第33話:ランリエル王国沖海戦
「ランリエル艦隊を殲滅して欲しいと?」
カルナ港の臨時海軍司令部の一室で、従者であるケネスを背後に立たせたバルバール軍総司令フィン・ディアスの言葉に、ライティラ提督は探るような視線を向けつつ言った。
ライティラ提督は40過ぎの背の高い男で、黒い瞳と黒い髪を持ち、その髪は短く切りそえられている。海の強い日差しと潮風に焼かれ肌も黒かった。
臨時の海軍司令部には、臨時の名に相応しく急いで用意したと思われる新しいが重厚さの欠片もない机と椅子が並んでいた。その椅子に座るライティラに向かい合って座るディアスは、数秒ほど前に言った台詞を繰り返した。
「そうだ。現状、陸での戦いは膠着状態だ。双方守りを固め、攻めた方が不利な戦いを強いられる。これでは動きようがない。この状況を打破するには海で勝つしかない」
「しかしランリエルから攻めて来ておるのですぞ。いずれランリエル軍が先に動きましょう。その時こそ戦えば良いではないですか」
ライティラのもっともな意見に、ディアスは自らが洞察したサルヴァ王子の思惑について説明した。バルバールを追いつめるその策略を語るディアスの顔色は明るいものとはなり得無い。
そして、戦わずにバルバールを追いつめるという恐るべき策謀に海将ライティラも唸った。目の前の敵を倒す事が勝利に繋がる。多くの軍人が考えるその常識が否定されたのだ。
しかし……と、海将は鋭く、そして幾分優越感を含んだ視線を、王子の策謀により苦悩する総司令に向けた。
「この現状を打破するに、我が艦隊の力が必要という事ですな?」
この危機的状況に対し優越感に浸れるライティラの思考に、まあそれも頼もしいと言えるかとディアスは苦笑した。そしてならばと、その優越感を助長させる言葉を吐く。この手の男は調子に乗せれば乗せるほど御しやすく、そして力を発揮する。
「そうだ。提督率いるバルバール艦隊の力が必要だ。提督にランリエル艦隊を撃破してもらわなくては、バルバールには後がない」
「わかりました。現状実数はともかく、戦力としては我が艦隊とランリエル艦隊は互角と言えます。ですが、互角の相手ならこちらに分があるでしょう」
互角なら分がある。言葉として矛盾を含んでいる、とも思われるライティラの発言だが、その自信も根拠なき妄想ではない。
ディアスの陰に隠れてはいるが、ライティラとてコスティラ海軍に対し常に勝利している提督なのだ。そしてコスティラ艦隊は常にバルバール艦隊の戦力を上回っていた。地形による有利はあるとはいえ、戦力に勝る敵に勝ち続けているのだ。
確かに大言壮語の過ぎるきらいはある彼だが、同じく常勝であるディアスほどの名声を得てはいない。それは皆の戦いの目が陸戦に向きがちなのと、ディアスが総司令でライティラはその配下という事もある。ライティラの勝利はバルバール軍全体の勝利の一部として埋没してしまうのだ。そしてバルバールの勝利は、総司令ディアスの勝利だった。
ディアスに対し、己を誇示したいというライティラの欲求も無理はなかった。そのライティラに改めて現状を説明する。
「私は当初、海軍戦力で敵を上回り敵艦隊を撃破しようと考えていた。だがどうやらランリエルも同じ事を考えていたらしく、敵もこちらの想定以上の艦艇をそろえて来た為その計画は崩れた。だから提督には攻撃を差し控えて貰い、守るに有利な陸戦で勝敗を決しようと思っていた。だが、さっきも言ったとおりその思惑も外された。予想を大きくね」
そして、現状の深刻さに比べ、やや軽い動作で首をすくめたディアスは、それをおさめると改めてライティラに視線を向けた。
「ところで……、私が艦隊の出撃を止めていなければ、提督はすでにランリエル艦隊を撃破出来ていたかい?」
ディアスの視線には「もちろんだろ?」とでもいう風に、ライティラの自尊心をくすぐる要素が含まれていた。ライティラは「当然です」と返答するとディアスは予測したが、その返答は予想を外した。良い方向に。
