第44話:決戦(4):来る者、逝く者(1)
時は、バルバール軍によるカルデイ帝国への攻撃より前にさかのぼる。
バルバール王国の外交官クッコネンは、西の国境から侵入してきたコスティラ軍本陣を訪れていた。
内心の緊張を完璧なまでに隠し切り、侵攻軍司令官、王弟ロジオンとその参謀イリューシンを前に深々と頭を下げた。
「本日は目通りをお許し頂き、光栄に存じます」
「うむ。で、今日は何用でいらしたのかな?」
一応は、外面というものを理解している王弟は、クッコネンの挨拶に鷹揚に応えた。
「はい。殿下にはご存じでありましょうが、現在我が国は東のランリエル王国からの脅威にさらされております。民は怯え、国土を蹂躙されんと戦々恐々とし、生きた心地が致しません」
王弟の顔色が不快そうなものに変わった。軍勢を持って侵攻を行っているのはコスティラも同じなのだ。それを遠まわしに非難している。そう感じたのだ。
「しかしこの世は強者の物だ。力ない者が敗れ、すべてを奪われるのは仕方がない話ではないか。それが自然の摂理というものであろう」
心ならずもロジオンはランリエルを弁護した。決してランリエルにバルバールを取られるのを良しとするものではないが、自らの行為を正当化させる為にはやむを得ない。
「そうは申しましても、諦めてランリエルの軍靴に国土を欲しいまま蹂躙される訳には参りません。その為にも古くからの友人に助けを求めに参ったのでございます」
「その友人とは……もしかして、我がコスティラの事か?」
「仰せの通りでございます」
深々と頭を下げるクッコネンにロジオンは胡散臭げな視線を向けた。コスティラとバルバールは友人どころか、仇敵同士。そう表現すべき間柄のはず。いくら窮しているとはいえ、あまりにも厚顔な物言いである。
「御使者殿。我が国が貴国を友と呼ぶのは、中々苦しいのではないのかな? 御記憶がお悪いようなので改めて言わせて頂くが、先年我が国はそちらバルバール軍に攻め込まれ、多大なる被害を受けたところではないか」
「それを申すなら、コスティラこそ連年の如くバルバールに攻め込んで来ておりましょう。我が国のみ非道、という訳でもございますまい」
「ふん。ならばなおの事、手を取り合う間柄ではあるまい」
コックネンの言葉に、王弟はついに外交用の外面を破り、素顔で言葉を吐きだした。コックネンはここからが本当の外交と、内心の笑みを隠しつつさらに口を開く。
「いえいえ、殿下。長年戦い続けてきたからこそ、なのでございます。貴国としても、今更出てきたランリエルなどに漁夫の利を得られるのは、口惜しいのではありませんか? 我らとて今まで戦ってきたコスティラならまだしも、ランリエルなどとは」
「ん? なんだ? それはもしかすると、ならばいっその事と、バルバールは我が国に降服しようとでもいうのか?」
身を乗り出し、言葉尻を取る王弟にクッコネンは慌てて言い直す。もっとも内心では望み通りの王弟の反応にほくそ笑んでいた。
「いえいえ。あくまで言葉のあやでございます。確かに貴国に御助力いただかなくては苦しい状況ではありますが、さすがに降服とまでは……。どうか御容赦下さい」
「しかし我らが手を貸してやらねば、ランリエルに征服されてしまうのであろうが。ならば我らに降服しても同じ事であろう。違うか?」
「同じ事というならば、征服も降服も国が滅ぶ事には変わりありません。ならば一縷の望みをかけ、ランリエルと決戦を致しましょう。確かに勝算などありはしないでしょうが。必ず国が滅ぶという事に比べれば……」
クッコネン俯き、嘆きながら上目使いにロジオンの顔を覗き込む。その分かり易い演技に辟易しながら、ロジオンは面倒くさげに吐き捨てた。
「では、降服が嫌というなら、どのような条件で我が国に助力せよと言っておるのだ」
コックネンの捲いた餌に釣られ、本来なら助力をするかどうかを真剣に検討すべきところを、いきなり条件の話になっているのにロジオンは気付かない。コックネンもそれと気づかれないように細心の注意を払いながら答えた。
「それでは、バルバールは毎年コスティラ王国に対し、多額の献金を行うという事ではいかがでございましょう」
「多額といっても具体的にはどの程度と考えておる? それが分らんでは――」
