第35話:国境の攻防戦
その日、ランリエル王国海岸線にバルバール軍が上陸した。数は5百ほどだが、広い海岸線の手薄なところを狙って上陸した彼らの行く手を阻むものはなく、近隣の村々や小領主の館などが襲撃された。
サルヴァ王子は海岸線防衛の軍勢を手配したが、万の軍勢が一朝一夕で整うはずもなくまだ到着してはいない。防衛を任されているその地域の大領主チェーザリ伯爵は手勢と小領主達を集結させた軍勢1千を率いて駆けつけた。だが、その時はもはやバルバール軍は海賊よろしく、略奪品を船に積み海上へと身を逃していた。
「おのれ! 逃げ足の速い奴らめ!」
初老の領主は白髪が増え始めた頭髪を逆立て怒り、悔しさのあまり地団太を踏んだ。とはいえ泳いで追いかける訳にもいかずやむなく引き返すしかなかった。そしてその報をサルヴァ王子の元へと送り、伝令は襲撃の2日後に国境のランリエル軍本陣へとたどり着いた。
バルバール軍襲撃の報告にサルヴァ王子は考え込んだ。海上からの襲撃があるもその数は5百。では、やはりバルバール軍の大半は背後に隠れているのか?
バルバール軍は約4万。5百が抜けたところで約4万は約4万のまま。その5百が軍の中核をなす精鋭部隊という訳でなければ、そう戦力が変わる訳ではないのだ。いや、そもそも5百程度の軍勢など、初めから海軍所属の海兵。そうとも考えられる。
だが海上の敵は本当に5百のみなのか? 5百と見せかけその実その倍、その10倍という事もありえるのだ。だが今それを知るすべはない。やむなく王子は、チェーザリ及び海岸線地域の防衛を任されている各領主達に、改めて指示を出すだけに留めた。
「敵が5百以上居る事もありえる。王都からの増援が届くまで、目の前の軍勢の数に惑わされず慎重に対応せよ」
だが王子の懸念は不運にも正しかった。王子からの使者がチェーザリ伯爵の元にたどり着く前に、さらに翌日、入れ替わるようにチェーザリ伯爵の息子からの使者が送られてきたのだ。
「またもバルバール軍は上陸し、警戒していたチェーザリ伯爵はすぐさま打って出ました。こちらの素早い出撃に敵は海上に逃げる事も出来ず逃げ惑うばかり。われらは勇んで追撃を行いましたが、敵に追いつくと思ったその時、さらに2千の敵勢が背後から現れ……。チェーザリ伯爵は討ち死にし、軍勢も壊滅いたしました。防衛する軍勢が居なくなったと見た奴らは、好き放題に暴れ周り……多くの被害が……。無念で御座います……」
使者は唇から血が出るほどかみ締め、呪詛を吐くかのように声を絞り出した。その言葉に、王子はやはり敵勢は5百ではなかったと考えたが新たな疑惑がある。では、敵は2千5百なのか? この調子で出撃する敵勢が増えていくたびに頭を悩ますのか? いくら考えてもきりがない。
この状況に王子はある決断をした。その決断とは王都へと要請した増援の到着を待たず国境のバルバール軍に対し攻勢に出るというものである。その為一旦は後方に下げた1万も再度合流させる。敵軍1万が海上になくとも、敵勢4万に対し自軍5万。敵軍を指揮するのは名将フィン・ディアスといえど優位に戦えるはず。
ここで無理をして勝利を目指す必要はない。優勢に戦いを進める。それさえ出来れば、彼らは危機を感じ海上へ派遣した軍勢を引き上げさせる。だがサルヴァ王子はもう一つ疑念を持っていた。この攻勢すら敵将ディアスの計画のうちなのではないか?