「いえ、それは無理です。現在ランリエル王国沖の時間帯毎の潮の流れ、風向きを調査しているところです。もちろん平時は軍艦はともかく商船はバルバール王国沖とランリエル王国沖を自由に行き来しております。それらからも情報は得ておりますが十分とは言えません。戦うにはまだ情報が不足しております。戦うならその情報が集まった後ですな」
自信過剰な者は、敵を侮り十分な準備を行わず戦う事が多々あるが、どうやらライティラの自信は、自らの実績と十分な準備を根拠としてのものらしい。そう判断したディアスは、少し侮り過ぎたかと内心反省しつつ改めて勝算を問うた。
「それでその情報は集まったとして、戦力が互角の敵にどうやって勝つんだい? いくら情報を集めても、やはり地の利はランリエル艦隊にあるんだろ?」
ライティラはわずかに姿勢を正すと、微かに笑みを浮かべディアスの問いに答えず、逆に問いかけ返してきた。
「ディアス将軍。1.5倍の敵を倒すにはどうすべきとお考えですか?」
ディアスはその問いにわずかに考え込んだ。難しい問いではない。だがそれゆえに何か裏があるのかとも思ったのだ。だがここで考え込み正解を当ててもしょうがないと、はじめに頭に浮かんだ事をそのまま口に出した。
「その手段は置いておくとして、最も単純な方法としては、奇襲や挟撃だろうね」
「ええ。その通りです」
それだけ言うとライティラの口は動きを止めた。ディアスはライティラの顔に探るような視線を向ける。確かにそれらが可能ならば勝てるだろう。だがランリエル艦隊の提督とてそれくらいは分かっているはず。それにむざむざ敵が引っかかると思っているのか? と、一瞬ライティラの能力に疑問を持つほどだった。
ライティラは、ディアスの考えを察したように笑みを浮かべたまま再度口を開く。
「ですが、視界が開けた海で戦う艦隊戦ではそれらはほとんど不可能なのです。奇襲、挟撃しようにも、近づくまでに敵艦隊に気付かれ、敵もそれに対応した動きをするでしょう。もちろん、視界の悪い入り江などに敵を誘いこめば話は別ですが、戦場と想定されるランリエル王国沖にそのような場所はありません」
「では、海戦で戦力に勝る敵に勝つにはどうしたら良いと言うんだい?」
ライティラはディアスの問いかけにすぐには答えず、己に仕える従者に何やら話しかけた。従者は足早に部屋を出た。するとライティラは改めてディアスに視線を向け言った。
「ディアス将軍は、軍議にて諸将に机上演習の駒で自らの作戦を説明する事があるとか。私も少しそれの真似事をさせて頂きましょう」
その言葉にディアスではなく、ケネスがわずかに身じろぎした。少しディアスを意識する事過剰ではないか。と彼を尊敬する少年は不快に思ったのだ。だが当の本人を差し置いて従者が激する訳にはいかない。ケネスはディアスの後頭部に視線を向け、押し黙るしかなった。
そして持って来られた机上演習用の駒を机の上に置き、ライティラはそれを説明した。
「机全体を海。ランリエル王国沖に見立てましょう。私はバルバール艦隊を担当しますので、ディアス将軍はランリエル艦隊を担当して頂けますか?」
ディアスはその言葉に黙って頷いた。バルバール艦隊の作戦を説明するのに、ライティラがバルバール艦隊を担当するのは当然である。
そして軍艦に見立てた駒が2人に配られた。実際の戦力を模している為、駒の数はディアスがライティラの1.5倍を持っている。そして2人は、それらを相手に穂先を向けて並べた。
机上演習が始まると、まずライティラは艦隊を二つに分け、その分けた一隊でランリエル艦隊の側面を突こうとした。先ほどディアスが言ったとおり挟撃をしようというのだ。そのディアスは、自らも艦隊を分け対峙する。分けた数はライティラが分けた数の1.5倍である。これでバルバール艦隊の挟撃策は封じられた。