そこに今まで黙って横に控えていたイリューシンが割って入った。
「いえ、殿下。金銭での取引はなりません。そのようなものいつ反故されるか分かったものではありません。我らの手を借り、まんまとランリエルを追い払えば、手の平を返し知らぬ顔をするは必定。我らに助力を乞うと言うなら、コスティラ軍のバルバール王国内の駐留と国境付近の領土の割譲。これは譲れません」
この言葉にロジオンは、さも自分もその事に気付いていた態でコックネンを睨む。
「そのような戯言で、私を謀ろうなど笑止な。我らをただ働きさせる積りか。騙す気ならばもう少し物を考えてから申すのだな」
「いえいえ。何を仰いますか。殿下を謀ろうなどもっての外。ただご無礼を承知で申し上げさせて頂ければ、手の平を返されるのを恐れるは、それこそ我が方でございます。我が国に軍勢を入れたコスティラ軍に、にわかに攻められては、滅亡は必至でございます。その儀はどうかご容赦を……」
コックネンは深々と頭を下げ、ロジオンはどうしたものかとイリューシンに目を向けた。
「言わんとする事は分からんでもないが、助力を求める相手を信用せんと言うなら話にならん。残念ながらお引き取り願うしかあるまいな」
イリューシンは無慈悲に言い放ったが、実は彼もすでにコックネンの術中に嵌っていた。あまりにも話のならないコックネンの条件の提示に反射的に反対した事により、条件交渉に入ってしまっている事に変わりはないのだ。
初老の外交官の演技は続く。彼は地に伏して嘆いて見せた。だが、嘆きと共に吐き出した言葉は殊勝さとは程遠い。
「ああ、それでは我が国はランリエルに攻め滅ぼされてしまいます。征服された国の兵士は酷使されるのが倣い。ランリエルに蹂躙され支配された挙句、さらにコスティラ侵攻の先手とされ、我が軍兵士は死に絶えましょう。どうか我が国、兵士達を御救い頂けませぬでしょうか」
一見、悲観にくれ懇願しているかのような言葉だが、その実、助力を断れば反対にランリエルと組み、コスティラを攻めると言う事に他ならない。イリューシンは即座にコックネンを睨みつけ、ロジオンも僅かに遅れてその意味を悟ると同じくコックネンを睨みつけた。
とはいえ、ロジオンもイリューシンも、簡単に反故されかねない金銭での代償は認める訳にはいかない。喧々諤々の協議を行い、何とか、国境の山岳地帯一帯をコスティラの管理下に置くという事で落ち着いたのだった。
一旦初老の外交官を下がらせた王弟とその参謀は、本国にも連絡しさらに対応の協議を行った。そして結論は、バルバールに助力すると決まった。やはりむざむざバルバールをランリエルにくれてやるのは口惜しく、ランリエル、バルバール連合と戦う事になるのも、避けるしかなかったのだ。
こうしてバルバール王国の西の国境を越えたコスティラ軍2万は、当初の目的を大きく変え、バルバール王国の東の国境から、ランリエル王国に突入する事になったのである。
サルヴァ王子が海岸線の軍勢を切り札にしようと考えたのと同じように、ディアスはコスティラ軍を切り札としたのである。コスティラの軍勢が国境まで辿り着いたという報告をうけ、バルバール軍はランリエル陣地群に突入したのだった。
その後サルヴァ王子が築いた堅陣、軟陣による陣地群に、軍勢を抱きかかえられたと感じたディアスは、それがバルバール軍を身動き出来ないようにする為だと気付いた。そのような事をするならば、その理由が存在するはずである。
敵を抱きかかえたなら、それを背後から刺す者が必要だ。ランリエル王都フォルキアには余力が無い。海岸線からの援軍しかありえないと看破したディアスは、こちらに向かっていたコスティラ軍に使者を出した。サルヴァ王子の命を受け、急ぎに急いで向かってくる海岸線からのランリエル軍の増援を討つ為である。
海岸線から戦場へと向かうランリエル軍は、敵軍の全戦力はサルヴァ王子と対峙しているはず。戦場まで点在する領主達も味方である。そう考え、精々前方にのみ斥候を放ち急ぎに急いでいた。そこにコスティラ軍に側面を痛撃され瞬く間に壊滅したのだった
そして追撃を叫ぶ王弟ロジオンを、参謀のイリューシンが早く主戦場に向かうべきと諌め、今、ディアスとサルヴァ王子が対峙するこの場へとやって来たのだ。
そのコスティラ軍に目を向けたままディアスは、口を開いた。
