表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愚者達の戦記  作者: 六三
征西編
60/443

第36話:焦土

 先日の戦いで、秘匿しようとしていた軍勢をサルヴァ王子によりすべてさらけ出されたディアスだったが、悲観はしていなかった。確かに今回すべての軍勢を見せた。あの状況ではバルバール軍に余裕はなく、さらに軍勢を隠しているとは王子も考えないだろう。だが結局軍勢は動かせるのだ。


 もちろん、どれだけ隠しているか分からない。それによる心理的効果が半減した事を認めない訳には行かない。だが致命的ではない。


 ディアスは一旦はさらけだした軍勢を改めて後方に隠した。現在のバルバール軍の配置は、国境陣地に3万。その後方に6千。海上に4千である。海軍は元々2千の海兵隊を有している。合計すれば海上の全戦力は6千。ディアスは今回あえてその配置を変えない事にした。


 サルヴァ王子との戦いは高度な読み合いとなる。その次元においては、動かない。というのも大きな一手となる。相手は何か手を打ってくるに違いない。だがその実動いていない。それがサルヴァ王子を惑わせるのだ。


 海上からの攻撃はさらに激しくする予定だ。ランリエル軍に海上防衛の兵を回させれば回させるほど、ランリエル王国の財政にも負担となる。全兵出兵により財政が逼迫しているバルバールは、そうやってランリエルにも同じ苦しみを与えなければならない。


 ディアスは自ら海上攻撃の指揮を取る為、カルナ港に駐留するライティラ率いるバルバール艦隊の元へと向かう事にしたのだ。


「敵が矢合戦のみに終始しても耐えるんだ。我が軍からは打って出るな。こちらが耐えきれず打って出れば、敵は必ず待ち構えている。みすみす敵の手に乗る事はない。なに敵の方が数が多いのは今のうちだけだ」


 国境陣地に残す幕僚達にそう指示を与えた。全軍動員すれば13万を擁するランリエル軍に対し、国境には4万しか動員しえぬバルバール軍が数で勝つ? わが耳を疑う諸将を尻目に、人の悪い総指令はその説明をしようとはせず、早々に背を向けその場を立ち去った。


 軍勢を引きつれずディアスと猛将グレイス数人の幕僚。そしてそれらの従者達。少人数の一行はカルナ港へと向かう。前回カルナ港に行った時はライティラへの要請だけだった為、ディアスと従者のケネス、そして数名の護衛という人選だった。だが今回はディアスの指揮で上陸作戦を行う事になる。その為数人の幕僚も同行するのだ。


 その中にはなんとシルヴェンも含まれていた。長期本陣を空ける事になる。その時ディアスが不在なのをいい事に、シルヴェンがその血統を盾に騒ぎたて出撃などされてはたまったものではない。気が進まないが同行させるしかなかったのだった。


 道中、ディアスが乗る馬の轡を引きながらその従者が問いかけてきた。


「ランリエル軍に数で勝てるようになるって、本当ですか?」


 未来の名将たらんとする少年にとっては興味津々の話題である。是が非でも聞き出さなくてはならない。だが現在進行形の名将は素直な性格とは程遠い。


「なに、ああ言っておいた方が先に希望が持てて、自暴自棄にならなくて済むだろ?」

 そう言ってはぐらかし、結局ケネスが何度問いかけようがそれに答える事はなかったのだ。


 カルナ港に到着した一行は時を置かずライティラと面会した。ディアスは通された臨時の海軍本部の一室で進められた椅子に座る。以前会った時と同じ部屋だ。その左右に幕僚達も座り、その後ろにそれぞれの従者が立った。


 しばらく待たされた後、太陽と潮風で肌を黒く焼いた海軍提督が現れたが、再会を喜び談笑する間柄でもない。ディアスはライティラが向かいに座ると早速本題に入った。


「ライティラ提督のおかげでランリエル王国沖の制海権を奪う事が出来た。海上からの攻撃に敵も大慌てだ。これで膠着していた戦線は動き出した。だがその動きを、こちらの笛の音に合わせて踊らさせなければ意味がない。その為海上攻撃の指揮は私が執る。提督には兵員の輸送をお願いしたい」