翌日、今まで息を潜めていたランリエル軍5万は、国境を守るバルバール軍3万に対し攻勢に転じた。険しい山岳地帯である国境、しかも斜面に位置する堅牢な陣地を攻める戦いに騎兵はその出番を失い、戦いは弓兵が主役となった。
守るバルバール軍は守勢の利点である堅牢な陣地に身を隠しながら矢を射り、攻めるランリエル軍は歩兵が持つ楯に身を隠しながらその数にものをいわせ多くの矢を射った。
元々ランリエル軍の方が数が多いのに重ね、ランリエル軍は長大なバルバール陣地の数か所に戦力を集中させている。だが陣地を空に出来ないバルバール軍は、敵が攻めてこない箇所にも守兵を置かざるを得ない。その為それぞれの戦場の戦力差は数倍となっていた。
双方身を隠しながらの矢合戦に、時折その防御の隙間を縫った矢に射られ兵士が血に染まる。本来矢合戦なら、高所を占め打ち下ろすバルバール軍が有利である。だがやはり数の差が出た。長大なバルバール軍の陣地の、ランリエルから見て右翼、バルバールから見て左翼の箇所の矢勢が衰え始めた。
「殿下今です! 予備兵力をあの箇所に投入させましょう。敵陣内へ突入できれば敵の防衛体制は崩れます。勝利は間違いありせぬ!」
「さよう。陣地内から敵の弓兵に切りかかれば敵陣からの矢の雨はやみます。その間にさらに軍勢を突撃させれば、敵陣は崩壊しましょう」
幕僚達はいきり立ち血走った目で進言したが、彼らの熱情に反しサルヴァ王子は冷静に戦況を眺めていた。
バルバール軍本陣ではディアスが、サルヴァ王子と同じく冷静に戦況を眺めていた。
どうやらランリエル軍はこちらの誘いには乗らないようである。敵軍があの箇所から陣地内に突入すれば、後方に隠していた騎兵がその背後を遮断し、突入してしてきた敵兵を一網打尽にするはずだった。その為騎兵が突入し易いようにと、巧みに隠されてはいるが、わざわざ後方からあの場所まで整地を行っていたのだ。
もちろん以前よりディアスが考えていた、攻勢にでるサルヴァ王子への対応策の一部である。サルヴァ王子が戦おうとしない為一旦は紙屑と化したそれらの作戦案だったが、やっと日の目を見たのだ。だがやはり王子にはかわされた。そう考えたディアスだったが、その顔に落胆の色はない。
勝利に向けての万全の準備としてそれを行ってはいるが、そのすべてが活かされるとはディアスも思ってはいない。戦いは長く敵はこれまでにない強敵である。策の一つや二つ見破られて当然だった。
だが……と、敵将の思考を追ったディアスは、おそらく正しいと思われる敵将の意図を察すると、小さく舌打ちを漏らした。その舌打ちを耳に引っ掛けたケネスが、舌打ちの主へと顔を向けた。
「どうなさったのですか? わざと隙を見せた箇所を除けば、戦況はそう悪くないと思いますけど」
ディアスはその問いかけに両手を組み合わせ裏返しにして伸ばしながら答える。その伸ばされた手の平からパキパキと音が鳴った。
「そりゃあ、戦況は悪くならないさ。サルヴァ王子は勝つ気が無いみたいだからね」
「勝つ気が無い?」
「ああ、その通り。こちらは敵を誘い出す為に擬態とはいえ劣勢を演じているが、やはりその時に多少なりとも被害が出る。それなのに敵に勝つ気が無く誘いに乗ってくれないんじゃ、こちらは無駄に被害を出しているだけだな」
「そんな……。じゃあこちらも敵を誘い出そうとする事を諦め、純粋に防衛に徹するしかないという事ですか? でも、攻めて来たにもかかわらず勝とうとしないなんて……」
自分で考えて答えを出そう。そう考えているケネスだったが、名将同士の戦いに思考が追いつかず、結局はディアスに問いかけるしかなかった。そしてもはやディアスもケネスに自分で考えろとは言わず答えを明かす。
「国境の我が軍を圧迫する事により、海上に派遣した軍勢を引き上げさせようと言うんだろう。攻勢に出てはいるとはいえ、長期対陣によるこちらへの軍事費の圧迫も続ける積りみたいだしね。それには精々互角の戦いをすればいい。さらに言えば元々ランリエル軍の方が数は多いんだ。互角に戦っていては先にこっちが消滅してしまう。しかも実際は向こうがやや優勢だ」
「まさかディアス将軍と戦って優勢に戦いを進めるなんて……」
