第32話:剣戟無き戦い
バルバール軍4万とランリエル軍5万が国境で対峙し、すでに2ヶ月が過ぎていた。だがこれといって目立った戦闘は行われていない。精々がお互いの偵察部隊同士の遭遇戦であり、それも戦線が拡大する前に収拾していた。
守りを固めるべきバルバール軍が戦線拡大を回避するのは当然として、攻勢に出るべきランリエル軍も消耗戦を嫌うかのように兵を引いた。バルバール軍諸将に疑念が湧き上がる。
我らは守兵側。手を出さぬのは当然だった。しかしわざわざ攻め寄せてきたランリエル軍が、無為に日を重ねるのは何の理由があってか。
バルバール軍総司令ディアスは、本陣に諸将を召集し軍議を開いた。本陣は木造で小規模ながら砦としての機能を有している。長期の対陣になるのは想定されていた。天幕での長期対陣ではやはり体調が優れぬ者も出てくる。バルバール国境には、本陣ばかりではなく多くの砦が並んでいた。
「ランリエル軍の動向についてみなの意見を聞きたい」
開口一番そう述べた総司令の言葉に、早速自らの見解ある者が口を開いた。
「サルヴァ王子はカルデイ帝国侵攻時にも戦闘を行わず、長期にわたり対峙致しました。しかしそれは、一気に王都を陥れる策の準備を行う為だったのです。今回の一見無為な対峙も何らかの策の前触れかと思われます」
発言者は自信満々に述べ、敵将の過去の戦闘を調べた上での発言に多くの者が頷いた。
勿論情報を重んじるディアスも、カルデイ帝都攻略戦については詳細に調べ上げていた。ゆえに今意見を述べた武官の見解もその認識の範疇にあった。
そして入念な偵察、考察の結果、ランリエル軍に奇襲、奇策の気配は無いという結論に達していたのだ。つまりディアスの見る限り、ランリエル軍は正真正銘無為に日々を過ごしているのだ。
ディアスはその無為にこそ、ある可能性に思い当たり恐怖していた。軍議に諸将を招いたのは、自身の見解以外の意見を聞き、その可能性以外の道筋を見出さんが為のものだった。だがその目論見に反し、諸将の意見はディアスの見解を超えない。
「確かにその可能性は高い。みな警戒を怠らず持ち場を守ってくれ」
本心をたばかり、内心の落胆を隠して武官の発言を認めた。ディアスの懸念は確定事項ではない。不要に諸将へ不安の種を撒く必要は無かった。また警戒を強める事は無駄ではない。
その後もディアスの意に沿う発言は無く、すべてが想定した範囲内の意見ばかりだった。軍議は早々に終了しディアスに認められた意見を述べた男は大いに面目を保ち、足取り強く本陣を後にする。ディアスはその後姿を僅かに冷めた目で見送った。
諸将がみな去った後、ディアスと寝食を共にし、幾分はその顔色を読むのに長けたケネスが、上官の心中を敏感に察し遠慮がちに口を開いた。
「ディアス将軍。何か心配な事でもありますか?」
「いや、なんでもないよ」
そうディアスは答えたものの、やはり少年に向けた総司令の顔色は優れているとは言い難かった。
さらに1ヵ月後。
ランリエル軍に動きがあった。対峙3ヶ月目にしてランリエル王都フォルキアから、2万5千の軍勢が戦場に到着したのだ。
バルバール諸将に戦慄が走る。遂にサルヴァ王子の秘策が発動されるのか。警戒はさらに強化され一兵卒に至るまで緊張が広がった。
その中で総司令官フィン・ディアスのみ、冷やかな目でランリエル軍が構築した敵陣に、王都からの援軍が姿を消していく様を眺めていた。
数日後、敵陣から数千の軍勢が発した。しかしその方向はバルバール国境を示さず、ランリエルに向いていた。そしてその翌日にも数千。次の日にもまた数千。遂には2万5千の増援と同数の軍勢がランリエル王都に向かった。結局は休息の為軍勢の半数を交代させた。ただそれだけと思われた。
この動きにバルバール諸将は拍子抜けし、総司令官は戦慄した。これはやはり想定した最悪の状況。そう確信したのだ。
本陣の執務室で、脇に従者であるケネスが控えているのを忘れたかのように、部屋の主は机に添えられた椅子に座り硬く目を瞑って思案に耽っていた。
ランリエル軍に戦う意思はない。無為に対陣を続けるだけ。それこそがサルヴァ王子の秘策だった。今はまだ持っている。しかしいずれバルバール王都から急使が来るだろう。軍資金が尽きると。
バルバールはコスティラ国境の砦の軍勢をあわせ4万7千。ランリエルは5万。動員している軍勢はほぼ同数。しかし国力に対する総動員数との相対で考えれば、バルバールは最大動員に近いが、ランリエルは3分の1程度なのだ。海軍の動員を考えても、ランリエルの負担はバルバールの半分以下。
国庫に対する負担は比べるべくも無い。この危機に対するには、バルバールは国民に対しての増税しかない。そして国民も仕方なしと応じるに違いない。だがこれが続けばどうなるか?