だがライティラは分けた艦隊をさらにそれぞれ二つに分け、再度挟撃しようとする。ディアスもそれに応じさらに艦隊を分ける。しかしライティラはまたもや艦隊を分けたのだ。これで分かれた艦隊は8つ。だがディアスはそれには応じず、手を止め、その代りに口を動かした。
「敵艦隊の側面を突く為に艦隊を分け続けた行き着く先は、艦艇同士の一騎打ちって事かい?」
「はい。このまま艦隊の分割を続けていけば、そういう事になります」
互角に戦う為には、バルバール艦艇1に対しランリエル艦艇1.5が必要。だが現実に0.5隻などというものは存在しない。ランリエル艦隊が1.5倍の数でも、最終的にバルバール艦艇とランリエル艦艇との戦いは1対2と1対1の組み合わせに辿り着く。
1対2となったバルバール艦艇は、ランリエル艦艇を上回る船足を生かし逃げに徹する。そして1対1になったバルバール艦艇とランリエル艦艇との戦いの勝敗は明らかだ。たとえランリエル艦艇が逃げに転じても、船足が違う為逃げ切れない。そして1対1の勝負がバルバール艦艇の勝利で終われば、後は2対2の戦いだ。2対2でもバルバールの勝利は動かない。
だが、とディアスは顎に手をやり考えた。理屈は分からないでもない。とはいえ、あまりにも机上の空論過ぎるのではないか? 現実に敵が艦隊の分割に最後まで付き合ってくれるとは思えない。ある程度の段階で敵もこちらの意図を察し、何かしらの手を打つだろう。
ディアスがその考えをライティラに述べると、ライティラはにやりと笑い口を開いた。
「もちろん、敵将が余程の馬鹿でない限り気付くでしょうな」
この夜、海軍司令部内の一室に泊まったディアスとケネスだったが、ライティラのディアスへの言動に普段は温厚なケネスは激怒し、ディアスは宥めるのに苦労したのだった。
それから数日後、ランリエル艦隊が駐留するイオミ港に、バルバール艦隊来襲の報がなされた。艦隊を率いるランリエル海軍のカロージオ提督は艦隊の出撃を命じる。
カロージオは年齢も30前半と若い。実戦経験こそ少ないものの、演習において抜群の成績を修め将来のランリエル海軍を担う人材と目されていた。もっともランリエル海軍に海戦の経験が豊富な者など存在しない。経験が無いなりにもある程度の経験は必要という判断と、将来の成長を望むならある程度の若さも必要。それらの考えによる若き提督の任命だった。
その若き提督に率いられたランリエル艦隊はイオミ港から続々と出港する。バルバール艦隊をはるかに上回る数の艦艇はランリエル王国沖を進み続け、程なくして両艦隊は対峙した。
「敵の動きに注意を怠るな! 何か動きがあればすぐに報告せよ!」
実数はともかく戦力としては互角。この状況にサルヴァ王子からはこちらからは手を出すな。そう厳命されている。その命令は、守りを固め対峙し続け、バルバールの財政を破綻させ勝利するという作戦によるものだ。だが取りようによっては、戦力が互角なら勝算は薄いから闘うな。とも取れる。
並の者なら、自らの能力を評価されていないと不満を持つところだ。いや、数はこちらが多いのに戦力は互角と思えという分析自体がそもそも屈辱的といえる。その根拠は海軍を率いる提督の力量を元にしているのではなく、海兵の質の差を根拠としているといえどもである。だが、将来のランリエル海軍を担う人材と目されるだけあってカロージオの器は大きかった。現状を素直に受け入れ、ならばと将来の成長を目指していた。
ランリエルがバルバールを平定すれば、熟練のバルバール海軍の提督達と交流を持つだろう。その時は、彼らに教えを乞おう。若き提督はそうとまで考えていた。そしてバルバール艦隊提督ライティラは、その教えを乞いたい人物の筆頭ともいえる人物である。油断するなど夢とも思わず、敵の動きにすぐに対応できるようにと、バルバール艦隊の動きに細心の注意を払った。
そしてバルバール艦隊にその動きがあった。