指揮能力なら誰にも負けない、そう信じる上官の、自分達が劣勢という言葉にケネスは愕然とした。だがその言葉にディアスは苦笑して答えた。
「言い訳をするようだが、さすがに矢合戦のみに徹せられては軍勢の数の差しか出ないよ」
「そういうものなのですか? ですがそれだったら多勢で攻める側は常に矢合戦のみに専念すれば良いという事になりませんか?」
将来の名将たらんとする少年用兵家の素直な言葉に、現在名将の中年用兵家は思わず苦笑した。
「理屈としては確かにそうなるが、陣地に籠った3万の軍勢を倒すのに矢合戦のみで壊滅させようとしたら、攻める側だって相当な被害を出してしまう。とてもじゃないが出来ないよ。通常は守勢の勢いが衰えればそこから軍勢を突入させる。その方が被害が少なくて済むからね。それを突入をせずに矢合戦のみを続けられては劣勢は免れない。たとえ相手がサルヴァ王子じゃなくてもね」
「じゃあ、もし敵将がシルヴェンでもですか?」
ケネスにとっては無能な将軍といえば真っ先に思い浮かんだ名前なのだが、シルヴェンに負ける自分というものを想像したディアスは、嫌なたとえをするものだと、幾分不愉快になり無言で頷いた。そしてその不愉快な気分を敵将にぶつけた。
「しかしどうせこっちを劣勢にさせるなら、もっと派手にやって欲しいものだよ。そうじゃないと後方に隠した軍勢の出番が無い」
「せっかく隠した軍勢を敵に見せたいんですか?」
「当たり前だろ? 隠し切った軍勢など敵にとっては居ないのと同じだ。姿は見せるさ。ただしすべては見せない。一部を見せる。今、我が軍からは1万の軍勢が姿を消している。いや海上からは2千5百が出撃しているから残り7千5百。サルヴァ王子は今その7千5百がどこにいるかに頭を悩ませているはずだ。そこに国境にも軍勢を登場させる、ただしその一部だけだ。じゃあその残りはどこに居る? 海か? 陸か? しかも軍勢は移動させる事が出来る。結局王子は海と陸両方に、1万の軍勢があるとして対応せざるを得なくなるのさ」
「なるほど……」
ケネスは、先ほどディアスが劣勢に立たされたと聞き愕然としたことも忘れ、改めて総司令に尊敬の眼差しを送る。だがその眼差しを向けられた男の顔に苦々しいものが浮かんでいた。
「その為には、陸にも兵を隠していたと印象付ける、その出番が欲しいんだ。今のままではその出番を失う。単に敵に優勢な戦いを続けさせる事になる。今はまだ隠した軍勢を出すほどではない。だが兵は消耗していく。あまり良くない状況だよ」
だがそうは言うものの、サルヴァ王子はバルバール軍が陸にも軍勢を隠している事など、すでに察している。そうも考えるディアスだった。だが確証は無い。確証無き事に状況を任せるなど現実主義者としての彼の主義に反した。
「仕方が無い。少し攻勢に出てみようか」
守りに徹するはずのバルバール軍総司令の言葉に、従者は唖然とした。
ほころび始めているバルバール軍左翼の反対側。右翼からバルバール軍の攻撃が開始された。
だが戦いは各所で行われている。右翼も激しい矢の応酬がなされ、軽率に突入できる状態ではない。そこでディアスは軍勢の突撃に先立ち、バルバール軍陣地から巨大な丸太を落とさせた。本来敵が陣地間際まで攻め寄せて来た時に、敵を押しつぶす為準備されていた物である。
丸太はランリエル軍に向かい怒号を立て斜面を転がり落ちた。その様は下敷きになれば圧死する事を兵士達に想像させるには十分だった。
「丸太か!」
敵陣からの思いもよらぬ攻撃に、ランリエル軍兵士達はあせりの声を上げた。とはいえ距離を置いての矢合戦である。丸太がランリエル軍に到達する前に、弓兵は丸太の転がる先から逃げ出していた。
だがその間にバルバール槍兵は陣地から出て、丸太を追いかけるようにして突撃を行い、丸太を避け安心しきっていた彼らの間近にまですでに迫っていた。
ランリエル弓兵はあわてて弓に矢をかけるが、バルバール槍兵の突入までに矢を射る事が出来た者はわずか。至近距離の戦いでその長所を失った弓兵達は次々と槍の穂先の餌食となる。