「それは構いません。その為の海軍ですから。ですが、総指令の事ですから色々と作戦をお持ちでしょうが、始めに言っておかなくてはならない事があります。確かに海戦には勝利しましたが、制海権を完全に制したかと言えば残念ながらそうではありません。総指令の御注文に応じかねる事もあると、覚えておいて下さい」


 総指令相手に一提督が「覚えておいて下さい」とは、なかなか居丈高な言葉だ。


 言っている事は正しいのだが、他にも言い方があると思えるライティラの言葉に、グレイスら幕僚達の椅子が軋んだ音をたてた。彼らは激し、ライティラへと飛びかかりかけたのだ。それをかろうじて抑え込めたのは、前もってディアスから、海軍提督の言葉遣いは気にするな。と忠告されていたからだった。


 そしてディアス自身もライティラの言葉使いに気にしない風に平然としたものだった。


「敵艦隊は2割以下の艦艇しか残らない大勝だったと聞いたが、それでも制海権を確保しきれないものなのか?」


 総指令とはいえ陸戦の専門家であるディアスにとって、そこまで敵が激減していれば制圧したも同然と思えた。もちろん、陸戦でも小勢で奇襲などを行い大きな働きをする事は出来る。だが広く辺りを見渡せる海上では奇襲は出来ない。とはライティラ自身の言葉である。ディアスがそれを言うと、ライティラはだからこそと説明を始めた。


「辺りを見渡せるという事は、我々がランリエル王国沖を航行すれば敵にすぐさま知られるという事です。そして兵員を満載した輸送船の足は亀のように遅い。そのランリエルの残存艦隊以下の戦力で航行すれば、たちまち餌食になりますよ。もちろん輸送船を見捨てて良いのなら、逃げられますが」


 ライティラの説明にディアスも、なるほど、と頷いた。しかしだが……と疑問も残る。ディアスは海軍提督に探るような視線を向けた。

「あえてその敵艦隊以下の戦力で航行し誘き寄せて、それを改めて壊滅させる事は出来ないのか?」


 ライティラは目を瞑り俯き加減でゆっくりと首を振った。そしてゆっくりと顔をあげディアスに目を向けた。


「あの戦いを生き残っただけあって、その24隻は他のランリエル艦艇と違います。我が艦隊にそう引けを取るものではありません。実は先日、油断し単独航行していた1隻の艦艇がその24隻に追い縋られ、逃げきれず沈められました。たとえ誘き寄せる事に成功したとしても、こちらが追い付くまでにどこかの港に逃げ込まれます。そして日が暮れて我が方が引き揚げれば、翌早朝には別の港へと移動するでしょう」


 ライティラの説明に確かに難敵だとディアスも理解したが、常では敵を軽視する事の多いこの男のその声の響きに、どこか敵を称賛するものを感じ思わずディアスはライティラに視線を向けた。その視線を受けライティラは少し苛立ったふうに目を逸した。


「男と見つめ合う趣味はありませんな。とにかく海戦を生き残ったこちらの艦艇は77隻。そして先日1隻沈められ残りは76隻です。ランリエル艦隊24隻への備えを考えれば、別々の場所に上陸させられるのは3ヶ所までとお考え下さい」


 ディアスの表情が険しくなる。3ヶ所とはいかにも少ない。時には10ヶ所を超える地点で上陸を行い、敵がそれに対応し戦力を分散させればこちらは集結し、各個撃破する。ディアスはそのような策を計画していたのだ。


 せっかくランリエル艦隊を撃破し制海権を得たと思ったら、まさかこのような足枷があるとは。敵もなかなか一筋縄ではいかせてくれないらしい。だが感心ばかりもしていられない。ライティラと改めて検討した結果。多少の時間差は出るが、3艦隊それぞれが2ヶ所分の軍勢を輸送する事は可能という結論になった。つまり6ヶ所への上陸が可能という事だ。


