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愚者達の戦記  作者: 六三
征西編
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第30話:ランリエル軍出陣

 セレーナの葬儀の夜、後宮にあるアリシアの部屋の扉を叩く者が居た。


「誰?」

 このような時間に寵姫の部屋を訪れる者など、後宮の主であるサルヴァ王子しか居ないはずなのだが、それならば前もって役人から連絡があるはずだった。だがアリシアの言葉に返事は無く、またもや扉が叩かれる。


 アリシアは仕方がないと扉へと向かった。厳重に警護されている後宮で賊が押し入る事もないだろう。アリシアが扉を開けると意外とも言え、当然とも言える男が立っていた。


「……殿下」


 王子はアリシアの言葉に無言で答えると無造作に扉をくぐり、アリシアは体がぶつからないように身を引いた。そのまま椅子に座る王子をアリシアの気遣わしい視線が捕らえる。


 無言で来訪し、無言で部屋に押し入った王子の態度は礼儀を忘れたかのようだった。もはや言葉を発する事すら煩わしい、アリシアにはそのように見えた。


 本来自分の部屋とはいえ王子が訪問している時に、王子の断りもなしに寵姫が椅子に座る事など無いが、無言で椅子に座る王子に対し、アリシアも机を挟んだ対面の椅子に座った。


 二人の間に暫く沈黙が流れた。


 今日行われたセレーナの葬儀に、サルヴァ王子は列席しなかった。王子が何を考えているのかアリシアには分からない。だがどうしてセレーナの埋葬に来なかったのか。それは聞く必要があると思った。


「今日はどうなさったのですか?」


 アリシアの言葉は僅かながら持って回ったものだったが、王子には正確にその意図が伝わった。だが王子の返答に、彼女はその意図を理解する事は出来なかった。


「……あそこはセレーナの墓ではない」


 呟くように言った王子の言葉に、アリシアはリヴァルの墓の事を思い浮かべた。


 リヴァルの墓は礼儀的に一度訪れたが、それ以降一度たりとも足を向けては居ない。そこがリヴァルの墓とは思っては居なかった。何故ならリヴァルの遺体がそこに無いからである。アリシアの婚約者であるリヴァルはカルデイ帝国との戦いで命を落とした。遠い異国での戦いに多くの者が亡くなり、リヴァルを含めたそれらの遺体は、戦場となった帝国に埋葬されたのだ。


 だがセレーナの遺体は間違いなくあの墓に納められている。なぜ王子はそれをセレーナの墓ではないというのだろう。


 王子は気がふれたの? もしかしてセレーナがまだ生きていると思っているの? いや、さすがにそれは無い筈だった。王子はセレーナが死んだ事を理解していた。そう思い、王子を見つめ続けた。


 アリシアの疑問に答えるように王子がまたポツリと呟いた。

「あれはセレーナ・カスティニオの墓だ……」


 その言葉に、アリシアはそっと目を閉じた。頷く事の代わりのように。


 あの夜の事を知る者はアリシアを除いてすべて王宮を去っていた。神父は元の小さな教会に戻り、セレーナの侍女達は実家の公爵家へと戻っている。王宮に残って居るのはアリシア一人だった。彼らは一生あの事について語る事は無いだろう。


 ならば王子は、埋葬に出る代わりにこの部屋に来たのだろうか。セレーナが、セレーナ・カスティニオではなく、セレーナ・アルディナである事を知る者の元に。


 その後、また口をつぐみ沈黙を続ける王子に、アリシアも沈黙で答える。


 アリシアは王子の目を見つめながらも、その思考はセレーナとの思い出の中を浮遊していた。嫌な女。それがセレーナの第一印象だった。初めてセレーナと会った時、彼女はアリシアに散々嫌味を言ったのである。


 だがその考えはすぐに改められた。セレーナは王子を愛する事だけを考え、愛される事だけを望んでいた。セレーナのアリシアに対する態度は、王子を失う事への恐れだった。


 そして危機に瀕する王子に会いたいというセレーナの思いに、リヴァルの最後に立ち会えなかった自分とを重ね合わせ、王子に会いに行くのを手伝ったのだ。王子の元にたどり着くまでの道中、様々な障害を共に乗り越える中で、二人の間のわだかまりは消えた。