矢合戦の楯の役割を担っていたランリエル歩兵もあわてて応戦するが、丸太突入による陣形の乱れから効果的な反撃が出来ない。しかも逃げ惑う味方弓兵の為さらに混乱した。
味方左翼崩壊の危機に本陣へと救援依頼の使者が出された。その報に先ほどまで右翼から攻勢をかけるべき。そう勇ましく主張していた幕僚達の顔色は蒼白となった。
「すぐさま左翼へ援軍を、このままでは左翼の動揺が全軍に広がります!」
「さよう。このままでは戦線は崩壊しこの本陣も危険となりましょう」
幕僚達の悲観的な意見が飛び交う中、そこにサルヴァ王子配下のムウリ将軍が口を開いた。王子の幕僚の中でも冷静沈着な指揮に定評のある男である。
「出撃した敵右翼を壊滅させる事が出来れば、逆にこちらにとって好機。敵は斜面を駆け下りる勢いを利用し攻勢に出ておりますが、撤退するにはそれが足かせになります。敵を本陣手前まで引き付け、そこで予備兵力を投入し迎撃いたしましょう」
「ああ。そうしよう」
ムウリの発言の正しさにサルヴァ王子は頷き、短く答えた。まさに王子自身そうすべきと考えていたところだったのだ。予備兵力に迎撃の準備を整えさせると共に、各戦線へは味方左翼の撤退は作戦の内と報告させた。味方の動揺を抑える為の処置である。
逃げ惑うランリエル弓兵を追いバルバール槍兵は敵本陣を目指した。逃げ惑う敵と共に突入すれば、その動揺はすぐさま他の兵士にも広がる。勝敗は早々に決するはずだった。だが敵本陣前の比較的平坦な場所まで進軍した時、そこでランリエル騎兵が襲いかかった。
騎兵にとって、槍衾を作る槍兵の列に突入するなど自殺行為。だがバルバール槍兵は、敵を猛追していた為その隊列を乱していた。敵騎兵の突入をいともたやすく許してしまったのだ。
両軍は、追う側、逃げる側、先ほどまでの役割を入れ替え戦う。バルバール槍兵は懸命に逃げ、平坦な個所を抜け出し斜面までたどり着いたが、そこで足が鈍る。長大な槍を持ちながら斜面を昇るのは思いのほか困難だった。しかも後ろから敵が迫っている。敵に背は向けられぬ。とはいえ後ろ向きに昇るには困難な急斜面。バルバール槍兵進退きわまりこの場で全兵討ち死にするかと思われた。
だがそこに突如バルバール陣地とは別の方面からバルバール騎兵が姿を現す。騎兵は急斜面を駆け下りランリエル騎兵に突入する。激しい戦闘が開始されたが、斜面を駆け下り突入したバルバール騎兵が勢いにおいて勝った。
バルバールの予備兵力が投入された。この報告にサルヴァ王子はすぐさま指示をだす。
「その予備兵力の兵数を確認せよ。正確にだ!」
本陣で椅子に座ったまま鋭い視線で命じる王子に、命ぜられた副官のルキノはすぐさま偵察の兵士を複数だした。
「敵予備兵力はおよそ4千です」
しばらく後にルキノはそう報告した。各自報告された数について誤差を検討し間違いないはずである。
「4千か……」
その報告に王子は短く呟いた。予想通りバルバール軍は軍勢を隠していた。だがこの4千がすべてなのか? 他にも隠している可能性はあるのか。他にもあるとしてどうすればそれを炙り出せるのか?
ランリエルとてまだ予備兵力は残している。左翼の戦いにさらにそれを投入すれば、敵はそのすべてを見せるのか? 敵にまだ予備兵力があった場合、左翼での戦いはお互い予備兵力を出し切っての総力戦となる。しかも仕掛けてきたのはバルバール側。コスティラ相手に国境の防衛線を戦い続けてきた彼らである。その戦いは敵に一日の長がある。ここで無理をすべきではないかも知れない……。
その時王子は不意にある事が気にかかった。それを副官に問う。
「右翼で敵の矢勢が衰えていた箇所があったな。その方面の状況は今どうなっている?」
各戦線からは王子がすぐさま指示を出せるようにと、戦況が変わるたびに使者が送られてきている。ルキノは右翼からの報告の使者を王子の前に引き出した。
使者は王子の前に跪き幾分緊張し答える。
「は! 一時は勢いを失った敵でしたが、今は勢いを取り戻しつつあります」
「敵は勢いを取り戻しつつあるというが、こちらの攻撃の手を休ませたのでは無いだろうな?」
「敵の勢いが衰えたなら、さらなる猛攻を加えるのが常道。ましてや攻撃の手を休めるなど――」
「分かった」