「もう少し、どうにかならないか?」


 6と10とでは大違いと、ディアスは未練たらしく食い下がる。しかしライティラの視線は冷ややかなものだった。


「下ろすだけならば何ヶ所にでも下ろします。ですが、それをすべて乗船させるのは困難です。帰りは泳いで頂く事になりますが、よろしいですか?」


 こうまで言われてはディアスも引き下がらざるを得ない。ディアスは最大6ヶ所と限定されながらも、ランリエル王国沖からの上陸作戦を開始した。


 まず5百兵を3ヶ所から上陸させた。最大6ヶ所上陸可能とはいえ、初めから手の内すべてを見せる事はない。前回チェーザリ伯爵が討たれた事から伏兵を警戒したのか、ランリエル側からの迎撃はなかった。


 それらの軍勢は近隣の村や港を襲い火を放った。多くの民家や施設が燃え、民衆は逃げまどう。そしてもぬけの殻となったところを思うままに略奪したのだ。


 抵抗するならともかく、基本民衆には手をかけないように厳命してある。バルバールの民より他国の民の命を優先させるなど、バルバール軍にとって存在意義の否定。そう断じるディアスだったが、殺戮趣味がある訳ではない。


 もっともこれにはさらに現実的な意味がある。それは死体は物を食わない。という事だった。長期的にランリエルの国力を奪うなら民を害す必要がある。しかし今必要なのは短期間でランリエルの財政を悪化させる事だった。


 多くの流民を発生させ、残された食料を奪う。ランリエルは彼らに食糧を提供しなければならない。1万の流民は1万の兵士と同じだけ飯を食うのだ。攻城にて敵城を兵糧攻めする時にも使われる手だが、ディアスはそれを国家規模で行う積りだった。


 もちろん話を単純化しただけで、流民には女子供も混じっている。それらが兵士と同じだけ食う訳ではない。だが海岸線の村々からでる流民の数は膨大となる。それを養うには莫大な資金が必要となるはずだ。ランリエルの財政に全軍を動員する以上の負担となる。


 しかしそれにはもう少し時がかかる。流民はまず近隣の縁者を頼る。そして次にその土地の領主。国に泣き付くのは最後となる。しかし最後になるがゆえに、その時には差し迫った状況となっている。他に食わせる者はいないのだ。


 だがディアスは、サルヴァ王子をある意味信頼していた。そうなる前に危険性に気づくはず。その危険を排除する為には、国境に配した軍勢以外のランリエル全軍を海岸線に張り付かせる必要があるのだ。


 それがディアスの狙いだった。



 翌日も上陸作戦を行った。


 国境の本隊からは、ランリエル軍による攻撃が開始されたとの狼煙が上がっている。海沿いの村が襲われたと報告を受けた王子が、また牽制の為に出撃したのだろう。だがそれは無視した。


 国境が危険とはまだ言って来てはいない。戻るならその時だった。危険と言われてから戻ってもどう急いでも丸一日以上はかかる。間に合わないかもしれない。だが危険を侵さず安全策を取れる状況ではないのだ。


 上陸地点は昨日と同じく3ヶ所。場所も同じだった。焼け払われた民家を健気にも立てなそうとする人々がいた。それらを再度追い払い、わずかに焼け残っていた民家を残らず焼き払う。


 立て直しかけられていた家も焼いた。建造物はすべて消え去った。遠くから見れば、村など初めからなかったのだ。そう見えるかもしれない。


 戦争が終わるまで村には帰れない。バルバール軍は声によらず、行動によってそれを宣言した。あまりにもひどい仕打ちなのは、命じたディアスが一番よく分かっていた。


 だがそもそも攻めてきたのはランリエルだ。そして、これをせねばバルバールの民がランリエル軍に蹂躙される。


 世の中には、自分の大事なものを犠牲にしてまで、他者にとって大事なものを守るという奇人が居る。世の中では、そういう輩を聖人とか賢人と呼ぶらしい。嘘だ。とディアスは思う。