なにせバルバール軍はろくに戦っていないのだ。国民は戦費の浪費と見るだろう。下手をすれば増税拒否から内乱すらありえる。
それに対するには、守りを固める敵に対し不利を承知で戦いを挑む事だった。そして損害を出せば国民も、兵士も必死で戦っているのだと納得する。だがそのような事を出来る訳がない。
不利と分かっての損害を出す為の戦いなど、ただの自殺行為である。バルバール軍は、バルバール王国とその民を守る為存在する。そう断ずるディアスですらさすがに躊躇する。
いや、その行為によって確実にバルバールが勝利するというならその方法も有り得た。軍資金不足により兵糧が不足し軍勢が瓦解するよりは良い。だが事実は、それを行ったところで僅かばかりの延命でしかない。その後しばらくすれば、また国民から不満が出るに違いない。その度に自殺行為の戦いをするのか?
まさに腹を満たす為、自分の足を食らう大蛸だ。軍勢は消耗し疲弊する。遂にはランリエル軍に駆逐され、そしてバルバール王国は蹂躙される。それでは意味は無いのだ。
だが……それではどうするのか? 座して資金不足、食糧不足により軍勢が瓦解するのを待つか? 何か手を考えなくてはならない。勿論、一戦しランリエル軍を撃破するという絵空事を除いてである。
今まさに、バルバール軍総司令官フィン・ディアスは敗北しようとしていた。一度も戦わずに。
このまま勝敗が決すれば、ランリエル国内では、サルヴァ王子はなんと楽な戦いをしたのだ。そう囁かれ、みなはこの結果に拍子抜けするに違いない。
まさに兵法で言うところの、戦上手は簡単に勝つ為その功は理解されず賞賛もされない、の言葉通りである。だがその相手は、バルバール軍史上最高の総司令とも称されるフィン・ディアスであった。決して楽な相手ではない。
だが、戦争に勝つという事はどういう事か? 敵軍を壊滅させる事か? 敵将を討ち取る事か? 首都や城を落とす事か? 国王を討ち取る事か?