「バルバール艦隊が二手に分かれました。我が艦隊を左右から挟撃しようと目論んでいると思われます!」
双方の軍艦は船首に衝角と言われる金属の角を装着している。そして帆に風を受けて進む帆走艦ではなく、オールを使って進むガレー船だった。大量の漕ぎ手を必要とするが、機動性において帆走艦とは比べ物にならない。その戦いは、衝角を敵船にぶつけて穴を開け転覆させる衝角戦。敵船の正面からぶつかってもお互いの衝角同士がぶつかるだけである。敵船を撃沈させるには船側を突く事が重要だった。ライティラの動きは正攻法といえる。
二手に分かれた敵艦隊の片方だけを追えば、残った一方に側面を突かれる。その為カロージオも、正攻法で来たライティラに対するにこちらも正攻法で対応すべく、振り返って背後に控える幕僚達に命じた。
「こちらも二手に分かれ敵艦隊に対応せよ! 艦艇数はそれぞれの1.5倍だ」
カロージオの対応に、バルバール艦隊は距離を保ちながらも舵を切り、それぞれ対峙する艦隊の側面を突こうとする。だがその度にランリエル艦隊も舵を切りそうはさせず、むしろバルバール艦隊の側面を突こうとした。両艦隊は旋回しつつ相手の隙を窺い、ランリエル王国沖に大きな船の渦が2つ出来た。その2つの渦は徐々に距離を置き離れていく。そしてまたバルバール艦隊に動きがあった。
「それぞれの敵艦隊が、またも二手に分かれました!」
この敵艦隊の動きに、カロージオは背筋に冷たいものが走るのを感じた。さすがにランリエル海軍の将来を担う人材である。早々にバルバール艦隊の、ライティラの意図を察したのだ。艦隊同士の戦いとは、いかに組織的に艦艇を動かすかにかかっている。だがバルバール艦隊はそれを放棄し、各艦の個人運動。つまり艦艇による一騎打ちにかけてきた。確かにそうなればバルバール艦艇が圧倒的に有利なのだ。
ランリエル艦隊としてはそれに乗る訳にはいかない。カロージオはそう考えたが、数瞬の逡巡の後、彼が発した命令はライティラが望むものだった。
「こちらもさらに艦隊を分け、それぞれの敵艦隊に対応させよ!」
その後、しばらくして手旗により各艦にその指示が伝えられていく。カロージオはその様を苦々しげに見つめながら、巡るましく思考を回転させた。
艦艇同士の一騎打ちではバルバール艦艇にランリエル艦艇は勝てない。だが……。現実に、艦隊の側面を突こうとする敵の動きを無視する訳にはいかないのだ。どうするか? どうすればこの状況から脱却できるのか? 今現在、双方4つに分かれている。一騎打ちの状況になるまでにはまだ間がある。それまでにこの状況を打破する手を考えなければならない。
そこにまたもや敵艦隊が分かれたとの報告が入る。カロージオはこれで8つ。と思いながら、ランリエル艦隊もさらに分かれ、敵に対応するように命じた。
まだだ。まだ大丈夫なはず。とカロージオは、敵の意図を破る手だてに頭を巡らす。そこに士官の一人が焦った様子でカロージオの前に飛び出して来た。
「マイーニ艦長に、艦艇8隻の指揮をさせ分かれた敵艦隊に対応するように命令を出したのですが、マイーニ艦長の艦と指揮を任せた艦が指示通りに動きません!」
だがカロージオは報告者の100分の1も焦らない。
「マイーニ艦長に命令を出し続けろ」
取り乱す事無く改めてそう命じたのだ。そのしばらく後、マイーニ艦長に率いられた8隻の艦艇は命令通りに動きだした。
伝令が行き来する陸の戦いとは違い、海戦では連絡は手旗信号で行われる。無いには越した事はないが、見落としなども考えれらる。また現在両軍の艦隊は数部隊に分かれ乱戦に近くなり、それに伴い命令も複雑化している。手旗信号での命令の伝達とそれに対する反応が少しぐらい遅れても無理はない。
だが、それはバルバール艦隊も同じはず。と考えたカロージオの脳裏に、すぐさま警鐘が鳴らされた。いや、バルバール艦隊に命令伝達の遅延、齟齬はない!