 ミュエルと他の男の恋人。どちらの命を助けるかと問われれば、答える事すら馬鹿馬鹿しく、鼻で笑う。他の人間だって自分の愛する人を優先させるに決まっている。人は大事な者を捨てる事など出来ない。


 それでも他の者を優先させられるというのなら、大事に思っているというその言葉が嘘なのだ。

 さもなくばその大事な者より、自分が聖人、賢人と呼ばれる事の方が大事なのだろう。それならば逆に正直な奴だ。ディアスはそう思う。


 ディアスはバルバール軍総司令官となった時、バルバール王国とその民衆を守ると、そう決めた。他国の民より、バルバールの民の方が大事だった。



 ディアスとその幕僚達は軍勢を指揮する為、百名程度で海岸に上陸していた。もちろん敵襲があればすぐに乗船できるように手配してある。シルヴェンは理由を付けて船上に置いてきた。


 そこに3ヶ所に上陸した部隊の一つに、近隣領主の軍勢が接近してくると報告があった。数は2百。こちらを小勢とみて侮った訳ではなさそうだった。


 おそらく焼け出された領民の姿に、見るに見かねて飛び出したに違いない。彼らは領民を害したバルバール軍に対し、怒りの業火で身と心を燃やしている。2百全員が死兵と化し、文字通り火の玉となりぶつかってくる。まともに相手をしては多くの被害が出ると予想出来た。


「領主勢が接近してくる部隊を引かせよう。その他の部隊は急行し、追いかけてくる領主勢の両側面から挟みこめ。引かせた隊はその時に反転。敵を包囲するんだ」


「相変わらず慎重ですな。2百程度の敵、5百で十分倒せるでしょうに」


 猛将グレイスが豪快に笑った。確かにその通りだ。敵中深く入り込んでの上陸作戦の為、選りすぐんだ兵士達だ。みな肝が座っていて、死兵と化した敵にも臆することなく戦い。そして勝つ。


「まあ、戦いは何があるか分からないからね。用心するに越した事はないよ」


 そう言ったディアスの、その表情も口調も特に気負いなく普段通りだった。


 グレイスはまた

「相変わらずですな」

 そう言って笑った。別にディアスを軽視している訳ではない。彼はディアスを信頼している。心から「相変わらず」そう思っているだけなのだ。


 領主勢2百を1千5百で囲み、槍衾を作り近寄らさせず矢で仕留めた。領主勢はバルバール軍に対し一矢報いる事すらできず全滅した。誰一人降服はしなかった。


 敵の意気に感じ入り、軍勢をまともにぶつけて雌雄を決する。などという考えはディアスにはない。それをやって死ぬのはディアスではなくバルバール軍将兵だ。領主勢より、バルバール軍将兵の方が大事なのだ。


 ついにランリエル王都から海岸線防衛の軍勢が到着した。その数1万。バルバール軍の6千を大きく上回る。だがバルバール軍を率いるは、歴代総司令最高の名将と呼ばれるフィン・ディアスである。バルバール艦隊旗艦の指令室で、猛将グレイスを始め諸将は勇み、声をあげる。


「1万程度で我が軍を抑えられると思っておるのか!」

「あの援軍を壊滅させれば、海岸線はまた暴れ放題。腕が鳴ります」


 彼らの発言にディアスは、危うい。そう思った。ほとんど無抵抗の民を相手の戦いに、気が大きくなっている。いや、それだけではなく自分への信頼も大きく加味されているのだろうが、本来の目的を見失っている。