「バルバール軍の勝利と敗北。ランリエル軍の勝利と敗北。その、すべての組み合わせの鍵を、彼らコスティラ軍が握っているんだ」
思わずケネスが目を向けると、ディアスは先ほどまでとは打って変わって、なぜか悲痛とも見える眼差しをしていた。その表情に、ケネスは言葉を飲み、語りかけるのを躊躇ったのだった。
「バルバール軍の背後に現れた軍勢は、バルバール軍を襲いません!」
「なんだと!」
前線からの報告に、サルヴァ王子は愕然とし目を向けた。
「敵軍の横を通り、むしろこちらを攻撃する構えすら見せております!」
王子は本陣の天幕を飛び出した。そして自ら梯子を伝って楼閣に駆け登る。
どういう事なのか? 何をどう間違ったというのか? 悪夢のようなこの状況に、胸を強く締め付けられながら上まで昇りきると、バルバール軍本陣へと目を向けた。
新たに現れた軍勢は敵本陣の右横を通り抜け、そこで隊列を整えている。その矛先はランリエル陣地群を向いていた。距離が遠く、細部までは確認できないが、その軍旗はランリエル軍の物では無いと思われた。そして、バルバール軍の物でもない。
そこに楼閣の下から声が掛かった。
「あの軍勢の正体が分かりました。コスティラの軍勢です!」
軍旗を確認できる前線からの報告だ。報告をしたその騎士も青ざめていた。
その報告にサルヴァ王子は愕然とした。あの方角は我が方の援軍が来るはずの方角。そこからコスティラ軍が来るという事は、我が援兵はすでに敗れたという事なのか。
楼閣の柵に手をやり身体を支える。柵が無ければそのまま楼閣の下へと落下していたかもしれない。それほどの衝撃だった。
「ディアス。これが……お前が描いた絵図……か」
サルヴァ王子は、柵で身を支えながら呟いた。
そもそもこの戦いは、カルデイ帝国からの資金により軍備を増強したランリエル王国が、コスティラ王国に背後を扼されているバルバール王国を攻める。言うなれば、三ヶ国がバルバール一国を攻める。その戦いのはずだった。だが現実は、帝国はランリエルの足を引っ張り、コスティラ軍はバルバール軍と共にある。ランリエルこそが、三ヶ国を相手にしているのだ。
「如何なされますか、殿下!」
楼閣の下から幕僚達の悲痛な声が聞こえてた。その声に、サルヴァ王子はむしろ冷静になった。
如何なされますか、だと? こんな状況、もはやどうしようもないではないか。多勢を相手に、命まで削り合うような消耗戦を行った挙句、敵に新手の援軍が来たのだ。どのような策を考えようとも、もはや兵士達に戦う気力が無い。動かぬ兵士に作戦を与えてなんになると言うのか。
そう考えながら、登った時よりもしっかりとした足取りで楼閣を降りた。地面にたどり着いた王子が改めて幕僚達の顔を見渡すと、皆、疲労の影が色濃い。そして総司令たるサルヴァ王子の指示を待っていた。だが、王子自身何の策も無い。
「ここは退却すべきです」
目を向けるとルキノが立っていた。幕僚達の視線もルキノに向かった。
「我が軍将兵にもはや戦う気力はありません。ですが、退却するとなれば力を振り絞りましょう。ここはもう勝てません。他日を期すべきです」
「敵を前に、何を言っておるのか! 勝てぬまでも一矢も報いず引き上げる事などできようはずもなかろう!」
果敢でなる士官の一人がそう怒鳴り、ちらりと王子に目を向けた。戦場の勇であるサルヴァ王子も同じ考えのはず、そう思っての視線だった。
「いや、退却しよう。ルキノの言う通りだ。もはや兵士達は戦えまい。一兵でも多く退却させる。ムウリ将軍。すまないが殿を頼む。損な役回りだが……」
今考えるべきは、いかに多くの将兵の命を救えるかだった。自分が最後まで戦場に踏み止まる、などという事は出来ない。総指令にして第一王子たる自分がこの場に残っては、他の者も逃げられない。ましてや討たれでもしようものならば、指揮系統は壊滅し軍勢は真の意味で敗走する。戦いとは戦闘そのものよりも、敗走時の追撃による被害が最も多いのだ。整然と引かなければならない。
「いえ、それが私の役目と心得ております」
静かに答えたムウリ将軍の言葉に、サルヴァ王子は目を閉じた。
