第37話:決断(2)
ランリエル王国沖に浮かぶ船上からも、海岸線防衛の兵力が増強されたのが見て取れた。
まず、国境のバルバール本陣から敵勢の半数が姿を消したとの報告があり、その後その軍勢らしき者達が海岸線に溢れたのだ。
「ランリエル軍は、海岸線に大兵力を持ってきましたね。やっぱり敵も苦しかったんですか?」
甲板の上で、海岸線の防備を固める敵兵を遠く望みながら、ケネスにそう問いかけた。その表情と声は、尊敬するディアスの思惑どおりに事が運んだのが嬉しいのか、すこぶる明るかった。
「ああ、そうだろうね。しかし、もう少し粘ると思っていたんだが、考えていたより早い決断だったな」
それに答えるディアスは、特に浮かれる事もなくいつも通り落ち着いたものだ。
「まあ、まだ上陸作戦を続ける事は可能だろうが、今は敵本陣が手薄のはずだ。我々は本陣に帰る。皆を指令室に集めてくれ。今後の話をする」
「はい。分りました!」
とケネスは元気よく答え走って船内に向った。ディアスはその後をゆっくりと続き船内に向かった。
船内の司令室に先に着いたディアスが椅子に座って待っていると、幕僚達が次々に集まってくる。シルヴェンが最後に到着し椅子に座る。
海軍提督ライティラも含めた幕僚達が揃うと、皆の顔を一通り一瞥し普段通りの気負いない表情で口を開いた。
「今後、ランリエル軍はさらに海岸線防衛に大兵力を派遣するだろう。そうなれば上陸作戦は難しい。だがそれは始めからこちらの予定通りだ。むしろ狙っていたと言っていい。これでランリエル軍の経済的負担も増大し、国境の兵力も減った」
その説明に、シルヴェン、そしてライティラの2人を除いた幕僚達は大きく頷いた。徐々に事態が好転していく事に笑みを浮かべる者すらいた。
「そこでライティラ提督に要請がある。我々が本陣に戻った後も、ランリエル王国沖を艦隊で徘徊しい欲しい。隙を見せればまた上陸してくる。敵にそう思わせる為だ。輸送船は、まだある程度の軍勢が乗っているように見せかける為、石でも積んで喫水を深くして置いてくれ」
「簡単に言ってくれるものですな」
人の重さと同じだけ石を積む苦労を考え、海軍提督は憮然と答えた。
相変わらず総司令に対し礼を欠いた言動だが、ディアスももはや気にしない事にした。こういう男なのだ、と平然と言葉を続ける。
「よろしく頼む。後、あまり無理をしなくても良いが、隙があれば海兵の上陸もして欲しい。上陸したところに敵が来れば慌てて乗船する。という程度でも良いんだ。とにかく我々が上陸する可能性がある。そうランリエルに思わせられればいい」
他の諸将にも今後の方針などを話した。バルバール王国海岸に船が着くと皆は下船し、軍勢もすべて下ろして本陣へと向かわせる。だが幕僚達は先行し本陣へと向かった。
バルバール側国境の本陣に着いたのは、翌日の夕刻だった。
本陣の兵士達はみな一様に疲れきっていた。5万で展開し後方の3万と兵士を入れ替えながら戦うランリエル軍と、3万で展開し後方の6千と入れ替えながら戦うバルバール軍。いや、後方の6千は、時には危機状況となった戦線の援軍として戦う事もある。両軍の負担は比べるべくもない。
しかしそれも状況は変わった。今、目の前に対峙する敵勢は4万。上陸作戦に率いていた軍勢も帰ってくれば同数となる。
海岸線に大軍を張り付けるランリエル王国は、全兵を動員する事になる。これで経済的負担はランリエルにも大きく圧し掛かるはず。ディアスはついに、サルヴァ王子を五分の状態に引きずり降ろしたのだ。
問題は、ここでランリエル軍に決戦を挑むかどうかだった。とはいえ、将兵は疲労困憊しているがバルバールとしては挑むしかない状況ではある。