バルバール艦隊は、はじめからこの艦隊の分割運動を計画しているのだ。何隻の艦艇がどの艦の指揮下について分割し行動するか。それらは前もって決められ、旗の一振りで動いている事も考えられる。
だがランリエル艦隊はそうは行かない。カロージオの「敵に合わせてこちらも艦隊を分割せよ」の一言の命令の裏で、幕僚、士官達は、分割したバルバール艦艇の数に合わせてこちらも分割するのに、どの艦がどの艦の指揮下に入るかを検討するところから始めなくてはならないのだ。そしてその後に、その複雑な命令の手旗信号による伝達である。
しかも、バルバール艦隊の誘導により、その命令を発する旗艦と他の艦艇とは、徐々に距離が離れている。ゆえに、その伝達は艦艇を介した伝言となり、さらに命令伝達の速さと確実性は旗艦との距離に比例し失われていく。
このまま行けば、艦隊同士の一騎打ちとなる前に、ランリエル艦隊の指揮系統は崩壊する。バルバール艦隊の動きに対応が取れなくなるのだ。そうなればバルバール艦隊にいいように料理される。組織的な動きを放棄し艦艇同士の一騎打ちが狙いと見せかけ、だがその実、真の狙いはランリエル艦隊の指揮系統の破壊だった。バルバール艦隊はむしろ組織的に動き、ランリエル艦隊は壊滅させられる。
カロージオは艦艇同士の一騎打ちの状況になるまでは安全と考えていたが、ライティラの策はむしろその逆。艦艇同士の一騎打ちになるまでは安全と錯覚させる事だった。カロージオは有能ゆえにその策にはまり、艦艇による一騎打ちになる前に、その対応を考えようとバルバール艦隊の分割に付き合ってしまったのだった。
カロージオは、未来の師と考えていたライティラに恐怖を感じるとともに、その尊敬の念を深くした。自分など到底勝ちえぬ。だがこうなっては最後まで戦い。少しでもバルバール艦隊に損害を与えるしかない。その為には、これ以上の艦隊の分割には付き合わず、敵艦隊がさらに分かれたなら、その片割れに最大戦速で持って突入する。
分かれたもう一方からの挟撃は受けるが、それまでは数の優位を持って敵に対して損害を与えられる。現在、双方艦隊運動に終始し、一隻の衝突も行われていない。だが艦隊の分割の繰り返しにより、すでに乱戦の状況を呈している。
バルバール艦艇の優位はその船足と旋回能力。乱戦により双方動きが鈍れば、バルバール艦艇のその長所の幾分かは失われる。だがそれによって勝てるとカロージオは夢見ている訳ではない。それでもやはりバルバール艦隊が勝つ。だが普通に戦うより多くの損害を与えられる。ただそれだけの事だ。
一隻でも多く敵を道連れにする。カロージオはその命令を発する為、背後に立つ幕僚達に振り返った。そしてその者達の顔を一瞥する。この者達を死なせる事になる。だが多くの敵を倒す為には仕方がない。幸いにも戦いは乱戦……。
突然、カロージオは驚愕の表情で船首に向きなおった。その眼前に、入り乱れる両艦隊の姿が見える。なぜ乱戦になっている? バルバール艦隊提督ライティラの手腕ならば、自分程度の者など、もっと綺麗に勝てるのではないのか? 彼がその気ならば、乱戦などにせず、わずかな損害で我が方の艦隊を完膚なきまでに叩き伏せる事も可能だ。そして、ランリエル艦隊は惨めに港へと引き上げる事になる。
その時、僥倖ともいうべき、気づき、がカロージオの全身を走った。錯覚に次ぐ錯覚。重ねられた誤認識。今カロージオが考えるべき事は、全く逆の事だった。ライティラに追い詰められたカロージオはまたもや彼の術中にはまっていたのだ。そして再度、幕僚達へと振り返る。
「全艦撤退! イオミ港へと引き上げる。それが不可能な艦艇は、どこでもいい。とにかくどこかの港に逃げ込め!」