王子は使者の言葉を、軽く手をあげ遮ると考え込んだ。放置された使者は、王子の御前から下がる事も出来ず居心地悪そうに跪き続ける。だが王子はそれに構わず自身の思考に没頭した。
単純に敵の増援が来たとも考えられるが、それにしては簡単に回復しすぎる。これはそもそもがわざと劣勢を演じたという事ではないのか? なぜそのような事をするのか? 我が軍をおびき寄せる為としか考えられない。だがその敵が勢いを回復しつつあるとすると……。
王子は突然椅子から立ち上がり、目の前で跪き続けていた使者に命じる。
「敵の勢いが完全に回復する前に、右翼をそこから突入させよ! 既に敵の勢いが回復しているなら不要だ。急げ!」
使者はその命令に転がり出るように本陣を後にした。ランリエル軍を誘き寄せようとしていた箇所がその口を閉じるという事は、誘き寄せては危険な状況に変わったという事だ。敵は右翼での戦いの為に隠していた予備兵力を、左翼への戦いに移したと推測出来る。それゆえ今こそ右翼に突入させるべきだ。そして左翼は徐々に後退させる。
だが王子にもまだ迷いはあった。バルバール軍の予備兵力が4千以外にもいるのではないか? と、いうのがその迷いの元だった。結局王子は残存する予備兵力を本陣に留めざるを得ない。
もし右翼の戦いにこちらの予備兵力のすべても参加させ、左翼にまだバルバールの予備兵力が隠れていた場合、さらに敵が予備兵力を投入し左翼を攻撃すればそれを救う軍勢は最早ない。そして左翼を破った敵軍は本陣に迫り窮地に陥る。それに備える為、王子は本陣の予備兵力を手元に置いておくしかなかったのだった。
「そっちに来たか」
隠した兵士の一部を効果的に見せる事に成功したディアスだったが、それ以外については思い通りに事が運ばず、思わず舌打ちしつつ言った。ディアスはまだ兵を隠してはいるが、そのすべてを見せる積りはなかった。所在不明の兵力の存在が、さらに敵を不安にさせる。その効果を狙っての事である。
だがバルバール軍右翼の戦いに、ランリエル軍がさらに増援を派遣すればそれには対応せざるを得ない。その為隠した兵力は右翼の後ろに移動させていたのだ。
だがランリエル軍はその右翼ではなく、敵を誘い込もうとしてわざと劣勢を演じさせていた左翼に、今頃になって攻勢をかけてきた。左翼は体制を整えつつあったが、完全に整う前の突如の猛攻に演技ではなく事実として劣勢に追い込まれた。このままでは敵に陣地内への侵入を許し全線崩壊の危機に陥る。
「右翼の状況はどうなっている?」
ディアスは内心の焦りを隠し、近くにいた士官に落ち着いた声で問いかけた。先ほどはつい舌打ちしたが、不要に他の者を不安にさせても仕方がない。士官は総司令の落ち着いた声に、感染したかのように落ち着いて答えた。
「我が軍右翼は、予備兵力の突撃で敵を食い止めている間に体制を立て直し、整然と後退を開始しております」
「分かった。右翼の撤退が完了すれば突撃させた予備兵力もすぐに撤退させるように。もし敵が追いかけてくれば、もう一度陣地から丸太を落とせ。それで足止めできる」
ディアスはそう指令をだし、現在まだ隠したままの右翼後方の予備兵力を左翼へと移動させよと重ねて命じた。本来この兵力は敵が追撃してきた時、丸太を落とすのと呼応し再度突撃させる為のものだった。そうなれば敵に大きな被害を与えられる。だが状況はそこまでの欲張りを許さない。予備兵力は左翼の危機にまわさざるを得なくなった。
結局、バルバール軍左翼、ランリエル軍右翼の戦いは、バルバール軍予備兵力2千の到着にランリエル軍は突入を断念した。バルバール軍にしてみれば本来敵を誘い込むはずの戦場だったが、演技による劣勢の仮面がはがされた今、それを行う余裕は無く純粋に防衛に徹するしかなかったのだ。
そしてバルバール軍右翼、ランリエル軍左翼の戦いはランリエル軍からの追撃は行われず、そのまま収束した。
この戦いによる両軍の損害は、激戦が行われたにも関わらず双方の総司令が適切な対応をとった為大きなものにはならなかった。だがバルバール軍総司令フィン・ディアスの思惑は破られ、バルバール軍は後方に隠した予備兵力全兵の姿を見せる事になったのだった。