話を付けて置くので、私に構う事はない」と持ちかければ万事上手く行くだろう。ディアスは満足げに頷いた。
ミュエルについてはこれで一安心と気を休めていたディアスだったが、どうやら神やら創造主やらは彼を嫌っているらしい。ディアスが軍部で嫌いな事務処理を行なっていると、ランリエルに派遣していた部下から看過しえぬ情報がもたらされたのである。
「多数の軍艦を建造しているだと?」
「はい。帝国から巻き上げた賠償金のすべてを、軍艦建造に充てているのではと思えるほどです」
軍艦を建造してどうするのか? などと考えるのも馬鹿馬鹿しい。バルバールに侵攻する為に決まっている。
ランリエルにはカルデイ帝国以外にも北にベルヴァース王国が接しているが、ランリエルとベルヴァースを繋ぐのは陸路しかない。
無論、何れバルバールにも食指を伸ばすであろう事は予測していたが、それは十数年先の話と考えられていたのである。だがこれほど急速に海軍増強を進めていると言う事は、その計画も早まろう。
「現在のランリエル海軍の艦艇数は分かるか?」
その問いに部下が答えた数字は、バルバール海軍の艦艇数の2分の1といったところだった。
「そうか……。ランリエルが建造する軍艦の数に注意して逐次報告してくれ」
「かしこまりました」
指令を受けた部下が立ち去ると、改めて机に肘をついてそこから伸ばした腕で顎を支えた。
ランリエルに陸戦戦力は元々太刀打ちできない。だが海軍ならばこちらが上だ。帝国との戦いで海戦を行なってこなかったランリエルは、金のかかる軍艦の建造を必要最小限に抑えていたのである。
不要な軍艦の建造に資金を回した挙句陸戦戦力が減り、その為に帝国に遅れをとりでもすれば目も当てられない。だがそれも過去の話。帝国はすでにランリエルの軍靴の元に跪いている。
そしてバルバールを攻めるとなれば海軍は必要不可欠だ。国境の山岳地帯は大軍が展開するには不向きで、兵力差をかんがみても容易に超えられるものではない。海軍の働きで戦局は大きく変わるだろう。
ランリエルはバルバール海軍の軍艦数を把握しているのか? 把握しているとして軍艦を同数まで揃えた時点で攻め寄せてくるのか? 凌駕するまで攻めてこないのか?
それによってランリエル軍総司令官というサルヴァ王子とやらの力量も知れると言うものだ。
軍艦の運用には高度な技術を要する。オールを漕ぎ船を進ませるという基本的な動作からして、漕ぎ手全員が一糸乱れぬ動きをしなければ、オール同士がぶつかり破損して船は立ち往生するのだ。
コスティラ海軍と長年戦い続けているバルバール海軍に対し、殆ど戦った事のないランリエル海軍が同数の艦艇で挑んだところで勝負になるはずが無い。敵艦の船腹を如何に突くかという衝角戦において、船足と旋回能力の差は決定的なのだ。
それも分からず艦艇数が同程度になった時点で攻め寄せるならば、サルヴァ王子とやらの力量も高が知れていると言うものだ。だが……。長年誰にも成し得なかったカルデイ帝国征服に成功したという者の力量が、その程度であるはずが無い。そう確信していた。
それにしても、帝国の支配をもっと強固にしてから攻め寄せる方が確実であろうに、このように性急に事を運ぼうとするとは……。