いや、それらのすべて行っても、新たな王を立て、新たな本拠地を作り上げ、新たな指導者が立ち、武器を持った民が集結する。戦う意思が存在する限り。
逆に言えば、戦う意思さえ奪えるならば、国王を討ち取る必要は無く、城を落とす必要も無く、敵将の首など不要で、敵軍と戦う必要すらなかった。
勿論、その後国を平定するのに、まったく戦闘が起こらないという事は無いが、大勢は決するのだ。
このままではバルバール王国は戦わずに消耗していき、遂に戦う力と意思を失っていく。国境のバルバール軍は資金不足から飢え、戦いどころではなく崩壊する。その後ランリエル軍は悠々と国境を突破し、王都に達するのだ。ランリエルの大軍の前にバルバール王都は瞬く間に蹂躙される。その後ランリエル軍は各地で散発的に起こる抵抗を軽くいなし、バルバール王国を征服するのだ。
突如ディアスは、机の上に重ねられていた紙の束を右腕で打ち払った。机の周りに紙切れが散乱する。その紙くずは、数ヶ月をかけ心血を注ぎ書き上げた攻勢に出るランリエル軍を撃退する作戦案の数々だった。だが敵が攻めてこないなら、まさにゴミでしかない。
調べ上げたサルヴァ王子の人となり、そして戦歴から、サルヴァ王子の戦い方を「戦いの主導権を握る事を望み、常に攻勢に出ようとする」と認識していた。それがここまで徹底して戦いを避ける策に出るとは。
確かに、ランリエル王国で起こった反乱でも王子は戦わなかった。その時も違和感を感じてはいた。だが以前の王子と違いすぎる。何があったというのか。このあまりの違いは、ディアスの想定から外れていた。
「ディアス将軍……」
普段のディアスからは考えられぬ乱暴な振る舞いに、従弟であり従者でもある少年は心配そうに声を掛けた。
だがディアスはその言葉が聞こえていないかのように、机に肘を付いた右手で顔の半分を覆い、さらに思案に耽っている。
上官に無視されたケネスは、無言で床に散らばった紙片を拾い集めた。そして俯いて考え込む上官の横に置く。その時になってやっとケネスの存在に気付いたように、ディアスは顔を上げた。
「ディアス将軍。将軍なら必ずサルヴァ王子にも勝てます」
ケネスの言葉は、絶大なる信頼からなるといえば聞こえは良いが、実際には何の根拠の無い言葉だった。いや、彼にしてみれば、今までのディアスの実績からの当然の言葉なのだが、それでも身贔屓は否めない。
だがそれでもディアスは救われた。ケネスの言葉にではなくその存在に。普段ならしない乱暴な態度をケネスの前でして見せた。いや他の者の前ではしない、と言えた。それは紛れも無いケネスに対する甘えだった。それに気付いた総司令は落ち着きを取り戻し口を開く。
大きく伸びをし、あえて事も無げに彼の家族といえる従者に言葉を掛けた。
「サルヴァ王子は、私の予想とは違った行動を取っているみたいだ」
「戦わない事がですか?」
「ああ、そうだ。私は、王子はもっと積極的に攻勢に出ると考えていた。だが王子の狙いは、我が軍の全戦力を出陣させる事。それだけだった。しかもこちらが根を上げるまでずっと。国力に対しての負担は、ランリエルはこちらの半分以下ですむ。我慢比べをしては勝負にならない」
「では。こちらの戦力を減らす事は出来ないのですか? ランリエル軍が5万ならこちらは3万に減らすとか……。国境に構築した陣地群を考えれば相手が5万なら十分守りきれると思いますけど。あ、すみません。ディアス将軍ならもうこれくらい考えてますよね」
「ああ、確かにそれも考えた。だがランリエル軍が増員すれば、こちらはまた戦力を増やす必要に迫られる。軍勢を王都に戻したり、また出陣させたりするのも、それはそれでかなりの負担になる。物資の輸送も必要になってくるからね。当然ランリエルにも負担になるが、国力が違うから同じ負担を受け続ければやっぱりこちらが負ける」
「そうですか……。すみません。つまらない事を言って」
申し訳なさそうに俯いたケネスにディアスは優しい視線を投げかけ、その視線に相応しい優しい言葉を掛けた。
「いや、口に出して考えを言葉にするのも、頭が整理されて良いもんだよ。気付いた事があれば遠慮なしに言ってくれ」
