第43話:決戦へ(2)
ランリエル軍は、帝国に援軍を派遣するに先立ち、数多くの陣を敷いていた。
「ここより2ケイト(約16キロ)後退し、そこでバルバール軍を迎え撃つ!」
サルヴァ王子の命の元、5万の軍勢は国境の険峻な山岳地帯を降り、平地に陣地群を築いた。その建設が終わると、内2万が帝国へと向かったのである。
「しかし、敵を迎え撃つなら、もっと要害の地を選んで陣を敷いた方が良かったのではないでしょうか? それに陣の数が多すぎます。複数の陣を築いて連携させ、相互に支援させるのも良いですが、ここまで多くする必要はないのではないでしょうか? これでは個々の兵力は微々たるものです。簡単に落とされてしまうのでは……」
軍勢が立ち去り彼我の戦力が逆転すると、めっきり軍勢が減った本陣でルキノが不安そうに口を開いた。
大国であるランリエル軍において、敵より多勢で戦う事がほとんどだったという事もある。だがそれ以上に脅威なのは、相手がコスティラの大軍相手に常勝を誇るフィン・ディアス率いるバルバール軍であるという事だ。並の相手ではない。
以前互角の戦力で戦うと、サルヴァ王子から聞かされた時ですら戦慄を禁じ得なかった。それが、戦力で劣勢に立たされたのだ。ルキノの心配も無理はなかった。
「分かっている。単に敵を防ぐ。それだけならば私もそうした。だがこれは、バルバール軍を殲滅する。その為の布陣なのだ」
カルデイ帝国軍総指令ギリスに送った書簡で述べたとおり、王子は攻め寄せるバルバール軍が疲弊したその時に、帝国から舞い戻った軍勢をもって攻勢をかけ敵を殲滅する計画だった。その為には、バルバール軍に逃げられては意味がない。
だが、敵に悟られずに2万の軍勢が近づくなど不可能である。
あのフィン・ディアスが偵察を怠る事などあり得ない。そうでなくとも、わざわざ司令官が命じなくとも、斥候など参謀、幕僚が当たり前として出すものなのだ。
わざと敗北し敵を誘き寄せ、斥候が用をなさないほどの猛追撃を行わさせる事が出来れば話は変わるが、ディアスがそのような手に引っ掛かるとは思えない。偽りの敗走などすぐに見破られる。奇襲は不可能と考えて良い。
「帝国からの軍勢が戻ってきたその時、バルバール軍がそうと分かっていても引く事が出来ない。その状況を作らんが為の、陣地群の構築なのだ。多くの陣を築き戦えばその幾つかは敵に落とされるだろう。敵、味方の陣は入り乱れ双方身動きが取れなくなる。その状況で無理に退却しようとすれば、大きな損害を出す事になる」
「ですが、それでは消耗戦となります。ただでさえ劣勢の我らが消耗戦を行っては、その援軍が到着するまで持ち堪える事が出来るでしょうか? 危険ではないのですか」
「だからこそだ!」
サルヴァ王子の言葉に、ルキノは目を見張った。
「ディアスは、勝つ為のあらゆる手段を講じる男だ。もっとも勝算の高い手を打って来る。そのディアスをこちらの思う通りに動かすには、こちらも相応の。いや、最も危険な状況に身をさらすしかあるまい。その為には、ランリエル軍に勝てる。勝算が高い。そう思わせる必要があるのだ。負ける。その限界の状態に我が軍を置かねばならぬ」
ルキノの身体に戦慄が走った。万全の備えを持って戦っても勝つ事が難しい強敵。その相手に対し、あえて不利な体勢で戦いを挑む。敗北を……敗北の一歩手前の状態に身を置くという事なのか。
あまりの事に立ち尽くした副官に、王子は微かに笑みを浮べて言った。
「心配するな。我が軍に勝てる、そう敵に思わせるだけで、本当に負けてやる訳があるまい。勝つ為の算段も当然している」
そして笑みを浮べたまま、さらに詳しく作戦を述べたのだった。
その笑みを浮べた言葉はルキノの不安を取り除く為、それにルキノ本人も気付いた。そして王子の言葉よりもその笑みに、不安を忘れたのだった。近頃サルヴァ王子は変わられた。ルキノもそうは感じていた。それでも、自身の作戦を味方にも秘匿する傾向のある王子が、その部下を安心させる為にその秘中の策を漏らすのは珍しい事である。
「分かりました。殿下。この戦い、殿下にすべてを託します。皆も一丸となり戦いましょう。そして必ずや勝利を!」
王子に応えるように、ルキノもその顔に笑みを浮べたのだった。
2万の軍勢を帝国に派遣しても、すぐに敵が攻めてくる事は無い。帝国を攻めていたバルバールの軍勢が戻ってから、それは分かっている。その間にも迎撃の準備をさらに固め、帝国には何度も使者を出した。
いかに策を弄し戦いを優位に進める事が出来ても、最後に勝利を掴むには、やはり帝国に派遣した軍勢が戻ってくる必要がある。
だが王子の思惑に反し、帝国軍の動きはすこぶる鈍かった。
「帝国の軍勢はまだ揃わんだと!? 帝国には元騎士、兵士など溢れておろうが。それらをかき集めれば軍勢などすぐに集められよう。それがぐずぐずと何をしていると言うのか!」
何度使者を送ろうと、今だ準備は整わず、そう返事するばかりの帝国に、サルヴァ王子は苛立ちの声をあげた。その怒声に、帝国からの返事を持って帰って来た騎士は身を縮込ませ、背に汗を流して弁明した。本来帝国からの返事の責任などこの騎士にはないのだが、王子の勢いに飲まれた態である。