だが、カロージオの命令に幕僚達は戸惑いの色を隠せない。この乱戦の状況で撤退を開始すれば、敵の格好の餌食。半数も逃げ切れまい。しかも、まだ戦いは始まってすらいないのだ。せっかく出撃したにもかかわらず敵前で撤退するなど、ただ損害を出しに来ただけではないか。だがカロージオはそれを察し険しい表情で口を開いた。
「お前達の言いたい事はわかる。これは私の誤りだ。そもそも出撃した事が間違いだったのだ。出撃しなければ勝っていた」
カロージオの言葉に、幕僚達は意味が分からず顔を見合わせた。
撤退を開始したランリエル艦隊に対し、バルバール艦隊旗艦の指揮卓に座していたライティラはすぐさま追撃の命を出した。その声には幾分焦りが見えた。
「目先の敵よりも、とにかく敵の逃げる先に回り込め! 一隻も逃すな! 急げ!」
敵は戦いもせずに撤退を開始した。まったく情けない限り。敵艦隊撤退の報に、そう考えていた幕僚達は、にもかかわらずいつもの余裕を感じさせない提督に思わず視線を向けた。だが、その提督と目が合い慌ててそらす。
ランリエル艦隊の行動は、まったく損害を出す為に出撃して来たとしか思えない。並の者ならばそのあまりに無様な状況に耐えられず、わずかでもバルバール艦隊に損害を与えようと戦いを挑むはず。それがここまで潔く撤退を開始するとは……。海戦経験が少ないはずのランリエル艦隊提督の英断にライティラは唸った。
海軍戦略には「存在する艦隊」という思想がある。それは一言で表すと「艦隊は存在する事に意義がある」という事だった。極端にいえば、戦争において戦いに勝利する事自体に意味はない。正確に言えば勝利した結果何を得られるかが重要であり、それを得られなければ勝利しても意味はない。
そして海の戦いにおいてのそれは、海路による移動と輸送、そして連絡の自由だった。だが敵艦隊が存在する。それが自由を奪う。話を単純化すれば、10隻の敵艦がどこかに存在するなら、その襲撃に備え輸送船1隻派遣するのにこちらも10隻の軍艦をつけねばならない。いや、輸送艦を守りながらの戦いなら、同戦力でも不利と考えられる。
それゆえのライティラの焦りだった。ランリエル艦隊に半数。いや、3分の1でも逃げられれば、バルバール艦隊による制海権確保に大きな障害となる。到底自由な行動とは言えなくなるのだ。そういう意味では、出撃しなければランリエル艦隊の勝ちだった。というカロージオの言葉は確かに的を得ていた。
バルバール艦隊はコスティラに攻め寄せた時、港に潜む敵艦隊に対し火をつけた老朽艦を突入させて焼き払ったが、それを知ったランリエルではその対策を取っている。同じ手は使えない。その為ランリエル艦隊を壊滅させるには海戦に引きずり出し、そこで全滅させねばならない。
カロージオの考え通り、ライティラにはもっと華麗に、バルバール艦隊の損害を最小限に留める戦いも出来た。だがそれでは多くのランリエル艦艇を取り逃がす。その為の乱戦だった。乱戦になればバルバール艦艇の損害も増えるが、ランリエル艦艇の損害も増大するのだ。被害は少ない、だが意味のない勝利をする方が、はるかに無駄死にと言うものである。
ライティラは旗艦を前線まで進ませ追撃の指揮を執った。散り散りに逃げようとするランリエル艦に対し、バルバール艦を一隻ずつ向かわせ、集団で突破しようとする艦隊は冷静に包囲した。
ランリエル海軍は全体としてはバルバール海軍にその質で劣る。だが先頭を逃げるランリエル艦隊旗艦の搭乗員は、さすがに選りすぐりの者ばかり。容易には追いつけない。だがイオミ港の手前で、ついにライティラ率いるバルバール艦隊は、ランリエル旗艦を捕捉した。