現在、両軍全兵動員で経済的負担は同程度と考えてよい。だがバルバール王国は、戦争開始時点から最大動員をかけているのだ。現在同じ負担だからと我慢比べを続けては、こちらが負ける可能性が高い。
もし我慢比べに勝てたとしても、西にはまだコスティラが控えている。我慢比べで僅差の勝利を得ても、その後コスティラに対抗できなくなるのだ。経済的負担の我慢比べでの勝利。それはバルバールにとって負けに等しい。
それが分かっていて尚、ディアスは決断しえずにいた。サルヴァ王子はここでの決戦をディアスは望んでいる。この状況がディアスが演出した戯曲の終幕なのだ。そう考えていた。しかしディアスにはまだ、終幕に向けて参加させるべき登場人物が残っていたのだった。
それは2人。1人はまだ舞台に姿を現さず、もう1人は自分が戯曲の出演者だとすら思わず、観客席で傍観している。
1人は、向こうから気まぐれを起こしてやってくるのを待つしかなく、もう1人は、こちらから出演を頼みに行くしかない。
しかも出向かなければならない方の屋敷は遠い。そこにディアスが出向き、不在時に気まぐれを起こしたもう1人の役者がやってくれば、演技指導を間違えるかも知れない。舞台の上で好き勝手に振舞われては、せっかくの終幕を台無しにされかねない。
その為、気まぐれな役者が登場するまで、ディアスは待たざるを得なかったのだった。
だがもう時間の余裕はない。もうすぐ終幕は上がる。気まぐれな役者はその名に反し、気まぐれを起こさないまま、舞台が終わるまで現れないようだった。
ディアスは決断し、幕僚達を集めて軍議を開いた。そして宣言する。
「ランリエル軍と決戦を行う」
短く言うと、諸将からどよめきの声が上がる。彼らの中にはうすうす察している者も居たが、やはり総指令の口からその決定を聞くと戦慄を隠せない。
しかし状況はバルバール軍に不利な面も多い。こちらから攻めるとなると敵は守りを固めよう。将兵は疲れ切ってもいる。諸将の中には不安の色を見せる者も多かった。
「なに、ランリエルは確かに大国だが、それだけに常に敵を上回る戦力で戦ってきた。今回のような同数での戦いならこちらに分がある。それに敵は今まで優位だったがゆえに、五分の状況に持ち込まれた事に浮足立っている。彼等にして見れば状況が悪化した事になるんだからね」
嘘である。あのサルヴァ王子が統率する軍勢が、この程度で浮足立つ訳がない。だが古来名将と呼ばれる者達は、将兵の士気を高める為大嘘をついてきた。
ある者は、喉の渇きを訴え進軍がままならなくなった軍勢に、この先に梅の木があるのだ、と嘘をつき行軍させた。またある者は、敵の大軍に怯んだ兵士を戦わせるた為、あの敵は戦いの後で疲れきっているのだ、と嘘をつき突撃させたのだ。
諸将の中には、その嘘を見抜いた者も幾人か居た。しかしそれゆえに彼らはディアスのついた大嘘にのり、あえて大きく頷く。彼らは自分の部隊に戻れば兵士達にも同じ事を言って、士気の鼓舞に努めるのだ。
「だが、今すぐ攻撃を仕掛ける訳じゃない。敵に増援の可能性があるのでそう余裕がある訳でもないが、出来るだけ兵士達にも休養を与えたい。決戦はその時だ」
そして陣立てをみなに説明する。先鋒を仰せつかったグレイスは、
「お任せ下さい!」
と勇ましく胸を叩いた。他の諸将も己の部署を頭に叩き込み軍議は解散した。
皆が退出した後、ケネスが声をかけてきた。
「いよいよ、決戦ですね。でも、必ずディアス将軍が勝ちますよね!」
その声は大きく張りがあり断定的でもあったが、幾分意図的なものが含まれているように感じられた。やはり、ディアスを崇拝してやまないこの少年にも、わずかながら不安があるらしい。