 それからセレーナはアリシアを姉のように慕い、アリシアもセレーナを妹のように想った。


 セレーナはいつも王子の身を案じていた。


 セレーナに思いを馳せていた為、王子に視線を向けてはいたが見てはいなかったアリシアの視界に、弱い明かりに照らされる王子の横顔が映る。セレーナはこの男を愛していたのだ。


 今この男は自分と同じように、俯くその視線の先に何も写さず、セレーナとの思い出に耽っているのだろうか。自分とは比べ物にならないほどすごしたセレーナとの時間を。


 セレーナと過ごした時間も想いの質も違う二人だったが、アリシアにはセレーナに対する王子の想いが感じられた。勿論その想いのすべてを理解出来た訳ではない。ただ王子はセレーナを愛していた。その、単純だが、それだけで十分な事だけは理解出来た。


 今更ながらとも改めてとも思わない。無粋な言い方をすれば、これほどとは、とアリシアが思うほど王子はセレーナを愛していた。


 セレーナの事を語り合うかのようなその沈黙は、窓の外が白みがかるまで続いたが、不意に王子が立ち上がる。そして彼女に背を向け、扉へと体を向けた。


「お帰りですか?」


 続いて立ち上がりながら王子の背に声を掛ける。その声に王子は振り返り、顔をアリシアに向けた。


「今日は軍議があるからな」

「軍議?」

「ああ。バルバール攻めが近い」


 このような時に戦いの話をするとは、なんと血も涙も無い冷血漢なのだろう。以前のアリシアならば間違いなくそう考えたはずだった。だが、今、脳裏に浮かんだのは、ただただ疑問だった。


「なぜ?」


 その寵姫が一国の王子に対するには不適切な問いかけに、王子はその無礼を咎める事無く、アリシアに体を向け素直に応じた。


「帝国との戦いで、俺はお前の夫のリヴァルを死なせた。いや、お前の夫ばかりではないだろう。そして今回の戦いでも死んで行く者がいる筈だ。今俺の妻が死んだからといって止める訳にも行くまい」


 王子を見つめるアリシアの視線が変わった。痛ましげなものに。


 ならば戦う事自体をやめる事は出来ないのか。バルバールとの戦いだけではない。すべての戦いを。アリシアはそう言葉が出そうになったが、今それを問いかけるのは躊躇われた。


 自分を見つめ続けるアリシアに、王子はまた口を開く。


「リヴァルの兜をお前に返そう。あれはお前の物だ」


 だがアリシアは、視線を王子に向けたまま小さく首を振った。


「いえ。……それは殿下がお持ち下さい。リヴァルは殿下をお慕いしておりました。リヴァルも……夫もその方が喜ぶでしょう」


「そうか……」


 王子はそう言うとアリシアを見つめたまま沈黙した。そして何度か口を開きかけまた閉じるという事を繰り返した後、意を決し言葉を発する。


「お前にも、済まぬ事をした」

「……夫の事でしょうか? ですがそれは戦いでの事です。殿下の所為とは考えておりません」


 今度は王子がアリシアの言葉に首を振る。


「そうではない。俺がお前にした事についてだ。数え上げればきりが無いが……まず、お前を売女と蔑んだ事だ」


 だが王子の謝罪の言葉にアリシアは僅かに苦笑を浮かべ答える。その声には、自嘲の響きも微かに込められていた。


「確かに私は、お金を貰う為にここに来ました。そう呼ばれても仕方が無いでしょう」


 その言葉に、王子は一歩彼女に近づく。だが、アリシアを見詰め続けるその目は、自らの非を認め力無い。


「だがお前には、そうするしかない理由があったのだろう」


 その言葉にアリシアは鋭い視線で応じた。

「違います。それは違います殿下。私も、すべての、とは申しません。ですが女がお金の為に体を売るのに、そうするしかない理由が無い事などありません」


 アリシアの言葉に王子は頬を打たれたかのような表情となり、アリシアを僅かに見開いた目で見つめた。数瞬後、我に返る。

「そう……だな。すまない。埒もない事を……。いや、……とにかくすまない」


 己の気持ちを表すに適切な言葉を見つけられぬ王子は、謝罪の言葉を繰り返しつつ背を向けた。そして廊下へと通じる扉に向かって踏み出した。だが、やはり寝ていないのが堪えたのか足を縺れさせる。