殿とは、退却する軍勢を追撃してくる敵勢を防ぐ役目。当然敵の猛攻を受ける。捨石と言うべき役目である。しかも、疲れ切った軍勢を率いて新手の軍勢と戦うのだ。生きて帰るのは難しい。本来、ララディと並び、国を代表する将軍であるムウリに任ずべき役目ではない。しかし今兵士達の士気は地に落ちている。並の将軍に率いられた軍勢では、戦う事すらままならない。
「私が残りましょう!」
ララディ将軍だった。虎将と呼ばれるにしては意外と細身の身体つきをしていた。虎の名は彼の外見についてではなく、あくまでその武勇に対しての二つ名である。
「追撃はコスティラ軍も来るでしょうが、バルバール軍はその先に居るでしょう。先頭は、あのグレイスとかいう敵の将軍と思われます。確かに兵の士気は落ちております。ですが私が、かの猛将に打ち勝てば味方は士気を盛り返し、敵の士気は砕けましょう。今こそ私をお使い下さい」
確かに、その通りではある。だが、突進力においてはランリエル軍一を誇る虎将は、それだけに退却戦は不得意とする筈だった。適任とはいい難い。
「背いた私を、殿下はお赦し下された。今ここで戦わねば、それこそ理性の無い獣。そう呼ばれましょう」
にやりと笑うララディに、ムウリが目を向けた。
「ならば、私はそのさらに後ろで支援しよう。そうすれば退路も確保できよう。お主は敵の猛将を打ち取った後は下がってくれ。後は我が軍だけで敵を防いでみせる」
「いや、万一の事があれば、お前まで危険になる。そうすれば、誰が殿下をお守りすると言うのだ」
総指令を前にして、武将同士が勝手に配置を決めるなど言語道断の行為。しかし当の王子を含め誰もそれを不敬だとは思わなかった。ララディは死ぬ気なのだ。皆にもそれは分かっていた。
両将配下の将兵にも損な役回りを与えるが、もはや事態は、どうすれば一人でも多く生きて帰らせる事が出来るか。そのようなところまで来ているのだ。残される者が可哀そうだから、と殿を残さず全兵で退却すれば、それこそ全滅しかねない。
「逃げおおせてみせる」
サルヴァ王子は、ララディに目を向け言った。
生きて戻れ。死を覚悟して自分を逃がそうとする者に、その言葉は言えなかった。自分が逃げ切り生き残る事が、ララディの望みだった。サルヴァ王子は、ララディが最も欲する言葉を手向けたのだ。
サルヴァ王子が背を向けると、ララディとムウリは自らの手勢へと向かった。他の幕僚達は、王子の後を追う。実際、余裕はなかった。ランリエル本陣は、三重の堅陣に守られているとはいえ、敵に半包囲されているのだ。
まず本陣の軍勢が敵の包囲下から出て、それから改めて全軍に退却命令を出した。全軍東に向かって逃げる。その先にランリエル王都があるのだ。隘路とまではいかぬが、左右を森に挟まれた細い道を進んだ。少数の殿で敵の追撃を防ぐには都合がいい。
バルバール軍は追撃を開始した。その前にララディの軍勢が立ちふさがる。小勢ではあるが、バルバール軍とてさっきまでは全線にわたり砦を攻めていたのだ。隊列が整っているとはいい難い。
そこにムウリ隊がバルバール軍に一当てした。追撃の速度が僅かながら鈍った。それを見届けると、すぐさまサルヴァ王子の後を追う。ララディへの言葉によらぬ手向けだった。
王都へと向かって駆ける、先頭の軍勢の中にサルヴァ王子は居た。全力で逃げると言っても、徒歩の者が大半である。騎乗している王子は、馬が進むに任せて思案に没頭していた。
バルバール軍は、東西の国境に軍勢を動員しランリエルに向かわせられるのは4万。それに比べランリエルは王都に1万を置いても、12万もの軍勢を動員出来た。
それが度重なる海岸線攻撃により、9万の軍勢を海岸線に張り付けさせられ、さらに敵にはコスティラからの2万援軍。こちらの援兵2万は来ず。12万対4万のはずが、遂には3万対6万。完敗だった。
屈辱すらも感じる事はなかった。12万を動員できる状況で、僅か4万の軍勢に対する。余程の愚将でも勝てるだろう。だが事実自分は4万に負けたのだ。目を背ける事は出来ない。僅か4万にだ。
違う! 突如、サルヴァ王子の背に冷たく、そして熱いものが奔った。
何かが違う。間違っている。バルバール軍が4万!? 本当にそうなのか? いや、バルバール軍は東西に軍勢を振り分け、ランリエルには4万しか対せないはず。いや、合っている。
そこにコスティラ軍2万が加わり6万。そのはずだ。
「あ……」