「いや、その軍勢とは戦わない。戦う必要がない」


「必要が無いとはどういう事です! 敵は向かって来ているのですぞ!」


 ディアスの言葉にグレイスが激す。普段ディアスに信頼を置き異論を唱える事のない男が吠えた。領主勢に快勝した事で気が高ぶっている。


 ディアスとて敵勢を倒せる絶好の機会があれば戦う積りはある。こちらの動きに敵が翻弄され兵力を分散させれば、その時こそこちらは集結しそれを打つ。


 だが1万に対し6千で攻撃を仕掛ける気は毛頭ない。本来の目的は戦う事ではなく、あくまでランリエル経済への打撃。避けられる戦いは避けるべきだった。


「われわれの目的は海岸線撹乱による、敵財政への打撃だ。敵勢を討つ事が目的じゃあない。ランリエルのサルヴァ王子が我が国相手に戦わずにやろうとしていた事だ。それに対抗するにはこちらも同じ事をする必要がある」


「しかし敵勢を打ち破れば、それも易くなるではないか!」


 シルヴェンが突然口を挟んできた。皆が、ディアスへの信頼を根拠に出撃を叫んでいた時は黙っていたのだが、グレイスがディアスに牙を剥いた事に加勢するつもりらしい。


 ディアスは、またか。と内心溜息をついた。


「もちろんそうだ。しかし敵勢を打ち破らなくては不可能という事ではない。戦わないと目的を達成出来ないというならともかく、戦わずとも出来るのなら危険は冒せない」


 シルヴェンはディアスを睨みつけたが、彼と睨み合っても仕方がないとディアスは目を逸らした。すると他の幕僚達が少し冷静になっている様子が見える。


 シルヴェンは軍議で、常に愚にもつかない発言をする事で有名だった。その男が自分達と同じ主張をしだした事により、彼らは血の酩酊から酔いが醒めたらしい。


 その後、冷静になったグレイスら幕僚達もディアスの主張を素直に受け入れ、ランリエルの援軍を避けて上陸作戦を続ける事に同意した。ある意味シルヴェンのお陰だった。人は使いよう。ディアスは改めて思った。


 ランリエル軍を避けての上陸作戦が続けられた。とはいっても1万の援軍はひと塊りにはならず3つに分散し各地を守った。ただし各地の領主勢と合流し、その数はそれぞれが5千から6千程度となっている。やはり戦いは避けるべきだ。


 海岸線は長い。それらの軍勢を避けても十分上陸は出来たが、ランリエル側も手を打ってきた。バルバール軍が村に到着するとすでにもぬけの殻になっている事が多くなったのだ。バルバール軍に襲撃される前に住民を避難させたらしい。


「まったく、これでは作戦は失敗ですかな」


 シルヴェンはそう言ってディアスを糾弾したがディアスは取り合わない。ディアスの目的は大量の流民を発生させる事だ。バルバール軍を警戒し、自分達が襲わない町や村の者達まで避難させるというなら、願ってもない。その時あるだけの食料を持ち出すだろうが、それにも限りはある。戦争中それで賄える訳もない。いずれ食う物は無くなる。


 空になっている町や村にも火をかけて焦土と化した。住民さえ逃がせばバルバール軍は大人しく引き上げるはず。そうランリエルは考えていたかも知れない。だがディアスにその積りはない。徹底的に破壊し燃やしつくした。再建するには長い年月と資金が必要だ。


 住民を逃がしたからもう大丈夫。海岸線の防衛兵力は僅かで良い。そう思わせる訳にはいかない。バルバール軍を放置する事は出来ない。一兵も上陸させないだけの防衛体制を敷く必要がある。サルヴァ王子にそう思わせなければならないのだった。


 その間もディアスは、上陸させる兵力を3ヶ所5百ずつと限定していた。時折制止を無視したのか飛び出してきた領主勢と戦う事もあったが、その対応もこの合計1千5百だけで行う。1千5百以上の敵ならば逃げた。


