第46話:悲劇の王弟
夜が明け、辺りが白み始めると見張りに立っていたコスティラ軍兵士は安著の溜息を付いた。
昨日の戦いではランリエル、カルデイ帝国という2つの国の軍勢を相手にしたが、コスティラ軍の奮闘によりその2つ共に敗走させる事が出来た。その後逆襲を受けたがそれはバルバール軍が不甲斐ない為。そう説明を受けていた。
少ないとは言えぬ被害を出したが、それでもまだ戦力ではこちらが有利なのだ。
「敵がこの劣勢を覆すには正面から戦っては不可能だ。必ずや何らかの奇策に出るはず。夜襲に備えるのだ!」
参謀であるイリューシンの命により、夜間多くの兵士が見張りに立っていた。バルバール軍も同じく警戒態勢なのか、時折軍馬の嘶きが聞こえて来る。士官が馬で各所を回り見張りの兵士を監督しているのだろう。その嘶きは夜通し鳴り、今もバルバール軍陣地の各所から聞こえた。
「ご苦労。もう大丈夫だ。戻って休め」
その声に振り向くと、所属する部隊の士官が騎馬でやって来ていた。この士官が自分の元へと来たのはこれで2度目である。士官も夜通し働いていたバルバール軍と違いなんと怠慢な。そうは思ったが一兵士の身では逆らう事も出来ない。
「ありがとう御座います」
そう言って頭を下げつつ馬上の士官の横を通り過ぎた。
「おい! ちょっと待て! バルバール軍の様子がおかしいぞ。貴様。ちゃんと見張っていたんだろうな。見張るのは敵ばかりではないのだぞ。何か変わった様子は無かったのか!」
やっと休めると思った瞬間士官に呼び止められた。バルバール軍におかしいところなど無かった。強いて言えばこちらの士官と違い、むこうの士官は働き者だった。一瞬そう言ってやろうかとも思ったが、かろうじてその言葉を飲み込んだ。そのような事をすれば自分の首が飛ぶだけである。
改めてバルバール軍陣地に目を向けた。日の光で数百サイトはなれたバルバール軍陣地の様子もよく見渡せた。今も馬は嘶いている。そして働き者の士官の姿は――見えない。見張りの兵士の姿も――見えなかった。馬だけが柵に括り付けられていた。風が吹く度に軍馬は身じろぎし嘶いている。
背筋が寒くなった。何か重大な見落としをしたのだろうか。自分の首は飛ぶかも知れない。兵士の脳裏に、自分の帰りを待つ妻の顔が浮かんだ。
「バルバール軍が消えうせただと!」
イリューシンの報告に、コスティラ遠征軍司令官王弟ロジオンは驚きの怒声を上げた。
「は。陣地各所に棘を括り付けた軍馬を残し、他の者は影も形も。風で棘が揺れると不快がった軍馬が嘶き、それにより我が軍の見張りは、バルバール軍がいると信じて疑わなかったのです。移動する物音を消す意味もあったのでしょう」
「しかし、数万の軍勢がそのように即座に物音すらほとんど立てず、撤退など出来るものなのか?」
「多くの物資が残されておりました。おそらく着の身着のまま、武器も手にした物だけ。食料すらも持って行ったか怪しいところです。全てを捨てて軍勢だけを移動させるならば……」
「しかし奴らは何処に行ったというのだ? 敵の退路を絶とうとでも言うのか? それにしてもこちらに連絡ぐらいすべきだ。そもそもそのような状態ではろくに戦えまい。何せ武器や食料もろくに無いのだからな」
なんと暢気な。コスティラ軍に連絡を寄越さず姿を消したバルバール軍を未だに味方だと考えている王弟に、イリューシンは殺意すら覚えた。自分達は死地に立たされているのだ。
「ここは敵国内です。確かに武器、食料を捨てての行軍など自殺行為。ある一箇所へ向かう事を除けばです」
「ん? そんなところがあるのか?」
「はい。あります。武器も食料もあるところに向かえば良いのです」
「なるほどな。では、ランリエル軍が武器と食料を蓄えている場所の情報でも掴み、取る物も取らず出撃して奇襲し、その武器と食料を奪おうというのだな。しかしそれにしてもこちらに一報ぐらい入れるべきだろうに」
もし王弟の言う通りならばどれほど良いか。先ほどは殺意すら覚えたイリューシンだったが、ここまで人を疑う事を知らないならば、案外良い国王になれたかもしれない。そうも思い始めた。他の人間が自分に従って当然という考えさえ改めさせればだ。もっともそれも、ここを生きて帰れればの話だ。
「いえ、違うでしょう。敵を攻撃するならば確かにこちらに連絡があるはずです。敵に向かわず武器と食料がある場所。それは国境のバルバール軍陣地です。あそこには武器と食料が蓄えられています」
その言葉にやっと王弟は狼狽し始めた。どうしてバルバール軍はそんな事をするのか。昨日の戦いでは多くの損害を出したがそれでもまだまだこちらが優勢。二度と同じ手も食わない。戦えば勝つはず。それがいきなりの撤退である。しかもこちらに悟られぬようにしてなのだ。
「イ、イリューシン。それはどういう事なのだ? なぜ我々だけを残し撤退した。戦えば勝てるのだぞ!?」