ディアスの言葉に、ケネスは自分でも力になれるならと必死に思考を巡らす。そしてその考えを遠慮がちに口に出した。
「それでは、えーと。やはり目の前に展開するランリエル軍を倒すのは難しいのですか?」
「ああ、それはさすがに現状難しい。状況が変わればその限りではないが、今のところそれは望むべきじゃないな」
「だったら……。ランリエルにもバルバールと同じだけの負担を与える事って出来ないのですか? あ、その方法は思いつかないんですけど……」
「同じだけの負担か……。つまりランリエルにも全軍を動員させる事が出来ればって事だな」
ディアスは顎に手をやり感心した様子で呟いたが、ケネスは慌てた。彼にしてみればそれ程深く考えての言葉ではないのだ。
「あ、いえ、そこまでも考えた訳じゃないんですけど……」
しかし、すでに少年の言葉が聞こえていないかのように、ディアスは思考の海を漂っていた。
どうすればランリエル全軍を出陣させる事が出来るのか? 国境にこれ以上ランリエル軍を動員させる事は難しい。ランリエル軍は攻めてきたにも拘らず守りを固めているのだ。そして守りを固めるには5万でも十分過ぎる。たとえこちらがワザと隙を作って誘っても、サルヴァ王子がその誘いにのり、さらに軍勢を動員して攻勢に出る。という事は考えられない。
やはり状況は八方ふさがり。だが、だからと言って手をこまねいて負ける訳には行かない。総司令であるディアスにはその責任があった。敵将であるサルヴァ王子が、戦わずに勝つという高みにあるならば、ディアスはそれを戦いの場に引き摺り下ろさねばならない。
だが陸戦戦力はお互い強固な陣を敷き膠着状態である。先に手を出し、無理な攻めを行った方が負ける。戦場に引き摺り下ろしたところで勝てるだろうか。
だが不意にディアスはある事に思い至った。サルヴァ王子に勝つ事が難しいなら、王子以外と戦えば良いのだ。サルヴァ王子の指揮が届かないであろう戦場。つまり海である。
元々バルバール海軍によってランリエル海軍を壊滅させる事を想定していた。ランリエル軍の陸戦戦力はバルバール軍のそれを大きく超えるのだから、海軍の方がまだ勝算は高い。
その為軍艦の数をごまかしランリエル海軍の戦力を超えようとしたのだ。だがそれもサルヴァ王子も同じ事を考え数を偽装していた為、結局は互角の戦力となっている。
軍艦の数はバルバールが劣る。だが海軍の質は上回る。それを想定しての戦力は互角であるという分析である。ならば海軍の将の質で上回るしかない。
本来、味方の将が敵より優れているという前提の作戦など噴飯物だが、今回根拠が無い訳ではない。何せバルバール海軍とランリエル海軍とは戦闘経験の実績に雲泥の差が有るのだ。
勿論ランリエル海軍にも才能ある提督が存在するだろう。だがその才能も開花するには経験が有ってこそだ。経験なき天才が大活躍するなど、物語の中だけである。もっとも万に一つはある。だが今のバルバール軍に、その万に一つを考慮する余裕は無い。
「ケネス。提督のライティラに会いに行く。準備を頼む」
バルバール艦隊は海戦当初の対峙以降は、ランリエルとの国境に一番近いカルナという港に駐留している。艦隊同士がお互い毎日出撃し、対峙するなど無駄な行為である。ライティラもカルナ港に居た。
「将軍が自ら出向くのですか?」
ディアスの思考が読めぬケネスは、突然の出立の言葉に驚きの声を上げる。陸戦と海戦の両方の知識を有する将軍などほとんど居らず、そして総司令官は陸戦の将軍がなる。その為海軍は、総司令の要請により出撃はするが、指揮系統はほとんど独立していた。とはいえ、序列で言えば一提督より総司令の方が上なのは言うまでもない。
「ああ、どうせこちらの戦場は膠着状態だよ。私が居なくても困りはしない。それに各将には何があろうと持ち場を離れずに守りぬけと言い聞かせてある。問題ない。それより今は海軍が重要なんだ」
「分かりました。すぐに準備をします」
こうしてバルバール軍総司令フィン・ディアスは、状況を打破する為、ライティラ提督の元へと急いだのだった。