 もちろん上陸軍全軍で戦うより被害は出る。しかし敵にバルバール軍が1千5百しかいないと思わせる為の布石である。この損害は必要な損害だった。


 そして、ついにその布石にランリエル軍が蹴躓いた。チェーザリ伯爵を打ち取った時、上陸した軍勢の総数は2千5百だったが、それはランリエル軍本隊による連日の国境攻撃に、国境防備の手が足りず陸に引き揚げた。彼らはそう判断したのだ。


 今まで3ヶ所に拠点を構えていた彼らは、海上のバルバール軍を1千5百とみて軍勢をさらに分け拠点を増やした。しかしそれでも慎重を期し、敵勢より多い2千で各地を守る。


 そこに例によってバルバール軍は3ヶ所からそれぞれ5百ずつで上陸した。あえて敵が防衛拠点を作った近くにだ。その、それぞれにランリエル軍2千が襲いかかる。5百の各隊は逃走を開始した。


「敵軍の背後に2千を上陸させるんだ。前後から挟み撃ちにする」


 ディアスの命令通り、5百を追っていたランリエル軍2千のうち一つが、前から5百、後ろから2千の軍勢に挟み撃ちにされた。


「しまった! やはり罠であったか!」


 その軍勢の隊長はそう叫ぶと共に、伝令を発した。自分がやられるのは仕方がないとして、その犠牲を無駄にする訳にはいかない。他の隊にバルバール軍の数を知らせなければならない。


 しかし、軍勢を撃破したバルバール軍は余勢をかって他のランリエル軍にも襲いかかる。その隊も撃破した。3つ目の部隊にはさすがに追いつけず逃げられたが、それでもランリエル側に多くの被害が出た。


 バルバール軍は1千5百と見せかけ、その実3千5百。そう見たランリエル軍はそれに対応して防衛体制を敷いた。だがバルバール軍の真実の数は6千。結局その体制も破られさらに多くの被害を出す。


「いったい、バルバール軍の数はいかほどなのか……」


 ランリエルの援軍が拠点とする城の一室で、その将であるロンバルドは、机の上の海岸線の地図を、すぐ後ろにある椅子に座りもせず立って見下ろしていた。初老の顔に深い皺を刻んでいる。だが彼の心に刻まれた苦悩はその皺よりも深い。


 1万の軍勢で海岸線を守れと命ぜられた。しかし海岸線は長く、1万に領主勢を加えた軍勢を3つに分けただけでは到底手が足りなかった。海岸線を守るなら防衛拠点を増やさなくてはならない。


 その誘惑に負け、敵の1千5百しかないと見せかけた擬態に引っ掛かり、軍勢を分散させてしまったのだ。そして敵の罠により被害をだした。


 だがそれでも、そこから敵勢は3千5百と知れた。そう思った。しかしそれすらもまだ偽りであり、敵勢はさらに隠れていたのだ。そして再度軍を損なった。


「今のところ総勢6千ほどと報告はありますが……」


 ロンバルドの問いかけに、20代半ばの若い副官が遠慮がちに答えた。その言葉に上官は声を荒げる。


「そんな事は分っておるわ! 聞いているのは、今のところではなく、本当はどれくらいなのかと聞いておるのだ!」


 実際にはバルバール軍の上陸部隊はすでに打ち止めなのだが、騙され続けた彼らは、まるで敵が無限にいるかのような錯覚に陥っていた。


 その為、上官の意に沿う答えを副官は持っていなかった。敵は海上にありその輸送船内に敵兵が何人いるかなど分りようがないのだ。


 そして答えられない問いなのは、ロンバルド自身も十分承知していた。彼は海岸線防衛の任を果たせない屈辱に、唇を噛みしめ。拳を強く握る。その両方から血が滴った。


「国境にいらっしゃるサルヴァ殿下にお伝えしろ。ロンバルドは海岸線防備の任に耐えません、と。援軍をお願いします、とな」


 そして崩れるように椅子に座りこみ、机に肘を付いて両手で顔を覆う。無言で一礼し、踵を返して部屋を後にする若い副官の耳を、初老の将軍が洩らす嗚咽が打った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