「それが、帝国軍総司令であるギリス将軍が申すには、職を失い野に落ちた者共の大半は野盗へと身を持ち崩し、到底改めて召抱えるはあたわず、民衆から新たに兵士を求めそれを鍛えているところ。ものの役に立つには、今しばらくの時が必要、との事で御座います」
そう言うと騎士は平伏したのだった。
「何たる……事」
攻勢をかけるバルバール軍が疲れきったその時、帝国から取って返した軍勢が止めを刺す。それは書状でギリスにも伝えている。それが分かっているならば、早急に軍勢を整えるはずである。
あえて軍勢を整えるのを遅らせている。そうとしか考えられない。帝国の民衆を助けんが為。その為に軍勢を派遣した帝国から、ここで足を引っ張られるとは。
だが、バルバールとの戦いに勝てば、ランリエルの力はさらに強大となり帝国との差は比例して広がる。敗れれば、王子の威光は大きく揺らぐ事になる。
帝国が独立を目指すなら、意に沿わぬ行動を取るのは当たり前という事か……。考えが甘かったと言うのか。目を瞑り、王子は大きく天を仰いだ。
「殿下。お気を落とす事は御座いません。他の手を頼むのは間違い。以前コスティラがバルバールに攻め寄せた時に、そう申していたではありませんか」
「ルキノ……」
突然背後に立つ副官からの言葉に、王子は振り返って目を向けた。
「心配ありません。他を頼まず、我らのみで戦うのです。我らが力を尽くし戦えば、いかな敵が優勢であろうと、必ずや敵を打ち破る事、出来ましょう」
今度は、ルキノの言葉に王子が目を見張る番だった。ルキノは真っ直ぐに王子の目を見詰め、その顔には笑みを湛えていた。
「そうか……そうなのだな。我らのみで戦うか」
「はい!」
ルキノの言葉に、王子の覚悟は決まった。コスティラを頼まぬ。帝国に援軍に出した軍勢も、居ないものと考える。今ランリエル国内にある軍勢のみ。それだけでバルバール軍に対する。バルバール攻めは。この戦いは必ず勝つ。
バルバール王国を攻めた理由。いずれコスティラがバルバールを征服する事があれば、ランリエルと伍する大国と国境を接する事になる。それを防がんが為、先んじてバルバールを征服する。
詭弁だった。バルバールを攻めたその本心は、ただ己の力を示したい。子供っぽい自己顕示欲のすり替えだった。それを王子は、今素直に認めていた。
カルデイ帝国との戦いは、こちらから攻めなくとも帝国の方から攻めてくる。永き戦いを終らせる為には、帝国を攻め従えるしかなかった。そう言い切れる。
だが、バルバールがコスティラに征服されれば西の国境が危うくなるという話ならば、むしろバルバールを支援しコスティラを防ぐ、という手も考えられたのだ。
己の欲望の為、多くの命を失わせたのだ。兵士達の、そして民衆の。
ランリエルの民を守る為、ランリエル沖の海岸線は7万の軍勢で固めた。帝国の民を守る為、帝国に2万の軍勢を派遣した。後は、軍勢でもって雌雄を決するだけだった。
己が顕示欲の為の戦い。無意味な戦い。だが、だからこそここで止めては、今まで命を落とした者達は犬死ではないのか。必ず勝利せねばならない。
だがそれもこの一戦のみ。この戦いで決着が付かなければ、改めてバルバールとの関係は築き直す事になる。そして共にコスティラに対する事もありえる。
いや、ならばここで戦は止めるべきではないのか。戦いを続ければ、さらに死者は増えるのだ。自分の判断は正しいのか、やはり間違っているのか。
駄目だ……。迷うな。迷いを抱えたまま勝てる相手ではない。
迷いを捨て、すべてを尽くし、そしてやっと互角。そのような者を今相手にしているのだ。戦う。そう決めた以上、それ以外を考えてはならない。
まるで隙がない。王子にはディアスがそう見えていた。
事実は、ディアスとてギリスの擬態に足を取られている部分もあり、サルヴァ王子に敗北したとすら考えているのだが、それを知らず、ランリエル軍側からバルバール軍の動きのみを追うと、まるでこちらの意図をすべて察せられ、先の先まで見通した行動のように映るのだ。
だがそれもここまでだ。以前決戦を決意した時、いや、今この決断すら、ディアスが演出した通りに事が進んでいるのか。だが、ここからは、自分が築いた迷路にディアスを誘いこむ。
敵は、屈指の名将であるバルバール軍総司令フィン・ディアス。バルバール軍は4万。ランリエル軍は3万。形勢は不利であるが、他を頼みとせず戦う。そう決意してからサルヴァ王子は、副官ルキノを含めた幕僚達とも検討し、作戦を考え抜いたのだ。
ディアス。お前は強い。俺よりも……強いかもしれん。だがな、勝つのはランリエル軍だ。俺が勝つのではない。ランリエル軍が勝つのだ。
そして生きて王都フォルキアへと凱旋しよう。アリシア・オルカ、そしてセレーナ・アルディナ。お前達との約束を果たそう。
決戦を前にして、サルヴァ王子の心中は静かだった。
これから行われる戦いの結末は、既に定まっていた。
サルヴァ・アルディナ。フィン・ディアス。
両雄はこの戦いに、その智謀と、それ以外のすべてをもかけたのだ。これから起こる事の大半を、両雄のどちらか、或いは、共に認識していた。そして両雄が認識せぬわずかな事すらも、どちらかの行いが起因して発生するのだ。これから起こるすべての事象を、両雄のすべてが埋め尽くしていた。
もはや偶然というものが、紛れ込む余地はなかった。