そうか。自分はどこまで愚かなのか。とんだ計算違いをしていた。馬上口元に手をやり、恐るべき可能性に気付いたサルヴァ王子は、改めて前方に斥候を放った。見たものは他には漏らさず、自分にのみ密かに伝えるように言っておいた。
自分の考え過ぎという事もある。しかしこの期に及んであのバルバール軍総指令がそれを見逃すだろうか? しかしそれも、もうすぐ分かるはずだ。もし自分の思い過しならば無駄に兵を混乱させるだけ。推測した通りなら……将兵に言うにはまだ早い。
サルヴァ王子は、死への道を進むかのように、胸中、黒い塊を抱きながら進んだ。進むごとにそれは大きくなっていく。理不尽。そのようにも思った。兵士達は皆無心で駆けている。前方に向かって駆け続ければ生きて帰れる。その中にあって、自分1人だけが、死に向かって奔っているのだ。
いや、違うか……。兵士達をこのような目にあわせているのも、すべて己の責任だ。この進む先に生がある。それを真のものとする、それが今の己の使命なのだ。
しばらくすると、放った斥候が戻ってきた。その報告にサルヴァ王子は、
「やはりな」と呟き、天を仰いだ。
さらにしばらく進む。その間にも重圧が王子を押しつぶす。皆に言ってしまえば楽になる。だが、言えば動揺が広がる。そのまま後退し続ければ、動揺から軍勢は四散し全軍崩壊しかねない。それを防ぐ為には、言った後、すぐ次の行動に移す必要がある。それまで己1人で耐えねばならない。
敗戦。戦いは負けたのだ。しかしまだ、敗北する訳には行かなかった。心折れ、1人耐える重圧に負けた時こそが真の敗北だった。
王子は耐え続けた。小高い丘の手前まで来た。そしてここが次の行動を移す限界の位置。そう判断すると、サルヴァ王子は、馬を止め、手を挙げ全軍を停止させた。
「ここを越えれば、逃げ切れる。隊列を整えよ!」
兵士達は訝しんだ。ここを越えれば逃げ切れるというのは分かるが、それならばさっさと越えればいい。どうして隊列を整える必要があるといのか。殿が敵を防いでくれてはいるが、いつまで持つかは分からない。一刻も早く逃げるべきではないのか。
その兵士達に、胸中に一人秘めていた事を王子は叫んだ。
「敵が退路を塞いでいる!」
バルバールは西の国境に対コスティラの軍勢を置いていた。そのコスティラがバルバールに助力しているのだ。ならばその軍勢は不要。そして当のコスティラ軍が、遠くランリエルまでやって来ている。抑えのバルバール軍もランリエルまで来ていても不思議ではない。
「最後の力を振り絞り突破する! 先陣は私が受け持つ! 生きて帰る為に戦え!」
総司令官が討たれれば戦いは負け。全軍を指揮する者は自ら剣を持って戦うべきではない。サルヴァ王子はそう考えていた。だが、今は、敵を突破出来なければ負けなのだ。
自分が先頭を行くから、兵士達にも死地に赴かせる権利を有する。そのような馬鹿げた事を考えている訳ではなかった。戦っているのは自分が戦いたかっただけの事。自分がしたい事を先んじて行ったところで、他の人間には知った事ではない。自分が死地に赴くと言うなら、勝手にやればよいのだ。しかし今あえて王子は先陣を切る。この戦いは、皆が生き残る為の戦いだった。
敵が退路を塞いでいるという言葉に将兵は衝撃を受け、地に崩れかけた。だが、サルヴァ王子自身が先頭に立つという言葉に、辛うじて持ちこたえた。そして隊列を整え始める。
隊列を整え丘を登ると下った少し先に、退路を塞ぐバルバール軍の陣が見えた。軍勢は5千ほどである。
兵法に則れば高所を取るべきだが、退却するランリエル軍の前方に突然現れる、その心理的効果を狙ったのだ。見つかり易い丘の上ではなく、ランリエル軍が丘の上まで登った時に初めて見える、その位置に陣を敷いていた。
確かにサルヴァ王子がこの可能性に気付かずそのまま進み、突然この光景を見れば、疲労の極致にある兵士達は、皆膝を折って倒れこんでいたに違いない。
退却するランリエル軍の方が数は多くとも、疲労の度合いは比べるべくもないのだ。それにバルバール軍は、追撃する友軍がやってくるまで耐えさえすればいい。
まだ日は高かった。前方にはバルバール軍旗が風にはためき、日の光が槍の穂先に反射し煌めいた。
「逃がさないよ」
バルバール軍総司令フィン・ディアスのその声が、サルヴァ王子には聞こえた気がした。