ランリエル艦隊旗艦に対し、その行く手を阻むようにバルバール艦隊旗艦が船首を向けて立ちはだかった。だが、立ちはだかるバルバール旗艦に向け、ランリエル旗艦は猛然と突進を開始する。
「敵艦突入してきます! 提督、回避を!」
正面衝突の恐怖にバルバール艦隊提督の背後に並ぶ幕僚達が叫びをあげた。だが幕僚達の叫びとは逆に、命令を発するライティラの口調はあくまでの冷静だった。
「こちらも前進せよ。敵艦の船首にこちらの船首をぶつけるのだ」
ランリエル旗艦は何度か船首の向きを変えたが、そのたびにバルバール旗艦は船首をその向きに合わせる。そしてついに両艦は正面から激突した。お互いの船首につけられた衝角同士が激突する。衝角自体は金属製で破損はなかったが、それを取り付ける木造部分は破壊され、両艦とも僅かずつながら船首から海水が侵入しだした。
ランリエル旗艦の行動は、敵旗艦を道連れにしようとのものだった。だがバルバール旗艦の、ライティラの意図はそれに応えようなどという、安っぽい騎士道精神の産物ではなかった。敵艦が突入して来てその衝角から逃れられそうになければ、下手に避けようとして船側をさらすよりもこちらも衝角をぶつけるべき。その冷静な判断によるものだった。
両艦は船首がぶつかり合い動けなくなった。そしてランリエル旗艦の甲板にランリエル艦隊提督カロージオが姿を現す。ライティラはバルバール旗艦の指揮卓からその姿を見やった。
軍艦の構造などそう変わるものではない。カロージオもバルバール旗艦の指揮卓の位置へと正確に視線を向けた。未来の師となるはずだった男と、未来の弟子になるはずだった男の視線が混じり合う。そして弟子の唇が動いた。戦いのさなかの騒音でその声は聞こえず、唇の動きを正確に読み取れるほどの距離でもなかったが、不思議とライティラにはその言葉を理解出来た。
「生け捕れ!」
突然発したライティラの言葉に、一瞬の戸惑いの後、幕僚達が各艦にその命令を伝達しようとした。だがそれよりも早く、一隻のバルバール艦がランリエル旗艦の側面を突いた。せっかく敵旗艦が動きを止めているのだ。それを撃沈しようとするのは当然の行為だった。ランリエル旗艦は、船側に大穴が空き瞬く間に沈没する。船が沈没する時、海面にいる者も一緒に海の底へと引きずり込まれる。到底救助など出来ようもない。
だがこの勝利に、ライティラの心はすぐれなかった。膠着状態を打破する大勝利を挙げ、これで情勢はバルバールに傾く。少なくともバルバール総司令官ディアスはそう考えている。ディアスや他の者達もライティラの功績を認めない訳にはいかない。にもかかわらず、ライティラの胸中にはなぜか敗北感にも似たものがわだかまっていた。
あの時、ランリエルの提督は間違いなくこう言ったのだ。
「勉強になりました」
敵を侮るとまでは言わぬが、敵将を尊敬するなど思いもよらぬライティラは自答した。自分が敗北した時に同じ言葉を言えるのか、と。そして、言えぬ。と結論付けた時、自分が何か卑小な存在のように感じたのだった。
バルバール艦隊96隻、ランリエル艦隊141隻で行われたこの戦いで、バルバール艦隊からの執拗な追撃を振り切り港に逃げ込む事が出来たランリエル艦艇は24隻。帰還しえたのは全艦の2割にも満たない。ランリエル艦隊は117隻もの艦艇を失った。バルバール艦隊の損害はわずか19隻だった。
あのままランリエル艦隊が乱戦に突入していれば、倍のバルバール艦艇を撃沈しえた。ただしその代償として、ランリエル艦艇は全艦、海の藻屑と消えていた。しかし24隻残った事により、バルバール海軍の輸送、連絡に確かに障害を与える事になるのだった。