「なぜバルバール軍が撤退したか。そこまでは分かりません。ですが状況は、なぜ奴らが自分達だけで撤退したかなど、どうでもよいところにまで来ているのです」
「どうでもよい? どうでもよくは無かろう! これは糾弾せねばならん! 本国に帰ったら必ずこの責任を追及しバルバール王国の半分は奪い取ってやる! そうであろう!」
「我等に無断で国境まで退いたバルバール軍は、もはや敵対していると見るべきです。戦いによる被害はありますが、バルバール軍はなお3万を超えます。そして前方の敵勢も3万を超えます。それに比べ我が軍は僅か2万。国境を封鎖され敵国内に孤立し、3倍の軍勢に取り囲まれているのです」
だからもはや死を覚悟するしかない。そこまではイリューシンは言わなかった。
「なぜだ……。なぜバルバール軍が裏切る……。助けて欲しいと言うから手を貸してやったのではないか。このままではバルバールが滅びると言うから、我らは遠くランリエルにまでやって来たのではないか。なぜだ……。なぜこんな事になる」
ロジオンは地面に崩れ落ち跪いた。地面を掻き毟りさらに己の運命を呪い続ける。
「俺は、国王になるはずだったのだ。それが前国王が死んだ時に幼かったばかりに王位に就けなかった。後僅か数年王が生きていれば俺が次の王だったのだ。もう少しで全てを手に入れられたのだ。この戦いも勝てるはずだった。それが……なぜだ。俺が何をしたというのだ!」
地面を掻き毟っていたロジオンが突然イリューシンの足元にすがり付いた。参謀の脛の辺りの甲冑が泥と血で汚れた。地面を掻き毟った指の爪は割れ、剥がれていた。
「俺の何が悪くて国王になれなかったと言うのだ。生まれたばかりの俺に、何の責任がある。俺の何が悪くて敵中に取り残されねばならん。俺はバルバール軍の為に敵を打ち破ったではないか。答えてくれ。俺の何が悪いと言う」
その問いにイリューシンは答えることが出来なかった。
ランリエル軍本陣で、今後の対応をギリスと協議していたサルヴァ王子の元に副官のルキノがやってきた。元々は同席していたのだが、コスティラ軍からの使者が到着したとの連絡があり、その対応に席を外していたのだ。
「それでなんと言ってきている?」
「は。それが降服したい。との事です」
「そうか。敵にも戦況を見れる者が居たか。助かる」
その言葉はサルヴァ王子の心からのものだった。コスティラ王国を攻めると決めたが、やはり後ろめたい感情は抑えがたい。戦いが避けられるものならそれに越した事はないのだ。
「コスティラ軍参謀イリューシン殿より、司令官の王弟ロジオンは飾りのようなもの。我こそが軍責任者なので、自分の首をもって降服の証しとし、王弟殿下と将兵は助命頂きたい。との事です」
「いや、それには及ばん。コスティラ軍将兵は武装解除し、これより東に10ケイト(約90キロ)ほどのところに駐屯地を築いて収容せよ。コスティラとの戦いの間隔離さえ出来ればよい。いずれはコスティラ本国に帰す」
「承知致しました。早速そうお伝えします」
踵を返し立ち去ろうとするルキノをギリスが呼び止めようとしたが、サルヴァ王子が再度口を開き先に呼び止めた。
「いや、待て。――そうだな。あまり早急に降服を受け入れては、我が軍の目的がコスティラ本国であると見抜かれぬとも限らん。そうなれば決死の覚悟で抵抗する事も考えられる。多少は交渉を長引かせろ。あまり追い詰めて自暴自棄にさせぬ程度にな」
その言葉にルキノと、そしてギリスが頷いた。ギリスも同じ事を言おうとしていたのだ。情に流されるだけではない。冷静に状況を判断している。ルキノが退室すると、ギリスは改めて王子と協議に入った。
ランリエル軍は数日この場に留まる事となった。コスティラ軍を差し出した事すらディアスの罠の一環。その可能性を考慮した。
国境への進軍とコスティラ軍の移送を同時に行い、万一バルバール軍の一部が迂回してコスティラ軍を解放し武器を与えればどうなるか。自分達を売ったバルバール軍を憎いとは思っても、故郷に帰る為にはランリエル軍を倒さなくてはならない。サルヴァ王子はバルバール軍とコスティラ軍との挟み撃ちにあう。
あの夜の会談でのディアスの言葉。それを疑っている訳ではない。しかし油断も出来ない。バルバール王国を守る為。それだけを考えている男なのだ。ディアスは、自分自身すら裏切る事も辞さないだろう。
コスティラ軍の移送には十分な護衛を付けた。そして海岸線防衛の軍勢も呼び寄せた。バルバール軍はすでに3万にまで消耗している。全軍で国境を攻撃すれば、もはやバルバール軍には海岸線攻撃をする余力は無いのだ。帝国からもさらに軍勢が派遣された。その数3万。
元から居た軍勢を合わせればランリエル軍10万。帝国軍4万。計14万の大軍である。
集結した14万の軍勢は、バルバール国境へと整然と行軍を開始した。