「殿下。大丈夫ですか」

 アリシアは慌てて近寄ったが、王子は彼女に背を向けたまま、それを手を上げ制した。


「大丈夫だ」

 そう言いながらすぐに体勢を持ち直した王子に、アリシアは心配そうな視線を投げかけた。しかし王子はアリシアに顔を向けなかった。


 改めて扉へと足を進ませる王子の背にアリシアが声を掛ける。

「お体にお気をつけ下さい」


 王子の体が扉に手をかけたまま止まる。そして暫く躊躇った後、アリシアへと顔を向けた。

「お前も体には気を付けろ」


 王子はそれだけ言うとまた前に向き直り部屋の外へと姿を消し、扉は静かに閉じられた。アリシアはその扉に静かに頭を下げた。



 数日後、ランリエル王都フォルキアにサルヴァ王子が率いる軍勢が整えられた。


 軍勢の大半はすでに王都の外にて待機しているが、王子は近習の者や幕僚達と共に王宮から出陣するのだ。その光景は後宮のアリシアの部屋の窓からも見えた。先頭に、首から下に銀の鎧を身につけ、頭に無骨なリヴァルの兜を被るサルヴァ王子が白馬に跨り進む。


 その光景が目に入ったアリシアは、突如部屋を飛び出した。服の裾を物ともせず階段を数段飛ばしに駆け下り、庭を走り抜けた。


 門番達も出陣する軍勢に目を向けている事を幸いに、門を一気に通り抜ける。門番達が慌てて追ってきたが、アリシアは裾を乱しながら構わず走り続けた。


「どいて!」


 王子に声援を送る者達を掻き分けて進み、みなの声援を受ける為、ゆっくりと馬を進ませていた王子にアリシアは遂に追いつく。


 そして王子が乗る白馬の前に、滑り込むように飛び出した。飛び出してきた者に王子は思わず手綱を引いて馬を止める。


「アリシアか……。どうした」


 そう言いながら白馬から降り、リヴァルの兜を脱ぐ。王子の近習や幕僚達も王子が下馬した事により、続いて馬から降りる。


 王子の行軍の前に女が飛び出し、その行軍を止めるという前代未聞な状況に、群衆も王子に続く将兵も戸惑った。だがその肝心の止められた王子が激する事も無く下馬した事に、誰もが手を出しかねる。


 後宮からここまで走り抜けてきたアリシアは、肩で息をし王子の問いに答える事が出来ない。その内彼女を追いかけて来た門番達も追いついて来た。だが追いかけてきた女を王子が見咎めない事に、門番も彼女を捕らえるべきか躊躇した。


 やっと息が整ってきたアリシアは、それでも荒い息で王子を見つめて口を開いた。


「どうかご無事で」


 王子もアリシアを見つめる。


「ああ。必ず勝つ」


 しかしアリシアは王子の言葉に首を振った。


「そのような約束はして下さらなくても結構です。ですが約束して下さるなら……必ず生きて帰ってくると……そう約束して下さい」


 必ず生きて帰って欲しい。それは出陣のたびにセレーナが王子に向けた言葉だった。その度にサルヴァ王子は、言葉を贈ってくれるなら武運を祈ると言えと、セレーナに言い聞かせていたのだ。


 王子は天を仰ぎ、そこに居る誰かに視線を向けた後、またアリシアと向き合う。


「分かった。必ず生きて帰ってくる」


 そう言うとアリシアを改めて見詰め、アリシアも王子に応えた。アリシアを追いかけて来た門番。王子の近習、幕僚達。そして王子を見送る為に集まった多くの者達が見守る中、二人は見詰め合っていたが、おもむろに王子が動く。


「では」

 短く言い、改めてリヴァルの兜を被り、白馬に身を乗せた。他の者達もそれに続く。王子はもう一度、アリシアへと顔を向けると白馬の腹を軽く蹴り、ゆっくりと進みだした。


 その背をアリシアは見詰め続けた。王子が城門を通り過ぎ、その姿が見えなくなった後も、しばらくその場に佇んでいた。

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