「ああ、大丈夫だ。何せ私は新婚だからね。しかも新妻はバルバール一の花嫁だ。こんなところで死んでは、ミュエルをバルバール一若い未亡人にさせてしまうよ」
ディアスの言葉は、いつも通り冗談めかしたものだったが、ケネスに目をやると、彼が非難がましい目で睨んでいるのが見えた。
「ディアス将軍。いくら冗談でも、言って良い事と、悪い事があります」
少年従者の言葉に、バルバール軍総司令官はバツが悪そうに目をそらして頭をかいた。
その後、船上にある間に本陣に届いた、ミュエルからの手紙を読んでいた。
本陣に着いてすぐにケネスが受け取り、さらにディアスへと渡されたのだが、軍議など慌ただしく動いていた為今まで読む機会なかったのである。
まさか新妻からの手紙を読むので軍議を遅らせて欲しいとも言えない。
手紙にはディアスがいない間に家であった事、ディアスへの労わりの言葉、そして誕生日祝いの言葉などが書かれていた。
そうか、自分は36になっていたのか。と自身それに気付かなかった事に苦笑した。しかしケネスからのお祝いの言葉はなかった。どうやら戦場での生活に、ディアスを尊敬しているはずのケネスですら、失念しているらしい。
だが……。と、では今日は何日かのかと考え慌てて暦を確認した。その日付に、ディアスは大きく安著の溜息を付いた。新妻の誕生日までまだ半月ほど残している。
12歳の新妻との年の差が、一時的に23歳差から24歳差へと、まさに3倍にも広がるのは不快だが、今は自分の誕生日が、ミュエルの誕生日の前だった事に感謝しよう。
急いで返答の手紙を書きあげる。当然誕生日祝いの言葉も添えた。そしてケネスを呼んで手渡す。
「これをミュエルに届けるように手配してくれ。危うく妻の誕生日を忘れるところだったよ」
その言葉にケネスは、あっと頭を抱えた。やはりケネスも失念していたらしい。そして手紙を受け取ると自室に駆けていく。自分も急いでミュエルへの手紙を書き上げる積りらしい。
この期に及んでも、ディアスの誕生日を思い出さなかったらしいケネスに、こいつは本当に私を尊敬しているのか? と、ディアスは少し疑いたくなった。
ばたばたと駆けていくケネスの足音が、部屋まで聞こえてくる。その音を聞きつつ、ディアスは考えた。
自分は以前より、悪人になったのだろう。
結局出番はなかったが、他の出演者に対してやろうとしていた事は、誰もが不快に顔を歪めるほど卑劣な事だった。
昔の自分なら、やりはしなかった。
いや、出演させよう、とすら、考えもしなかったはずだ。
なぜかは分かっている。守るべきものが大きくなったのだ。
守るものが増えたのではない。守るべきものは、バルバール王国とその民。それが変わった訳ではなかった。
だがその中に、まずケネスが入り、そしてミュエルが加わって、大きく膨れあがったのだ。
その膨れ上がったものを抱える為、自分は変わったのだ。
そう理解していた。
両軍は決戦を前に準備を行う。互いの将兵は、矢を抱え、馬に飼葉をやりながら、ある者は不安そうに敵陣を望み、ある者は敵意の矢を放つ。そして時が熟し、決戦という時。だが、サルヴァ王子、ディアス。両将の決断に水を差す者が現れた。
決戦を前に殺気立つバルバール本陣に、王都から伝令が飛び込んだ。伝令の騎士は、馬を駆けに駆けさせ本陣につくと、すぐさま馬上から地面に身を移し、その後は自分の足で駆け続けた。
そしてディアスの前に到着すると、跪きつつ言った
「コスティラ軍2万が、国境を越え、我が国に突入する構えを見せております!」




